私の町 吉備津

私の町 吉備津

「三宅」って。独り言です

2015-06-01 09:40:18 | 古代吉備国
 なお、この中で「茨田<マムタ>三宅」とありますが、「三宅」は中学校の教科書では「屯倉」と習ったように思えるのですが。なお、書紀には「三宅」でなく「屯倉}と書かれてあります。

 この「屯」と云う字について、私には、懐かしい思い出があります。
 
 『この「屯」には、群がるという意味があり、屯倉<ミヤケ>と云うのは「沢山の米蔵が群がるように集まっている所だ」。米がいっぱいできる立派な穀倉地帯をいうのだ。だから、わざわざ、天皇が自分の領地にして、直接支配したのだ。そなん場所を「屯倉」と呼んだのだ』

 と、私が中学生の時、新採用の若い先生が、その長い髪を掻き上げ掻き上げ、唾気を飛ばしながら必死になって説明をしてくださったことが今でも忘れられません。それから、誰云うことなしに、その先生のあだ名を「とんだ」とつけました。「唾気が飛んだ」からきたのか「屯田」から来たのかわ分かりませんが。

 

 付録;
 岡山県の屯倉について、書紀「欽明天皇」に「白猪屯倉」と「児島屯倉」の2ヶ所に置かれたとあります。白猪<しらい>屯倉は吉備五郡<イツノコホリ>に置かれたとありますが、その実態はよく分かっておりません。もしかして、栄西禅師の母親が田氏の出身だったと伝えられておりますから、この田氏は、「白猪屯倉」に都から派遣され、それがそのまま備前一宮地方に敷衍していた一族の末裔かもしれません。そう考えると、この五郡の中には津高郡が入っているのかもしれませんね。

 付録の付録ですが、屯倉を管理するために都から派遣された(律令時代の国司に相当する位の人)人の役名が、「屯田首<ミタノツカサ>」で、「田令<タツカヒ>」と呼ばれ、その一族の人達がそのまま「田氏」と呼ばれていたらしいのです。栄西の母と難波経親などとも関連があるのかもしれませんが、詳細は不明です。
 
 是も、又、余分なことですが「田部」と「田氏」は似たようですが、全く違った一族なのです。

秦人の難波での土木事業は

2015-05-31 15:59:52 | 古代吉備国
 古事記を読んでいきますと、この時、秦人は切り拓いた場所は次のように記されております。

 まず、“茨田<マムタ>堤、及び、茨田三宅を作りたまひ”とあります。
 天皇は、彼等の土木工事の手始めとして、茨田の郷は淀川のほとりだったので、洪水を防ぐために、まず、「堤」を作らせたのですです。そして、その辺りの広大な湿地地帯を耕作可能な土地にして、天皇直属の土地「三宅」を作ったのです。この時作られた「堤」が、今も、なお、少しですが残っていると宣長は書いております。それが現在まで残っているかどうかは分かりません。誰か知っている人がおられたらお教え願えませんか。

「弓月ノ君」って知っている

2015-05-30 12:30:09 | 古代吉備国
 そもそも秦人が日本にやって来たのは仁徳天皇の父応神天皇の時代です。中学校の教科書にも出ております「弓月ノ君」が率いてきた人達が最初です。

 この弓月ノ君と云う人について、「古事記伝」で、宣長は

 「秦ノ始皇三世ノ孫孝武王と云て、弓月をその孫とする」また「秦ノ公ノ祖弓月百二十縣の民を率いて帰化する」

 と云っております。
 あの「万里の長城」を築いた秦の始皇帝五世が、直接、日本に渡来してきたのです。その先進的中国文明がいかんなく発揮されて仁徳天皇の難波の都作りに大いに貢献されたということが分かります。いやでも、彼等の持つ、当時、世界最高の先進的な土木技術を借りなくてはその事業は出来上がらなかったのです。そこに、「役<エダ>つ」と云う言葉の本当の意味があるように私には思えて仕方ないのです。
 この時、弓月ノ君に率いられてきた人たちは「百二十縣」と書いていますから、「一縣」の構成人口を2~3百人の集団だろうと想像してもその数は数万人単位の人口移動となります。これだけの多数の人を「難波」地域だけに限定して住まわせることはとても不可能なことだったのではないでしょうか。当時の日本の先進的地域、九州にも、勿論、吉備、播磨、山城、美濃、三河等のも、日本の各地に、それら多数の秦からの渡来人が配置されたということは考えられます。その中から選りすぐった人達を、天皇が都と定めた「難波」の地に集めたのだと思うのです。それが「役」なのです。そして、地方に配置されたこの秦からの帰化人によって、当時の倭国の地方創生がなされたのです。その名残として、「半田」「幡多」「土田」「羽田」等の地名の中に深く根付いておるのです。

 又、くどくどしくなりましたが、お許しください。ご意見を!!!  biryo@po12.oninet.ne.jp まで

再び、「役」について

2015-05-28 10:57:23 | 古代吉備国
 昨日「役」を、この場合<エダテテ>と読ませるのだと、長ったらしく、しかも、くどくど書いたものですから、又もや、筆敬さんからの御忠告を受けました。

 「おめえは しらんだじゃろうが、福永武彦は、この『役<エダテテ>』を[使役]とう言葉を使って訳しておるんじゃ。おめえみてえに さもしったかぶりゅうして そげえに もってえぶらんでも これでえんじゃあ ねえかのう」

 と云われるのです。その通りですが、「えだつ」が「役つ」だということを、私が、今まで、全く知らなかったため、つい、いい気になって書いたまでの事です。
 でも、彼の云うように『使役』と云う言葉で、十分に、その場が画かれ出されるかというと、どうも不十分なような気がしたものですからあのような説明を付けたのです。

 

漢字の素晴らしさを!!!

2015-05-27 11:02:56 | 古代吉備国
 この天皇の御世に、大和朝廷を始め、日本各地の領袖たちは、中国の秦の国からの帰化人が持つ当代随一の世界的な技術文明を使って日本創生や地方創生を行ったのです、その主なものが灌漑土木工事です。それを古事記には

 “又役秦人”
 
 と書いております。
 この「役」を言う字を「延陀弖々<エダテテ>」と読ませております。「えだつ」というのは、ある程度強制的に仕事を課すという意味があるのです。しかし、この同じ「役」という字でも、本居宣長は「古事記伝」の中で、
 「書紀には此の字<ツカヒテ>とも訓り」
 と書いております。<エダツ>でなくツカヒテ>です。ツカヒテというのは、「そこら辺にいる人を使って」と云う位な漠然とした簡単な意味に捉えるのですが、<エダツ>となると、そうは簡単に事が運びません。そこら辺りに点々と屯しておっただろう帰化人達を一か所にかき集めるように招集して、半強制的に働かせておる様子を言うのです
 要するに、この時代の日本では、各地で、秦から帰化した人達の新しい文明を利用して、それまでは不可能だったような大規模な土木工事に半強制的に従事させてたのではないかと思われるのです。

 文字という文化の持つ威力が、たった、この一文字の中に表されて、その時の人々の色々な思いまでも想像できます。この「役」という一字で、その仕事の内容や、人々の願いや、更に、その時代の社会情勢までも、十二分に把握できるような、何て素晴らしいものだということが分かります。

 改て、漢字だけが持つ文字の壮大な威力を感じずにはいられませんよね。中国人の偉さです。ローマ字よりも、その他何ものにもない魔力だと言っていいと思います。そんな漢字を大切にしたいものですね。英語よりも何語よりも美しくて魅力ある言葉だと私は常々思っているのですが。

 今日は、又、又、横道にそれてしまいましたがご勘弁を。ご感想をお聞かせくださいませ。
                                      私のメール biryo@po12.oninet.ne.jp