甘裸哲学

哲学をするのに特別な知識は必要ありません。このブログはあなたの固定観念を破壊して、自由自在に考える力を育みます。

人間とは何か

2012-12-14 13:00:04 | レポートや発表
私はどうして今ここにいるのだろう。私は私という矛盾した世界であるから、この私に存在理由を与えられる者は私が知覚できる世界の外部にしか存在し得ないだろう。つまり本来、私にとっては無意味な生に、私が作り出した社会が無理やり意味を与えて、さらにはそのことを忘却して私は日常を生きているのだ。私たちは自分が見ているものと同じものを他者が見ていることを確認することで、私たちが同じ世界の人間であることに確信を持つ。こうして間主観的に私の存在が保障されたと感じるのだ。この安心を脅かすものとして、幽霊など、見える人と見えない人が出てきてしまう恐ろしい観念があるのだけれども、私たちはそうして生じる不安を、単なる恐怖へと変えてしまうことで、自分たちの繋がりが脅かされていることを忘れてしまうのである。人間は強烈に嫌な出来事を記憶の奥底に封じ込めて忘れてしまうといった話も聞く。人間は自分にとって都合の悪いことを忘れることで、自分にとって都合の良い現実を生きようとするのだろうか。鏡に映った自分の顔を美化して見たり、AはAすぎてAではない、といった即非の論理が働く。このような逃げ道を潰されてしまえば、人間は人間として生きていけなくなる。そう考えるからこそ、私は弱者が教会に群れて馴れ合い、神という絶対強者に媚びることを批判しない。共同体主義を掲げ、世界的な道徳よりも、自分たちの絆を大事にするのは当たり前だと思う。自分たちのせいで腐った世界よりも、自分たちの存在を保障してくれる身近な存在を大事に思うのは当然だろう。世界に対する責任なんて当然忘却しているわけだ。自らの死に直面して自分の生の有限性に気づく、そうしてよりよく生きようとするかもしれない。しかしだ、私たちの生は他の犠牲の上に成り立っていることを忘れているのではないだろうか。自分が昇進するということは、他人が降格するということである。私が有意義な生を享受するということは、他人の有意義な生を奪うということである。これに対して、「そんなことはない!人間だけがエントロピーの法則を超越する力を持っているんだ!みんなが有意義な生を享受することができる!」などという人間原理並みのご都合主義論を述べる人間が出てくる。別にそれはそれでいいのだけれども、私はそれを公理として認めはしない。「例外のない規則はない」確かにそうかもしれない。矛盾=人間が作り出した規則に例外が生まれてしまうのは当然だ。しかし人間に例外を認めるというのは、人間を作り出した神か法則か何かが、人間と同様に矛盾を抱えたもの、もしくは間違ったものであることを意味することを忘れている。ここで、創造論者は「神は人間を自分に似た不完全なものとして創られた」とか都合の良いことを言うだけなので今は置いておこう。そう、法則が矛盾している。いや、この世界が矛盾しているのは最初から明らかだったのだけれども、改めて軽く述べよう。ゲーデルの不完全性定理より、自らを完全だと証明できる世界は不完全、自らを不完全だと証明できる世界は完全、という残念な定理が証明されてしまった。自然の斉一性原理なんて誰にも証明できないし、科学なんて最も実用的な宗教にすぎないことが分かってしまった。一般人はこのことを知らない、否、知ってもすぐに忘却してしまうのである。「世の中には知らない方が良いことがたくさんある」というが、これもその中の一つなのかもしれない。
 ところで私に意識はあるのだろうか。今、目の前にPCが見えてるのは確かなのだが、これが実在するか、私に意識があるか、というのは全くの別問題である。自分で自分に意識がないと思うなら、みんなが哲学的ゾンビであるということになる、ゾンビワールドを満喫しているのかもしれない。しかし、私だけが哲学的ゾンビなのかもしれないし、結局のところ何も分からない。自分や他人に心があるかどうかなんて分かるはずがないので、植物に心があるかもしれない、などという当たり前かつ科学的に証明不可能な事柄を述べるのは全く以て無意味である。私が独我論に陥り、君たちに向かって「貴様らはゾンビだ!」などと言うのは、Twitter上でbotに対して「お前はbotだ!」とリプを送り反応を楽しむのと同様の行為であり、まともな人間のすることではない、といった主張はよく耳にする。こんな風に、自他の心について考えていても、何も新しい発見はないわけで、こういうことを考えるのは最も無駄な時間だと思うし、普段はこんなどうでもいいことを考えたりはしないのだ。このような前提のもとで何を考えても、全ては無意味であるという結論以外考えられないので、脳的器官を有するすべての生物には心があるという前提のもと、この先のディスカッション(考察)は進めていくことにする。
 自分の中の他者性について考える。脳とか心臓とか、私の臓器が勝手に動いている。こいつらは私じゃない。しかしながら私はノンレム睡眠時、すなわち脳が完全に休んでいる時に意識はないし、レム睡眠時、すなわち脳の半分が活動している時に夢を見たりする。脳は記憶であり、身体であるから、これこそがまさに私であると感じることもある。しかし、自分で自由には動かせない。このコックピットで私は体を操縦しているのだろうか。なら私はコックピットの中の何かではないか。しかし、ここで右脳と左脳の接続を切ってやると、訳の分からないことになってしまう。考えてもさっぱり分からない。
 人間のクローンを認めるかどうかなんてのは、結局は義務論と功利主義の対立でしょうか。クローンなんて意識さえ与えなければただの肉の塊なのに。脳、もしくはそれに準ずるものが無ければ意識はないという前提だったはずだ。脳死が人の死である。脳が脳として機能してさえいなければ何をしても許されるはずだ。哲学的ゾンビなんて肉の塊だから、自由に切り刻んでしまえばいい。あはははは!
 人間は答えを出したがる生き物だ。答えのない哲学で無理矢理答えを出そうとして、自分を見失い、分からない不安から逃れるために狂う道を選択する。原因の分からない病気には名前を付けて実体を与え、恐怖を減らそうとする。しかし、恐怖を減らすことはできても、ゼロにはできない。病気はやっぱり怖いし、意識のない人間に哲学的ゾンビという名称を付けたところで、私の恐怖は一向に収まらないのだ。また、チラリズムというのがある。見えそうで見えないからこそ価値があるのだという。正体が分からないからこそ私たちの感情を呼び起こすのだろう。そして、その感情に従って正体を暴くのが私たちの使命か。使命を終えれば感情は消える。なんて単純なんだろう。使命という言葉をこんな酷い文脈で使うのは、あまり気が進まないな。しかし、私は遠慮なく使ってしまうのだ。
 今までの文章では、まるで人間が絶対であるかのように扱ってしまったようだ。ほかの生物との比較なしで人間を考えるのはこれが限界かもしれない。ここから先はほかの生物との関係から、人間とは何かというテーマについて考えていきたいと思う。さて、人間を他の生物と区別する違い。それは、人間だけが言語を用いて観念を作り出すことができる点にあるのではないだろうか。イデアとか、本当の~だとか、そんなものは他の生物には思いもよらないことだろうと思う。例えば、人間にかなり近い生物と言われている猿が道具を使えるのは、道具とその使用対象が同時に視界に入っている時のみであって、使用対象が無ければ、猿にとってその道具は単なるゴミでしかないのだ。
 人間は自然の摂理に逆らう生き物である。社会を形成するくらいならほかの生き物にだってできる。人間は法律を明文化し、社会不適合者に罰を与える(人間がいらない人間を選定し始末する)。また、医療を行い、本来あるはずのない寿命を延ばすのである(みんなが価値があると思い込んでる紙切れを持つ者を選定し生かす)。紙幣を渡すことで罰から逃れることもできるかもしれない。ほかの生物にこのようなシステムを作り出すことは不可能だろうと思われる。こうして考えると、カネを使えることが人間であることの証であるようにすら感じられてしまうのが怖い。
 科学も宗教も哲学も全部人間が作り出した幻想だ。疑ったり信じたり、いろいろ考えているうちに自分が分からなくなってしまう。欲に逆らうというのも人間ならではの発想だ。すべての生物が持つ本能を人間だけが持つ理性でおさえつける。人間が人間であるために欲望に逆らう。欲に逆らって生きる人生が楽しいのか。人間は人間でなくてはならないのか。理由などないのだが、与えられた命を無駄にしようとは思えない。「大学なんて行きたくない。つまらない授業なんて受けたくない。単位なんてどうでもいいから今を楽しく生きたい。」しかし現実はそれを許さない。今しかないがゆえに未来に囚われる。そんなものはないのだけれども、私たちは人間なのでそれについて考えざるを得ない。意味はないのに意味を見出す。意識なんてないのに意識があるという。そんなものはないと分かっていても人間であるがゆえに無理矢理こじつけてしまう。そして、これが人間なんだって思う。
 ああ、人間は独我論とか虚無主義といった中二病になるんだ。これは人間特有の病気だ。
正義とか悪なんてものは存在しない。強いて言えばどちらも同じものだ。生も死も等価だし、このような言語ゲームは時間の無駄だと思う。もちろんすべては無駄であるから、今生きているのが非常に馬鹿らしく思える。でも死ねない。本能が自殺を許さない。私はそれを理性でおさえつけようと頑張るのだが、全く以て無力であった。死にたいのに死ねない。でも生物は死ぬために生きている。アポトーシスとかじゃなくて全部。すべての生き物は死ぬために生まれる。この宇宙も消えるために今あるんじゃないかな。エピジェネティクスなどといったような生物用語も、結局は、元は同じでもどんな環境に生まれるかでどのような人間に育つか変わるって言ってるのと同じだろうとしか思えない。複雑な真理をフラクタルとして処理し、これこそが生命の神秘であると言ったりする。生物なんて研究して何が楽しいのだろうか、などと物理学科の私には批判的にしか見れない。他人を批判することで自分を相対的に高めるのは常套手段かもしれない。
 このように、考えれば考えるほど疑問が増えていき、先には疲弊しかないように思える。「どうして哲学なんてしているんだろう。」「道を間違えた。」「もう考えたくない」。私は考えるのに疲れてこのレポートをしばらく放置して、自分のやりたいことをやった。そして、ある時突然に悟ったのだ。「虚無は絶対的な幸福を我々に与えてくれるのだ」と。とにかくそう確信したのだ。理由なんてない。これは勝利だ。私は自分のことを絶対的に信用しているから、この確信は如何なる外的圧力を以てしても揺らぐことはない。今では、この「人間とは何か」というテーマについて考えることこそが、人間にとって大切なことなのではないかと思うようになった。宗教なんていらなかった。そんなものは他宗教の信者と対立するばかりで、ちっとも楽しくないものだ。私は私なりの答えを見つけた。そこに神はいない。虚無こそが私を満たしてくれる最上の幸福である。私は狂ったのかもしれない。しかし、それこそが私にとっての絶対的幸せなのである。人間は幸せを求める生き物だ。もう私は人間ではなくなってしまったのかもしれない。もう何も欲しいとは思わないし、ただ生きてるだけで楽しいのである。まあ、一番楽しみなのは「自己の死」であるが、そんなものはそのうち勝手に来るだろう。私は今ある生を楽しむことにする。
 このレポートのおかげで私は変われました。レポートにまとめることで、自分の考えがはっきりしたし、ストレスも解消され、今までの悩みが嘘みたいに消えてしまった。もちろんこのレポートは他人に読んでもらうことを前提に書かれている。人間は他人との繋がりの中にしか幸福を見出せない、といった意見も聞くし、私はそれに同意する。このレポートを他の誰かが必ず読んでくれると確信しているからこそ幸せなのであり、この確信に根拠などありはしない。自分の考えを他人にうまく伝えられないとき、人間は怒るのかもしれないが、そんなこと、このようなレポートでは関係のない話である。このレポートは返却されないからこそ私に幸せを与えてくれているはずなのだ。入試で落ちた後に成績開示なんて要求しない方が良いと思う。ぎりぎりで落ちていたのなら、その後の人生で一生後悔することになりそうなものだからだ。知らない方が幸せなのだから、私は知らない権利を発動する。こういった権利は人間に特有なものであり、こうした権利を行使することで、自分が人間であると実感する。「ああ、まだ人間だったのか」ってね。

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