私の町 吉備津

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秦人の難波での土木事業は

2015-05-31 15:59:52 | 古代吉備国
 古事記を読んでいきますと、この時、秦人は切り拓いた場所は次のように記されております。

 まず、“茨田<マムタ>堤、及び、茨田三宅を作りたまひ”とあります。
 天皇は、彼等の土木工事の手始めとして、茨田の郷は淀川のほとりだったので、洪水を防ぐために、まず、「堤」を作らせたのですです。そして、その辺りの広大な湿地地帯を耕作可能な土地にして、天皇直属の土地「三宅」を作ったのです。この時作られた「堤」が、今も、なお、少しですが残っていると宣長は書いております。それが現在まで残っているかどうかは分かりません。誰か知っている人がおられたらお教え願えませんか。

「弓月ノ君」って知っている

2015-05-30 12:30:09 | 古代吉備国
 そもそも秦人が日本にやって来たのは仁徳天皇の父応神天皇の時代です。中学校の教科書にも出ております「弓月ノ君」が率いてきた人達が最初です。

 この弓月ノ君と云う人について、「古事記伝」で、宣長は

 「秦ノ始皇三世ノ孫孝武王と云て、弓月をその孫とする」また「秦ノ公ノ祖弓月百二十縣の民を率いて帰化する」

 と云っております。
 あの「万里の長城」を築いた秦の始皇帝五世が、直接、日本に渡来してきたのです。その先進的中国文明がいかんなく発揮されて仁徳天皇の難波の都作りに大いに貢献されたということが分かります。いやでも、彼等の持つ、当時、世界最高の先進的な土木技術を借りなくてはその事業は出来上がらなかったのです。そこに、「役<エダ>つ」と云う言葉の本当の意味があるように私には思えて仕方ないのです。
 この時、弓月ノ君に率いられてきた人たちは「百二十縣」と書いていますから、「一縣」の構成人口を2~3百人の集団だろうと想像してもその数は数万人単位の人口移動となります。これだけの多数の人を「難波」地域だけに限定して住まわせることはとても不可能なことだったのではないでしょうか。当時の日本の先進的地域、九州にも、勿論、吉備、播磨、山城、美濃、三河等のも、日本の各地に、それら多数の秦からの渡来人が配置されたということは考えられます。その中から選りすぐった人達を、天皇が都と定めた「難波」の地に集めたのだと思うのです。それが「役」なのです。そして、地方に配置されたこの秦からの帰化人によって、当時の倭国の地方創生がなされたのです。その名残として、「半田」「幡多」「土田」「羽田」等の地名の中に深く根付いておるのです。

 又、くどくどしくなりましたが、お許しください。ご意見を!!!  biryo@po12.oninet.ne.jp まで

再び、「役」について

2015-05-28 10:57:23 | 古代吉備国
 昨日「役」を、この場合<エダテテ>と読ませるのだと、長ったらしく、しかも、くどくど書いたものですから、又もや、筆敬さんからの御忠告を受けました。

 「おめえは しらんだじゃろうが、福永武彦は、この『役<エダテテ>』を[使役]とう言葉を使って訳しておるんじゃ。おめえみてえに さもしったかぶりゅうして そげえに もってえぶらんでも これでえんじゃあ ねえかのう」

 と云われるのです。その通りですが、「えだつ」が「役つ」だということを、私が、今まで、全く知らなかったため、つい、いい気になって書いたまでの事です。
 でも、彼の云うように『使役』と云う言葉で、十分に、その場が画かれ出されるかというと、どうも不十分なような気がしたものですからあのような説明を付けたのです。

 

漢字の素晴らしさを!!!

2015-05-27 11:02:56 | 古代吉備国
 この天皇の御世に、大和朝廷を始め、日本各地の領袖たちは、中国の秦の国からの帰化人が持つ当代随一の世界的な技術文明を使って日本創生や地方創生を行ったのです、その主なものが灌漑土木工事です。それを古事記には

 “又役秦人”
 
 と書いております。
 この「役」を言う字を「延陀弖々<エダテテ>」と読ませております。「えだつ」というのは、ある程度強制的に仕事を課すという意味があるのです。しかし、この同じ「役」という字でも、本居宣長は「古事記伝」の中で、
 「書紀には此の字<ツカヒテ>とも訓り」
 と書いております。<エダツ>でなくツカヒテ>です。ツカヒテというのは、「そこら辺にいる人を使って」と云う位な漠然とした簡単な意味に捉えるのですが、<エダツ>となると、そうは簡単に事が運びません。そこら辺りに点々と屯しておっただろう帰化人達を一か所にかき集めるように招集して、半強制的に働かせておる様子を言うのです
 要するに、この時代の日本では、各地で、秦から帰化した人達の新しい文明を利用して、それまでは不可能だったような大規模な土木工事に半強制的に従事させてたのではないかと思われるのです。

 文字という文化の持つ威力が、たった、この一文字の中に表されて、その時の人々の色々な思いまでも想像できます。この「役」という一字で、その仕事の内容や、人々の願いや、更に、その時代の社会情勢までも、十二分に把握できるような、何て素晴らしいものだということが分かります。

 改て、漢字だけが持つ文字の壮大な威力を感じずにはいられませんよね。中国人の偉さです。ローマ字よりも、その他何ものにもない魔力だと言っていいと思います。そんな漢字を大切にしたいものですね。英語よりも何語よりも美しくて魅力ある言葉だと私は常々思っているのですが。

 今日は、又、又、横道にそれてしまいましたがご勘弁を。ご感想をお聞かせくださいませ。
                                      私のメール biryo@po12.oninet.ne.jp

応神、仁徳天皇の時代の「吉備の国」について

2015-05-26 10:18:53 | 古代吉備国
 此の二人の天皇の記事にも大きな差異があります。

 応神天皇の兄媛は「書紀」にありますが「古事記」には一字の記述も見当たりません。その代わりと言ってはなんですが、古事記には応神の後の仁徳の中には、また別の角度からの吉備の国が語られている記述が見られるのです。

 この「仁徳」という人についての吉備との係りをお話する前に、この天皇の人柄と云いましょうかその政治政策等について、まず、お話しから始めたいと思います。

 この天皇の業績の一つに帰化人を登用して開発した土木工事があります。中国の秦の国からの移住者を使って、池を作ったり、川を改修したり、新田を切り開いたりして、大和政権を強固なものに作り替えております。此の国の政策は、当然、吉備の国等においても、盛んにまねられて、地方創生の礎となったのです。地方創生という何か随分と新しい造語のように聞こえ、安部政権が打ち出した全く新しい独自の政策のように思えますが、考えてみますと、この政策は、2000年も前、とっくの昔に行われていた政策の一つに過ぎません。さも新しく現代人の耳には聞こえるのですが、ただの見せかけたものだけなのです。そんなに驚くほどの事のものではありませんよ。

 なお、応神が吉備国に行幸した、あの「葉田」も、元は「秦」から来ております。半田、土田、幡多、羽田も、総て2000年も昔の「地方創生」の落とし物なのです。