見出し画像

今日のころころこころ

2019・12・20 解体が進む浦賀ドックへ

京急浦賀駅前。
約120年もの間ここにはドックがあった。
ということは、今生きてる人全員にとっての浦賀前の景色は、この景色ということだ。





開国の日本は西洋に追い付くために驚異的な情熱をもって突き進んだ。
浦賀ドックは、外国から買い入れるばかりの船を自国で造船すべく、明治29年に当時の農商務大臣・榎本武揚などの提唱により陸軍と民間から用地を取得することから始まった。
明治30年に資本金百万円で浦賀船渠株式会社が発足し、ドイツ人技師ボーケルムを雇い入れてドックを建設した。ボーケルムの月給は150円だったという。
このドックから沿岸警備用砲艦ロンブロン号が進水したのは明治35年。
浦賀船渠株式会社から浦賀重工業株式会社。浦賀重工業株式会社から住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場となり、2013年に閉鎖された。
今年度中に解体される。






街の中に残る古い建物も残りわずか。





このレンガの向こうには、明治32年に建設された日本初のレンガ造りのドックがある。
幸いなことにレンガドックは残る。










ここから船造りに携わった様々な人々の思いをのせて様々な船が千隻以上進水していった。
三菱重工の香焼も売却されるようだ。




時代は流れる。景色も変わる。
閉鎖された浦賀ドックのレンガドックをみながら、これが解体されたらもったいないな。みなとみらいのドックヤードガーデンみたいに活用できないものかな。と思っていた。
レンガドックはどう活用されるのかわからないけど、跡地は駅前のまとまった土地だからきっと高層の複合施設ができるんだろうな。
いつの間にか浦賀の渡しへの遊歩道が完成していた。
もう新しい一歩を踏み出してる。



コメント一覧

kinntilyann
tkgmztさまこんばんは〜でございます(^^)/

法「人」です。
人と同じです。
生まれて育って盛りをむえてやがて下る。
人が子を残すことでつなげていくように法人も新陳代謝を繰り返しながらつなげていきます。
内容は時代に合わせてあるいは流されて違ってきます。親と子がたとえ同じ道を歩んでいるように見えても微妙に違うように。
でもなぁ・・・
工場の跡地には例外なく商業を中心とする複合施設。
金を使うものばかりできても、その金はどっから出てくるんだろ?
とかも思います。。
ん。。。
tkgmzt2902
色々な感慨が浮かびます。20万トンドッグが出来たときは、日本も上り坂。上ったら下りしかないのでしょうかね~。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「かながわの建築物100選・神奈川の素敵な建造物」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事