私の町 吉備津

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兄媛を送る応神天皇の歌

2015-04-30 10:28:49 | 古代吉備国
 書紀には、ご丁寧に、難波の大津から船出する兄媛を送る応神天皇の歌がでています。下世話な話になりますが、応神天皇は、よほどぞっこんだったのでしょう。さて、その歌ですが、少々長くは鳴りますが、原文を書いておきますので読んでみてください、こんな字もあったのです。

 阿和旎<アワジ>斯摩<シマ> 伊椰敷那羅弭<イヤフタナラビ> 阿豆枳辞摩<アズキジマ> 伊椰敷那羅弭 予呂斯枳 志摩辞魔<ヨロシキシマジマ> 儴伽多<タカタ>佐例阿羅智之<サレアラチシ> 吉備那流伊慕塢阿比瀰莵流慕能<キビナルイモヲアヒミツルモノ> 

 というのです。歴史的・時間的にどう考えても、17,8の娘子とはあ思われないのですが、本当は100歳をゆうに超えられていたのではと思われる様な女性ですが、こうも思われては、兄媛は幸せだったことでしょう

兄媛の年齢は??

2015-04-29 17:45:33 | 古代吉備国
 兄媛については、日本書紀に「吉備臣の祖、御友別の妹」だと出ております。
 ということは、あの吉備津彦命の弟、若日子建吉備津彦命の子に「御鉏友耳建日子命」がおり、さらに、日本武尊の東征の副将として活躍した「吉備武彦命」は、この御鉏友耳建日子命の子なのです。

  少々めんどくさくなってきましたが、要するに、吉備の国で敷衍した若日子建吉備津彦命の3代目が「御友別・兄媛」たちなのです。

 ということは、兄媛がしきりに逢いたかった父母とは吉備武彦命なのです。

 なお、若日子建吉備津彦は孝霊天皇の皇子なのです。では、応神天皇はというと

 孝霊―孝元ー開化―崇神ー垂仁ー景行―成務―仲哀ー神功皇后ー応神となり、その間の年を考えれば相当になるはずですが。

 そなん事はどうでもいいのかもしれませんが、歴史を考えるということは大変面白いことですね。
 さて、あなたは、此処まで読んで、この時の兄媛の年はいくら位だったと思いますか。

 

80人の淡路の水手<カコ>

2015-04-28 11:10:41 | 古代吉備国
 「80人の淡路御原の海人」というのを、私は[80]という数そのものを本当の人数であるかと思い書いてきたのですが、ある人の曰

 「おめえのお・・80を本当に80人とおもようんか、そうじゃあねえど。「80」というのは、「ぎょうさんあつめたんじゃ」ということなのじゃ。20人かもしれんし、14人かもしれんのじゃ。かんげえてみんせえ、応神天皇が なんぼう、えらかろうって、お妃が故郷へ帰りとういうのに80人もの海人を集めたりする馬鹿が何処におりゃあ!!わかったけえ。

 でも、この話少々つじつまが合わんとおもよんじゃが、どうじゃろうかな。おめえが「美女の顔<カンバセ>」じゃとか「腰細のすがる娘子」とか書いておる兄媛は、その時、一体、歳は何才ぐらいになっておったんじゃろうな」

 という、例の誠に等を得たといいましょうかご指摘にたじたじになって調べてみました。何歳位だったと思われますか???

 25歳、いや18歳。どうでしょうかね。

愈々兄媛の船出です。

2015-04-27 09:35:36 | 古代吉備国
 八十人の淡路の海人を集めて相当な船団を組織しての船出です。書紀には「自大津発船」とあり、この大津<オオドマリ>より出航しております。この港が何処にあったのかはわかりません。もし、どなたかご存じのお方はお教しえくださいませんでしょうか。難波の大隅宮に応神天皇の皇居は有ったということは分かっておるのですが???

 なお、この時、天皇は港の大津まで見送りせず、大隅宮から出発する兄媛を見おくております。

 

美女の条件

2015-04-26 10:49:12 | 古代吉備国
 高橋虫麻呂の肉感的美女と安田画伯の美女、どちらが兄媛だったのでしょうか。どう思われます。

 淡路の海人80人を水手<カコト>として呼んで、兄媛を吉備まで船送ります。

 そうです。水夫を80人で、です。「80人」という数は、江戸時代に瀬戸内海を往来したあの北前船や川村瑞賢の千石船よりももっと大きく船でなくてはなりません。北前船の船頭の数は10人前後が普通だったようです。

 水手が80人、それだけでも大変な数になるはずです。「80」という数字から考えられるのは、送迎の船は1艘だけではなく、数艘の船を連ねた大船団を組んでのものだったと思われます。それだけでも、応神天皇の兄媛に対する愛情の深さを物語っております。「父母恋し」と悲嘆に暮れていた兄媛を慰めるために採用した天皇の配慮だったのです。

 女性の<かんばせ>とは、不可思議な永遠の謎ですね。どう思われますか。「八十」という数字について考えてみました。どうでしょう????