切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

市川神社 京都市右京区

2021-06-16 22:06:29 | 撮影
市川神社



『市川神社
祭神 速秋津日子神 男神
祭神 速秋津比売神 女神

速秋津日子神 速秋津比売神
共に海の神、三神の一桂であり 水戸の神  二神のそれぞれ 一柱である またそれら ニ神
伊邪那岐神 伊邪那美神
御子神であり速秋津比売神は速秋津日子神の妻神である

由来
「水戸(みずと)」は水の出入する門口である
その昔 大堰川 「桂川」 度々氾濫していたが 渡来人である 秦一族によって太秦一帯の治水灌漑がなされ 水に縁のある これニ神が守り神として 秦氏によっ 祀られた
貞観 十三年四月吉日 従五位を授かり 太秦村小字大石中里の 神は 山王大権現神が祭られている 木島神社祭礼の五社の鉾の ニ番である
廣隆寺 牛祭り 祭文の中に

總ては日本国中の 大小の神祇は田中に は 阿らねども稲積片山 にはあらねども 榎本椙本、木がらき 藤の森、 嵯峨の奥なある 一本ふし打れては 軈てうさい

祭文の一部である
神社はつねに泥沼の中にあって 洪水でいつも水の上に浮かんでいる様であった
境内の中央東南の角に 御神木の大杉があり〆縄が 張ってあり大人五名が手を広げても太く高さ約三十米あったと云う その木も大正後期に雷が落ちて 枯れてしまった。
今の神社の形は昭和中期に なってからの姿である

 木島神社記
 廣隆寺傳自
 太秦村誌より』 (説明書きより)
 (*一部、判読困難字があり、不正確さの可能性があります。)

  

 市川神社は、京福電鉄嵐山本線 太秦広隆寺駅から南へ数百m行ったところにある。周囲は住宅密集地であり、そんな中にだだっ広い、草むした広場が目に入るのですぐにわかる。ただパッと見ただけではこれが市川神社だとは気付かない場合が多いだろう。というのも鳥居も祠もその広場の南の端に鎮座しているからだ。正直非常に目立ちにくい。
 正面は東側にある。鳥居をくぐると一面雑草が生えて、手入れがなされていないような状態の広場がある。これ全体が神社の境内かどうかは分からない。鳥居をくぐってすぐに小さな祠があり、これが市川神社だ。由緒については木板に墨書きされていた。上に掲載しておく。ただし文字が一部、略字を使ったりしていて分かりにくい部分があった。

 

 由緒書きによると、貞観十三年に従五位を授かり、とあるので、それよりかなり以前からこの辺りにあったものだと思われる。貞観十三年というのは西暦で871年というから、平安時代の比較的初期に当たる。そういった意味ではかなり長い歴史を誇る神社だ。説明書きには、この地域の灌漑などを行ったのが渡来系の秦氏となっている。これは様々なところで証拠も残っており、そのような活動そのものは奈良時代以前から行われている。そういった点から考えると、桂川などの氾濫にしても、秦氏の行って来た工事にしても天平時代など、かなり古い時代となる。そういった点からこの神社も奈良時代以前に祠が建てられていたのではないかと考えるのが適切ではないかと思える。
 この神社の祭神が、今まで聞いたことのない初めての名前であり調べてみると、海の神・水の神であり、二者は夫婦神でもあるという。この場所に水の神が祀られているということは、説明書きの中にもあるように、平安京維持のために自然の川である桂川だけではなく、運河のようなものが掘られ、小さな川の流れがあちこちに作られた。ただ桂川を始めそれらが当時の護岸工事の不備から、度々氾濫を起こしそのような災禍から人々を守るように、この祠が建てられたのものだと考えられる。
 今現在、近くを細い川が走り、少し離れたところを桂川から水を引くような形で、有栖川や天神川などが流れている。このように人々の生活にとって絶対に必要とされる、大切な水の守り神として、この神社が存在しているということは、平安京の人々にとっても極めて重要なものであったはずであり、おそらくかつてはもっと大きな神社であったのではないかと考えられる。今現在となってはあまり目立たない小さな神社でしかないが、人々の願いが強く託されているという意味では、大きな存在だと言える。




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