信正山 本栖寺
『信正山 本栖寺 の沿革
当山は京都市堀川四条 日蓮宗大本山 本国寺○○須信正院( 慶長六年創建)同本須院( 慶長八年創建)院跡 合併 した寺である
世界大戦の時 洛中に 起って 戦塵の余波は 寺院建造物の 強制疎開に及ぶ
幾春秋をかけて ここ 伏見桃山に 移住新築する
天地無窮の大自然を 千古の歴史 文化との 調和の中に 人間の尊厳○が確かめられ 宗教的境地に 陶冶される 絶好の地として 定む まさに法華経の 徳人々の 心に 安らぎて 求め 与える 本格の 栖である
昭和58年4月 20日 立教開示の日』
(境内の石文より)
*○は判別不能 *判別した文字に一部、誤りの可能性あり
伏見区の墨染から六地蔵を結ぶ墨染街道沿いにある。とはいっても街道からは北のほうへある程度向かって行かなければならない。全体が丘陵地であり、お寺のある場所はその辺りの最も高いところとなる。たどり着くのははっきり言ってややこしいし難しい。
お寺全体は山門からしてかなり新しく、比較的最近に改築されたものと思われる。境内に入ると非常によく整備されており、背後に広大な墓地があるために、墓参りの人たちのためにも非常に綺麗に整理されている。本堂も比較的近代的な雰囲気を持っており、これも割と新しいと思える。境内を入ったところに石に刻まれたこの寺の沿革が記されていた。
ただ彫られた文字がかなり癖のある文字で非常に読みにくく、一文字ずつ判別して行ったが、その結果が上の文章だ。一部判別不可能なところもあるし、判別できても似た文字の間違いかもしれないところもある。しかしおおよその沿革については、なんとかくみ取れそうだ。
元々は別々のお寺が江戸時代初期に創建され、後に合併されたものだと思われる。それらのお寺は今の堀川四条付近にあったものだろうということで、長い間その地にあったものが、先の戦争の結果、今の伏見区に移ったものだということのようだ。結果的には京都市の方は一部爆撃を受けただけで、京都市内の大半は無事ではあったものの、戦時疎開の意味を含めて桃山の地に移ってきたものと言える。
読み取った文章には文法的におかしな点がいくつもあり、これは私のような素人がなかなか読み取れないので仕方がない。本来はまともなきちっとした文章であったろうと思われる。
お寺の場所が高いところにあるので、ここから宇治市から京都市の六地蔵方面が一望できる。墓地としてもこのような場所にあると、亡くなられた方々も毎日下界の様子を楽しむことができるのではないだろうかと思えた。
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