『真宗大谷派 小野山 浄慶寺
宗祖 親鸞聖人(一一七三〜一二六二)
本尊 阿弥陀如来
当寺は尾州中崎郡宮田村(愛知県一宮市富田夜宮)に所在した浄土真宗 浄慶寺であり、戦国の世、織田信長の命により、複長の中場家・富田家と共に京都へ向かった。途中、近江国浅井長政の擁護を受け蓮如上人の木像を授かった。また、安土城築城にも檀信徒が携わり天守閣の天井絵を画い た木村光頼(狩野山楽)も檀家となり共に信長の亡き後、豊臣秀吉に懇願され上落したといわれている。京の地に入った折りには徳川家康の加護のもと、慶長九(一六〇四)年、当地御幸町竹屋町南の地に、ほぼ現在と同様の地形で堂屋が建立され真宗大谷派(東本願寺)末寺となる。よって当時の住顧法名釋良祐律師を浄慶寺の開基とする。
この地は、およそ八百年前、源三位源頼政公の旧館の地で、境内に残る石地蔵は、当地の地主(その土地の守り仏)として大切に受け継がれている。
[山号の由来]
桃井宮家の御料地であった小野(京都市左京区上高野小野)に小野山が走り、その山中にあった宮家の御殿を拝領して当寺の本堂と成した。そのご縁により「小野山」の山号を賜った。
当寺四世阿得院釋元程は和歌譜に優れ、桃井宮の師資となり、よって宮より厚い加護を受けた。元治元(一八六四)年禁門の変で当舎が全焼した折りも、その遺続により梶井宮家から妙心寺門前に仮堂支援を受け、程なく本堂も再建された。
現在 ニ十一世住職 釋浩彰』 (駒札より)
* 駒札の文字が霞んで、判別できない箇所もあり、一部誤植の可能性があります。
京都御所の南側にある。創建は江戸幕府が開かれた翌年の1604年。しかしその元になるものは平安末期の武将源頼政の邸宅があったところとなる。そう考えると実に 800年以上もの間この地に邸宅があり、それが途中でお寺になったということになる。頼政の邸宅にあった石地蔵が今現在も寺に残るという。もともと浄慶寺そのものは尾張国(尾州)にあり、浄土真宗のお寺であったという。このお寺については戦国時代に織田信長や浅井長政などが関わっており、その命によって京都の地に新たに創建されたという。その際浄土宗の東本願寺派のお寺として創建された。
寺の正面はかなり小ぶりなもので、山門も決して目立つものではない。駒札がなければ、かなりな由緒のあるお寺であることは見逃されてしまうだろう。門は閉まっていたので身を乗り出して境内の撮影をしたが、奥に細長いかなり狭い境内だった。その奥には広い土地もあったのかもしれないが、本堂らしき建物も小さなものに思われた。見えていたものが本堂であったのかどうかは確信が持てない。 800年前の石地蔵や浅井長政から送られたという 蓮如上人像もあって、公開日には是非見てみたいものだと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます