甘裸哲学

哲学をするのに特別な知識は必要ありません。このブログはあなたの固定観念を破壊して、自由自在に考える力を育みます。

原子の安定性(ワイゼッカー・ベーテの質量公式)

2013-01-13 03:29:29 | レポートや発表
E=mc^2(イーイコールエムシーにじょう)は
質量とエネルギーとが等価であることを表した式です
エネルギーを持っているということは不安定であるということであり
つまり、質量の小さい原子ほど安定に存在できるということになります
原子の質量は原子核の質量とほぼ同じなので(電子の質量は陽子や中性子の質量の1840分の1程度しかない)
原子核の質量公式(ワイゼッカー・ベーテの質量公式)を用いて、原子の質量を求めます

ワイゼッカー・ベーテの質量公式では、負のエネルギーである結合エネルギーが原子の質量の核であるとします(原子における原子核のような重要さ)
※結合エネルギーは普通のエネルギーとはエネルギーの意味が逆なので、普通のエネルギーと同列(一緒)に扱うときにはーをつけてやる必要があります
(結合エネルギー)=(体積項)ー{(表面積項)+(クーロン項)+(対称項)+(偶奇項)}です
今からこれらの項一つ一つを順に説明していきます

1.体積項(陽子も中性子もほぼ同じ体積であることが前提)
これが結合エネルギーの核です(他の項は全て補正項)
核子(陽子や中性子)は互いに引力で結びついています
体積が多いほど、核子の数が多くなり、結び付きが強くなります
核子の数に比例して働く力によるエネルギーです
この項だけしか見ないと、体積が多いほど質量が少ないという狂った結論を導いてしまうかもしれません
だから、他の項で補正してやる必要があるのです

2.表面積項(原子核を球体に近似し、その半径をrとします)
体積項では、全ての核子に同じ引力が働いているように考えましたが
実際は、表面の核子は周りの核子の数が少なく、受ける引力が少ないので不安定です
この項は表面積(r^2に比例)に比例して働く力であり
核子数と体積(r^3に比例)が比例することから
核子数の三分の二乗に比例して働く力によるエネルギーであることが分かります

3.クーロン項
陽子間に働くクーロン力(+同士の反発)を考慮するための項です
陽子数をzとすると、全ての陽子の中から二つの陽子を選び出す組み合わせは
zC2=z(z-1)/2となりますね?これは陽子数が充分多いものとしてz^2/2に近似します
また、クーロン力による位置エネルギーはrに反比例しますから
この項はz^2/rに比例して働く力によるエネルギーであると考えられます

4.対称項
実験により、陽子ー陽子間や中性子ー中性子間に働く引力よりも
陽子ー中性子間に働く引力の方が大きいことが分かったので
体積項では、陽子と中性子の数が同じであるときの全体の引力の平均を基準の引力として考えてしまったので
この項により、陽子数と中性子数の差に合わせて、働く引力を低く補正します
陽子数をz、中性子数をn、核子数をAとすると(z-n)^2/Aに比例する力だと考えられます
Aに反比例するのは、核子数が多いと、クーロン力による効果が強く出て、この効果が弱まるからです

5.偶奇項
実験により、陽子数も中性子数も偶数の方が安定であることが分かりました
だから、片方が偶数でもう片方が奇数の時を基準にして
両方とも偶数の時にーα、両方とも奇数の時に+αのエネルギー補正です(αは核子数のルートに反比例しますが、うまく説明できません)
ちなみに両方とも奇数で安定な原子は、水素・リチウム・ホウ素・窒素だけです

以上で簡略化した説明は終了します
このワイゼッカー・ベーテの質量公式は
4や5のような、実験データから導き出した説明の難しい項が含まれているため
半経験的質量公式と呼ばれます
一番安定な原子が鉄であることは、常識的に知っておいてください
この質量公式は、原子核を液的模型に照らし合わせて作ったものです
追伸により、殻模型についても扱うかもしれません

生命倫理の諸問題に関する考察

2013-01-11 15:53:55 | レポートや発表
一時間かけて急遽レポートを書きました。長いので、暇な方以外は読まないことをお勧めします。


授業教室に着いた時には既に多くのレポートが提出されていた。人間は忘れる肉であるということを前回のレポートで確認したが、こうやって大切なことを忘れたせいで、嫌な現実に直面すると、人生そのものが嫌になり、全てのことを忘れ、消えてしまいたくなる。
というわけで緊急にWikipediaに記載されている生命倫理への考察を行うことにする。着床前診断等の遺伝子診断、人工妊娠中絶、代理母出産、脳死、臓器移植、安楽死・尊厳死、インフォームド・コンセント、終末期医療、看護倫理、ヒトクローン研究、実験動物の扱い、遺伝子組換えによるバイオハザードの規制、遺伝子組換え作物による遺伝子汚染、これら全てについて今から考えてみます。
まずは着床前診断等の遺伝子診断及び人工妊娠中絶。生まれる前に子供がどのような障害を持っているかなどが分かってしまう素晴らしい技術である。その素晴らしさゆえに、残念な子供は産まないという選択肢を用意してしまう。私自身、自分が残念な子として生まれるのは絶対に嫌だし、この技術により周りの子供達が選ばれた優秀な者ばかりになってしまうというのなら、なおさら生まれたくない。この技術が本当の意味で確立されてしまえば、我々の社会は必然的に優生思想に支配されてしまうのである。パラダイムが変わっていくのを、私はただ傍観することしかできない。私は、必要悪としてこの人工中絶を支持しようと思う。
次は代理母出産。結局は代理で産んだ母親が後になってやっぱり自分の子供として育てたいなどと言い出し、裁判になってしまう問題だろう。しかし、最初に述べた出生前診断技術の真の確立により、どのような子供が生まれるのか、生まれる前からはっきりと分かってしまうのであれば、代理母に勝ち目は無くなるように思う。
次は脳死、臓器移植、安楽死、尊厳死についてだ。現在では脳死が人の死であったように記憶している。脳が心を生み出すことだけは確実であり、心のない人間は哲学的ゾンビであることが確定しているということであるから、このような単なる肉の塊は既に人ではないと考えるのだろう。人間は考える肉であり、考えない肉は人間ではないのだ。だから、このゾンビから臓器を勝手に持っていくことは、その臓器が無償で他の生きる意志を持つ(心のある)人間の命の救済に貢献する限りにおいては正義である、と私は考える。実際この資本主義の社会では、金のない人間が自分の臓器の一部を売って生計を立てているのかもしれないが、それが互いの同意を経たものである以上、私には悪いことであるとは言えないのである。また、心が満たされない人生など生きるに値しないというクオリティオブライフの観点から、尊厳死や安楽死を悪いことであるかのように言うのはおかしいと思う。
次はインフォームドコンセント、終末期医療及び看護倫理についてだ。はっきり言わせてもらうと、こんなもの私にとっては何の問題でもないのだが、一般に考えられているであろう話を予測して、何とか考えてみようと思う。リスクの高い治療行為を行う際、当然、それに関する説明とそれに対する同意が必要なわけであり、末期の患者にも、彼の置かれている状況を明確に説明すべきである。また、身体障害者の性欲処理のため、看護師が患者の性器をいじめたりするのは、患者が望み、看護師が同意する範囲でなら問題ないと思うし、患者には看護師に強要する能力はないであろう。また逆に、看護師が動けない患者の性器をいじめて遊ぶのを至上の快楽だと認識しているのであれば、患者はどのような手段を用いても家族か何かに助けを求めるべきであり…..いや、そのような人間が看護師になれてしまう国家試験か何かをきちんと見直す必要があると言えるだろう。
次はヒトクローン研究及び実験動物の取り扱いについてだ。今日(2013年1月11日三限目の生物学史の授業)の発表でも言及していたものがいたが、自分の臓器のためのクローンを自分で作ることはできない(遅すぎる)のである。つまり、自分のためというよりは、自分の次の世代のために作るのがクローンであり、そういう意味では、私利私欲のために悪用される危険性は薄そうだ。しかし、自分の子供の臓器を売って金にしようと考えたりする連中もいるだろう、という反論が出てくるのかもしれないが、そんなことをするよりは普通に子供を作った方が簡単だし確実なのである。自分がもう一人いることで、そいつばかりに面倒な学校の授業を受けさせて、自分は家で一日中ゲームをしていたりすれば、いつのまにか偉くなったクローンに自分が取って代わられてしまうという逆説が起こるのである。そうして、結局は交互に授業に出席することになり、これは本当に二人分の生活費と採算の合う儲けものなのかな、と疑問に思ってしまう。私としては、「クローンは哲学的ゾンビとして、その臓器のために価値がある存在」として定義したい。とにかく、心発生のメカニズムが分からない以上、クローン技術は人間に応用してもあまり意味がない、と私は強く思うのである。実験動物の取り扱いについて、とは言うけれど、結局は人間以外に心があるのかどうかについて考えているに過ぎないはずだ。痛みを感じるというのは心の現象であるし、このあたりの問題では、心について深く考える必要があることは明確である。そもそも脳のような機関は下等生物からちょっとずつ進化してきたものであり、もし人間だけに心があるとするならば、それは「神が人間を創った」と言っているのと同義である。逆に、全ての生物に心を認めるなら、脳の、最小単位である構成要素一つ一つに原意識なるものを認める必要があり、これだと、石や水に心があってもおかしくないように思われ、全ての物に心が宿るとするアニミズムとなってしまうのである。結局、心の話をすると宗教の話になってしまうので、ここではこれくらいで逃げることを許して欲しい。
最後に、遺伝子組み換えによるバイオハザードの規制及び遺伝子組み換え作物による遺伝子汚染についてだ。人間が自分達にとって都合の良いように自然環境を変化させてきたことは自明であるが、この問題は、我々と同じ環境に生きる他の生物までも我々にとって都合の良い生物に変えてしまって良いのかという問題である。心があるかどうかは別にして、人間が他の生物を見下していることは良く分かった。個人個人が犬や猫を家族のように扱おうが関係ない。人間は犬や猫を石や水と同じように扱おうとしている。人間の命は他の動物の死骸の山の上に成り立っており、頂点に君臨する人間様の命を、普段は平気で食料のために他殺(他人に殺させること)しているくせに、実験の時に限って、「動物が可哀想だ!今すぐ実験をやめろ!」などいうのはナンセンスだと思いますよね?動物愛護団体の人間は普段動物を殺させて食べたり、植物を殺させて食べたり、結局生物を大虐殺させているというのに。彼らは植物の命に価値はないと言っているだけの団体だ、と私は認識している。 
遺伝子汚染なんて僕の知ったことじゃないよ。他の生物、いや、もっといえば、赤の他人がどうなろうが僕には関係のない話だね。遺伝子組み換えに成功するか失敗するかなんて僕には分からないし、その結果何が起ころうとも、私にはそれを受け入れることしかできない。どんなことでもやってみなくちゃ分からないし、そんなことを言ってしまえば、最初に述べた着床前診断等の遺伝子診断が真に確立される日なんて永遠に来ないだろう。結局は確率の問題だ。シュレーディンガーの猫なんて皆死ねば良いのにと思う。あの猫を確実に殺す方法なんてない。発展する科学技術の負の側面だけを発展する前に殺すことなど不可能である。私は研究者達を信じ、彼らが素晴らしい食料を作ってくれることに期待している。
今回は話さずに逃げたが、宗教上の理由で医療が行えなかったりする問題など、他にも様々な生命倫理の問題があるだろう。これらを語るには宗教などについて詳しく話す必要があるので、自分の能力を考えて私は逃げたのである。生命倫理の問題は人々が目を背けたくなるようなものばかりであるし、それについて深く考えたせいで欝になってしまうかもしれないので、私はこのような話をあまり他人とは共有したくない。ただ、何も考えずに滅茶苦茶なことを言っている人間の矛先が私に向いたときだけ、私はこのような話題に関する残酷な知識を彼に与えるのである。この話に続きがないことを望む。

追伸(続きではありません):この記事に関するTwitterでのやりとりを補足します(妊娠中絶の内容を以下に掲載)

ブログでは妊娠中絶の問題を、障害を持った子供が生まれる場合に限定しているけど、レイプされた場合とか普通にリア充してたらできちゃった場合とか色いろあるよ。だから一部だけを取り出して結論付けるのはあんまり良くないと思う。

・ちなみに僕は中絶反対です。身体障害の女の子を産ませて、毎日性的虐待したいです(*≧∀≦*)
・レイプで産まれて来た子にはレイプしたアイツの血が混ざってる。ああ、憎たらしい。 毎日こき使ってやろう。金のある奴と結婚させて、大金をせしめてやろう。
・リア充してたら出来ちゃった子は、貧乏のうちにくそリア充と仲良く心中しなよ?wwwwwwww
 
指摘された「色いろな場合」について述べました。これでも「中絶はダメだ!」と言うならご自由に。

レイプで出来た子どもを産む親とかいんの?初耳だなwwwwwwww

日本では珍しいかもしれないけど、西洋辺りだと「レイプされた子供でも罪はないから生むべきだ」っていう主張はある。

罪はないから?原罪があるだろ?あいつらクリスチャンが中絶を認めないのはry

この話は宗教批判にしかなりそうにないので停止しました

だって、人の形をしたものから手や足を千切りとっていくんだから・・・。あと、そういう「中絶は殺人」論が出てくる以上、殺人の可能性が出てくるから、各々の都合で中絶していいのかどうかも怪しくなってくるのさ。だからこそ、一つの大きな問題になってるんだよね。

グロいと言ってしまいましたね。あんなものは人じゃない。ゾンビですよ!ああ!気持ち悪い!!!

私のブログでは心が無い人間はゾンビとして扱うと最初の方で述べたはずだ。考えない肉をいくら殺しても、稀少種で無い限りは罪にならないだろう。

君のブログの中ではそうかもしれないけど、一般社会では仮に心がなかったとしても人間は人間だからねぇ・・・。

いいえ。一般社会では脳死が人の死です。脳が死ぬことは心が消えることと同値。心が無いのは脳が出来ていないに等しい。これはその人間がまだ人間として生まれていないことを示すね(。・ω・。)ゞ?

でも、そうだとすると脳が出来る過程で心が生まれる瞬間を自分たちは判断できないから、裏を返せば受精卵でも心はあるぐらいの暴論が言えてしまわないかな?もしくは、脳はあっても心がないという暴論も言えてしまうよね。でも両方とも一般社会では認められないよ?

受精卵でも心があるなら精子にも心がありそうだな、結局はアニミズムか。この精子殺しめ!人に心がないなら他の動物と同じだね。潰しがいのない論だ。それで君はどの論で僕の論を潰してくれるの?

一般社会ではそもそも心がない人間なんていないことになってるから、もしもそういう存在が出てくれば、人外、化け物扱いじゃないかな?

とりあえず、心の有無は僕達には判断できないから、「胎児には心がないから中絶は認められるべきだ」という論は根拠には成り得ないのではないか、ということが言えるんじゃないかな。

記憶がないなら心はないよ。自我が芽生えるのはいつだっけなー?(一般論!) 今度こそノシ

ちなみに、脳死とか植物人間が「死」と認定されたのは、医療の進歩で無理やり生かせることが出来る様になって、病院のベットが埋まってしまったのと、臓器移植が可能になったけれど臓器が足りない、という合理的にミスマッチを解消するためだった気がする。(うろ覚え)

胎児に記憶は無いかもしれないけど、やっぱり心の有無は判断できないよ?あと、胎児の頃の記憶って有るんじゃない?その方面に詳しくないからしらないけど、ネットだとちらほら見かけたりするよ?

デジャヴのもう一つの側面だね!記憶の捏造はなくならない!ああ、僕は誰だろうか。

あと、脳が完成すれば人として認められるとして、たとえ生まれる直前の胎児でも脳がまだ未完全だとしても、生まれた瞬間に全ての胎児の脳が完成するというのは無理のある話じゃないかな?そもそも、脳が完成するというのはどういう状態のことを言うんだろう?

出たよハードプロブレムwwwwwwwwどうして心を発生させる装置の最小単位が完成した脳なのか。完成するまでは一切心が生じないのに、完成した後で一部を切り取っても心はあり続けるというwwwwwwwwあああああああ、わっかんねwwwwwwww

記憶があるかどうかを根拠にするのなら、生まれてから1~2年の幼児なら殺してもいい、ということになってしまうよ?

それが僕の論の負の側面だね!(*≧∀≦*)

とりあえず、心を根拠にすることをやめることをオススメ

じゃあ君は何を根拠にすると言うんだい?

生きていて幸福になる可能性があるかどうかだと思う。だから、中絶はしないほうがいいのではないかな、と思う。まぁ他人の受け売りだけどね。

大体、能力の高低ならまだしも、幸福になれる可能性の高低なんて誰にも分からないよ。中絶出来ずに不幸になる家族がたくさん増えると思うよ。僕もその一人だし。そうなるくらいなら中絶して欲しい。

その可能性は、その人自身が判断すればいいんだと思うよ。自分の人生がどうなっても、誰にも責任をとってもらえないからね。もし考えた結果、自分に見込みがほとんど無いと思うのなら、安楽死するという選択肢もあると思うんだ。まぁ、現在は病末の場合しか認められないけど。

逆に、病末のみにしか安楽死を認めない社会は、制度不充分な社会だからダメだね。自殺ダメ絶対!とか言ってる奴等の社会もあるし、僕はこの社会に産まれたことを本気で憎んでいる。そういうことはきちんと制度を整えた後で主張して欲しい・゜・(つД`)・゜・

自分も、生きたい人はとことん生きることができて、死にたくなったら痛みなく死ねる社会だったらいいな、とは思うんだけどね。ままならないものだよね。心底生きたくない人は自殺するという手もあるけど、自分としては君には生きてほしいよ。

うん......楽しく生きられたらいいのにね.........もう少しだけ頑張るよ......

人間とは何か

2012-12-14 13:00:04 | レポートや発表
私はどうして今ここにいるのだろう。私は私という矛盾した世界であるから、この私に存在理由を与えられる者は私が知覚できる世界の外部にしか存在し得ないだろう。つまり本来、私にとっては無意味な生に、私が作り出した社会が無理やり意味を与えて、さらにはそのことを忘却して私は日常を生きているのだ。私たちは自分が見ているものと同じものを他者が見ていることを確認することで、私たちが同じ世界の人間であることに確信を持つ。こうして間主観的に私の存在が保障されたと感じるのだ。この安心を脅かすものとして、幽霊など、見える人と見えない人が出てきてしまう恐ろしい観念があるのだけれども、私たちはそうして生じる不安を、単なる恐怖へと変えてしまうことで、自分たちの繋がりが脅かされていることを忘れてしまうのである。人間は強烈に嫌な出来事を記憶の奥底に封じ込めて忘れてしまうといった話も聞く。人間は自分にとって都合の悪いことを忘れることで、自分にとって都合の良い現実を生きようとするのだろうか。鏡に映った自分の顔を美化して見たり、AはAすぎてAではない、といった即非の論理が働く。このような逃げ道を潰されてしまえば、人間は人間として生きていけなくなる。そう考えるからこそ、私は弱者が教会に群れて馴れ合い、神という絶対強者に媚びることを批判しない。共同体主義を掲げ、世界的な道徳よりも、自分たちの絆を大事にするのは当たり前だと思う。自分たちのせいで腐った世界よりも、自分たちの存在を保障してくれる身近な存在を大事に思うのは当然だろう。世界に対する責任なんて当然忘却しているわけだ。自らの死に直面して自分の生の有限性に気づく、そうしてよりよく生きようとするかもしれない。しかしだ、私たちの生は他の犠牲の上に成り立っていることを忘れているのではないだろうか。自分が昇進するということは、他人が降格するということである。私が有意義な生を享受するということは、他人の有意義な生を奪うということである。これに対して、「そんなことはない!人間だけがエントロピーの法則を超越する力を持っているんだ!みんなが有意義な生を享受することができる!」などという人間原理並みのご都合主義論を述べる人間が出てくる。別にそれはそれでいいのだけれども、私はそれを公理として認めはしない。「例外のない規則はない」確かにそうかもしれない。矛盾=人間が作り出した規則に例外が生まれてしまうのは当然だ。しかし人間に例外を認めるというのは、人間を作り出した神か法則か何かが、人間と同様に矛盾を抱えたもの、もしくは間違ったものであることを意味することを忘れている。ここで、創造論者は「神は人間を自分に似た不完全なものとして創られた」とか都合の良いことを言うだけなので今は置いておこう。そう、法則が矛盾している。いや、この世界が矛盾しているのは最初から明らかだったのだけれども、改めて軽く述べよう。ゲーデルの不完全性定理より、自らを完全だと証明できる世界は不完全、自らを不完全だと証明できる世界は完全、という残念な定理が証明されてしまった。自然の斉一性原理なんて誰にも証明できないし、科学なんて最も実用的な宗教にすぎないことが分かってしまった。一般人はこのことを知らない、否、知ってもすぐに忘却してしまうのである。「世の中には知らない方が良いことがたくさんある」というが、これもその中の一つなのかもしれない。
 ところで私に意識はあるのだろうか。今、目の前にPCが見えてるのは確かなのだが、これが実在するか、私に意識があるか、というのは全くの別問題である。自分で自分に意識がないと思うなら、みんなが哲学的ゾンビであるということになる、ゾンビワールドを満喫しているのかもしれない。しかし、私だけが哲学的ゾンビなのかもしれないし、結局のところ何も分からない。自分や他人に心があるかどうかなんて分かるはずがないので、植物に心があるかもしれない、などという当たり前かつ科学的に証明不可能な事柄を述べるのは全く以て無意味である。私が独我論に陥り、君たちに向かって「貴様らはゾンビだ!」などと言うのは、Twitter上でbotに対して「お前はbotだ!」とリプを送り反応を楽しむのと同様の行為であり、まともな人間のすることではない、といった主張はよく耳にする。こんな風に、自他の心について考えていても、何も新しい発見はないわけで、こういうことを考えるのは最も無駄な時間だと思うし、普段はこんなどうでもいいことを考えたりはしないのだ。このような前提のもとで何を考えても、全ては無意味であるという結論以外考えられないので、脳的器官を有するすべての生物には心があるという前提のもと、この先のディスカッション(考察)は進めていくことにする。
 自分の中の他者性について考える。脳とか心臓とか、私の臓器が勝手に動いている。こいつらは私じゃない。しかしながら私はノンレム睡眠時、すなわち脳が完全に休んでいる時に意識はないし、レム睡眠時、すなわち脳の半分が活動している時に夢を見たりする。脳は記憶であり、身体であるから、これこそがまさに私であると感じることもある。しかし、自分で自由には動かせない。このコックピットで私は体を操縦しているのだろうか。なら私はコックピットの中の何かではないか。しかし、ここで右脳と左脳の接続を切ってやると、訳の分からないことになってしまう。考えてもさっぱり分からない。
 人間のクローンを認めるかどうかなんてのは、結局は義務論と功利主義の対立でしょうか。クローンなんて意識さえ与えなければただの肉の塊なのに。脳、もしくはそれに準ずるものが無ければ意識はないという前提だったはずだ。脳死が人の死である。脳が脳として機能してさえいなければ何をしても許されるはずだ。哲学的ゾンビなんて肉の塊だから、自由に切り刻んでしまえばいい。あはははは!
 人間は答えを出したがる生き物だ。答えのない哲学で無理矢理答えを出そうとして、自分を見失い、分からない不安から逃れるために狂う道を選択する。原因の分からない病気には名前を付けて実体を与え、恐怖を減らそうとする。しかし、恐怖を減らすことはできても、ゼロにはできない。病気はやっぱり怖いし、意識のない人間に哲学的ゾンビという名称を付けたところで、私の恐怖は一向に収まらないのだ。また、チラリズムというのがある。見えそうで見えないからこそ価値があるのだという。正体が分からないからこそ私たちの感情を呼び起こすのだろう。そして、その感情に従って正体を暴くのが私たちの使命か。使命を終えれば感情は消える。なんて単純なんだろう。使命という言葉をこんな酷い文脈で使うのは、あまり気が進まないな。しかし、私は遠慮なく使ってしまうのだ。
 今までの文章では、まるで人間が絶対であるかのように扱ってしまったようだ。ほかの生物との比較なしで人間を考えるのはこれが限界かもしれない。ここから先はほかの生物との関係から、人間とは何かというテーマについて考えていきたいと思う。さて、人間を他の生物と区別する違い。それは、人間だけが言語を用いて観念を作り出すことができる点にあるのではないだろうか。イデアとか、本当の~だとか、そんなものは他の生物には思いもよらないことだろうと思う。例えば、人間にかなり近い生物と言われている猿が道具を使えるのは、道具とその使用対象が同時に視界に入っている時のみであって、使用対象が無ければ、猿にとってその道具は単なるゴミでしかないのだ。
 人間は自然の摂理に逆らう生き物である。社会を形成するくらいならほかの生き物にだってできる。人間は法律を明文化し、社会不適合者に罰を与える(人間がいらない人間を選定し始末する)。また、医療を行い、本来あるはずのない寿命を延ばすのである(みんなが価値があると思い込んでる紙切れを持つ者を選定し生かす)。紙幣を渡すことで罰から逃れることもできるかもしれない。ほかの生物にこのようなシステムを作り出すことは不可能だろうと思われる。こうして考えると、カネを使えることが人間であることの証であるようにすら感じられてしまうのが怖い。
 科学も宗教も哲学も全部人間が作り出した幻想だ。疑ったり信じたり、いろいろ考えているうちに自分が分からなくなってしまう。欲に逆らうというのも人間ならではの発想だ。すべての生物が持つ本能を人間だけが持つ理性でおさえつける。人間が人間であるために欲望に逆らう。欲に逆らって生きる人生が楽しいのか。人間は人間でなくてはならないのか。理由などないのだが、与えられた命を無駄にしようとは思えない。「大学なんて行きたくない。つまらない授業なんて受けたくない。単位なんてどうでもいいから今を楽しく生きたい。」しかし現実はそれを許さない。今しかないがゆえに未来に囚われる。そんなものはないのだけれども、私たちは人間なのでそれについて考えざるを得ない。意味はないのに意味を見出す。意識なんてないのに意識があるという。そんなものはないと分かっていても人間であるがゆえに無理矢理こじつけてしまう。そして、これが人間なんだって思う。
 ああ、人間は独我論とか虚無主義といった中二病になるんだ。これは人間特有の病気だ。
正義とか悪なんてものは存在しない。強いて言えばどちらも同じものだ。生も死も等価だし、このような言語ゲームは時間の無駄だと思う。もちろんすべては無駄であるから、今生きているのが非常に馬鹿らしく思える。でも死ねない。本能が自殺を許さない。私はそれを理性でおさえつけようと頑張るのだが、全く以て無力であった。死にたいのに死ねない。でも生物は死ぬために生きている。アポトーシスとかじゃなくて全部。すべての生き物は死ぬために生まれる。この宇宙も消えるために今あるんじゃないかな。エピジェネティクスなどといったような生物用語も、結局は、元は同じでもどんな環境に生まれるかでどのような人間に育つか変わるって言ってるのと同じだろうとしか思えない。複雑な真理をフラクタルとして処理し、これこそが生命の神秘であると言ったりする。生物なんて研究して何が楽しいのだろうか、などと物理学科の私には批判的にしか見れない。他人を批判することで自分を相対的に高めるのは常套手段かもしれない。
 このように、考えれば考えるほど疑問が増えていき、先には疲弊しかないように思える。「どうして哲学なんてしているんだろう。」「道を間違えた。」「もう考えたくない」。私は考えるのに疲れてこのレポートをしばらく放置して、自分のやりたいことをやった。そして、ある時突然に悟ったのだ。「虚無は絶対的な幸福を我々に与えてくれるのだ」と。とにかくそう確信したのだ。理由なんてない。これは勝利だ。私は自分のことを絶対的に信用しているから、この確信は如何なる外的圧力を以てしても揺らぐことはない。今では、この「人間とは何か」というテーマについて考えることこそが、人間にとって大切なことなのではないかと思うようになった。宗教なんていらなかった。そんなものは他宗教の信者と対立するばかりで、ちっとも楽しくないものだ。私は私なりの答えを見つけた。そこに神はいない。虚無こそが私を満たしてくれる最上の幸福である。私は狂ったのかもしれない。しかし、それこそが私にとっての絶対的幸せなのである。人間は幸せを求める生き物だ。もう私は人間ではなくなってしまったのかもしれない。もう何も欲しいとは思わないし、ただ生きてるだけで楽しいのである。まあ、一番楽しみなのは「自己の死」であるが、そんなものはそのうち勝手に来るだろう。私は今ある生を楽しむことにする。
 このレポートのおかげで私は変われました。レポートにまとめることで、自分の考えがはっきりしたし、ストレスも解消され、今までの悩みが嘘みたいに消えてしまった。もちろんこのレポートは他人に読んでもらうことを前提に書かれている。人間は他人との繋がりの中にしか幸福を見出せない、といった意見も聞くし、私はそれに同意する。このレポートを他の誰かが必ず読んでくれると確信しているからこそ幸せなのであり、この確信に根拠などありはしない。自分の考えを他人にうまく伝えられないとき、人間は怒るのかもしれないが、そんなこと、このようなレポートでは関係のない話である。このレポートは返却されないからこそ私に幸せを与えてくれているはずなのだ。入試で落ちた後に成績開示なんて要求しない方が良いと思う。ぎりぎりで落ちていたのなら、その後の人生で一生後悔することになりそうなものだからだ。知らない方が幸せなのだから、私は知らない権利を発動する。こういった権利は人間に特有なものであり、こうした権利を行使することで、自分が人間であると実感する。「ああ、まだ人間だったのか」ってね。