私の町 吉備津

私の町 吉備津

宮内で遊ぼうと思えば

2013-07-29 20:23:09 | 吉備津神社の神領「宮内」
 遊廓に上がって一応の事を処すすだけですが、4~5000円もあれば十分だったようです。その廉価故に又此の遊郭が多くの客を引き付けた所以なのです。
 この遊廓の隆盛をこの宮内を領した庭瀬藩は、大いにそれを支えていたと云われます。何故ならば、宮内に巣くっていた技芸が売った線香一本につき2毛宛の「御益金」を徴収したのです。その為に、庭瀬藩では春秋の2回の大市が終わった後には、役人を、「後凌」と称して、全町の各料亭旅館に巡視を派遣して、遊女たちが捌いた線香の数の確認を行わせていたのだそうです。しかし、此の巡視が来る日になると、各旅館の亭主は決まってそこにいる遊女たちを他の場所に移して、その実態を正確に把握させなないように画策していたようです。現在の脱税のやり方に相通じるところが見られ、いつの世にでも税金逃れのための方策が取られていたようです。
 しかし、何時の世もそうですが、此の裏側には、これ又大変面白い裏話がこの奥にはあったようです。それは又次に???

宮内遊廓で遊ぼうと思えば???

2013-07-23 10:48:29 | 吉備津神社の神領「宮内」
 一見華やかそうに見えるな遊廓ですが、その蔭では数々のもの言わぬ哀話を生んだ遊女たちの物語があったのは言わずと知れたことです。門左衛門の道いゆきなども、当然、生まれていたのには違いありません。そなん話の一つが小雪物語なのです。
 
 さてこんな宮内の遊郭で遊ぼうと思えば云ったどのくらいのお金が入用だったのでしょうか。その資料は、現在、残っています。それによると、文化文政の頃です。
花代は、線香1本が当時1匁5分で、その線香はひと夜に4本必要であり、その他を一緒にして全部で7匁あればよかったのです。
 なお、1匁という数字は大体400文ぐらいになり、3000文ぐらいで、1両=4000文ですから、一晩遊女を買うと、大体、現在の金額にすると7~8000円ぐらい必要ではなかったかと言われます。なお、12匁あれが1日中遊女を買い占めることが出来、その上、制限なしの飲み放題で、その上、刺身や丼ものなどもついて、1日中楽しく廓あそびが出来たのだそうです。それでも京や大阪などの色街とは格段の安さで男の遊びが楽しめてのだと云われています。
 「ねえちょいと上がって行って」と、街角で、粋な???お姐さんに声掛けられて、ついその気になって、遊ぶには、「4~5000円もあれば十分だったよ」と、その昔を楽しむように地域の古老は、さも、自慢そうに嘯いておられます。

小雪という名の遊女

2013-07-22 17:21:07 | 吉備津神社の神領「宮内」
 これは嘉永6年の宮内の話です。
  どのような事情があってこんな辺鄙な片田舎の遊廓なんぞに流れついたのかその辺の事情は一切分かりませんが、小雪という遊女が此の宮内にいたのは確かです。そしてどのような事情があってか、小雪の墓が熊次郎の乾児片島屋萬五郎の墓などと一緒に、熊次郎の墓地に一緒に葬られています。
 一般に、遊女が此の地で亡くなった場合は、無縁仏として葬られるのが普通なのですが、「小雪」という名の京都出身の遊女の墓が、戒名まで付けてもらって、それも、熊五郎の四天王と呼ばれた大乾児片島屋萬五郎の墓の側にあるのです。何か特別な事情があったのだろうと云うことは分かりますが、詳しいことは何一つこの宮内の町には伝わっていません。
 
 何かこんな遊郭でなければ聞けないような哀話が沢山あるだろうことは確かですが、そんな話の一つも、今の宮内には残ってはいません。吉備の中山を吹き流れる風の音に打ち消されて、何処かへ、あまりにもむごたらしいのでしょうか消え失せてしまっています。

熊次郎の乾児

2013-07-19 09:49:53 | 吉備津神社の神領「宮内」
 宮内の山陽道の大乾爺岡田屋の熊次郎には、一番多い時には、その乾児は百人がいたと言い伝えられています。百人です。それもヤクザです。真っ当な道を歩んでいるものだけではありません。相当の悪も、チンピラですがいたようです。それらのチンピラと呼ばれていた者たちの統制も含めたヤクザ世界の管理者として、清水次郎長の乾児として、広沢虎三の浪曲や映画等で有名になったあの大政小政に匹敵する、いやそれ以上と思われる様な乾児がいたのです。その名は片島屋萬五郎、柏屋彦四郎、櫛屋佐五郎、菊屋久造で。この四人が宮内四天王です。彼等が熊次郎の体を会して、宮内の治安など、総ての権限を保持して、相当権力者だったようです。というのも、とうの熊次郎は、年がら年中、宮内芝居の為に江戸や大坂の有名な歌舞伎役者の勧誘に奔走していて、宮内にはあまりいなかったようです。その代わりに、この四名の者が留守を守っていたのです。それだけの権威をこの四名の者は持っていたのでしょうね。
 片島屋萬五郎には、次のような逸話も残っております。それは明日にでも

細谷川のせせらぎの中に宮内の昔話が聞こえてくるだけです

2013-07-16 09:51:52 | 吉備津神社の神領「宮内」
 この宮内芝居に、ここの遊女たちによって招待された客はそれ相当の出費が必要だったのです。見物の場は遊女たちによって確保されていたのですが、その席での酒肴はもちろんご祝儀などその席での遊興の為の出費が相当必要だったと云われます。それにも拘らず、15日間その席は常に満席であったと当地の故老は話しています。そのような盛況が、今では想像もつかないような、遊女200人という数字にも表れているのです。これも故老の話ですが、一人の遊女が招待した客数で一番多かったのが五十数人を数えたと云う話も、まことしやかに、当地に伝わっております。それが、又、この宮内芝居の宣伝効果となり、岡山城下は、勿論のこと、遠く播磨、讃岐、安芸からも多くの客が芝居見物に来ていたのだと云われております。それらの影の功労者が岡田屋熊次郎でもあったのです。

 その面影を残すものは、この宮内にも何一つ残ってはいません、完全に歴史の中に溶け込んでしまっています。ただ、そんな昔噺だけが細谷川のせせらぎの中に聞こえてくるだけです