私の町 吉備津

私の町 吉備津

高尚という人

2013-07-03 09:47:15 | 日記
 どうして朋友と言うべき真野竹堂を、このように、度々、宮内芝居に招待出来たかと言えば、この宮内芝居の小屋は吉備津神社神苑地に仮小屋を造りそこで演じられていたものです。宮内芝居が幕府公認のご朱印小屋となったのは、江戸の初期まで、吉備津神社の神領は、天正9年の文書には庭瀬郷、鳥羽村、徳芳村などの村々まであったように記録されていますので相当広い地域を社領としていたことが分かります。その為に経済的にの豊かで相当な権勢を誇っていたのではないかと思われますが。徳川の世になってからは、その社領も神社の門前の宮内村の一部分に縮小されます。当時八〇軒もあったと言われる神社を維持するためにも何らかの経済的な救済を施す必要が生じ。その為に取られた措置が「御朱印芝居」であったのだと云われています。

 まあ、そんな関係で山陽筋では安芸の宮島と共に門前町として隆盛を極めたのです。この吉備津神社を経由して児島の由加神社を通り讃岐の金毘羅神社の宮参りの信仰も生まれ、多くの旅人を誘発したことは疑いありません。その為、山陽道最大の遊郭地としても繁昌したようです。

 そんな御朱印芝居の神社の神主です、特等の枡席の一つや二つ確保するのは簡単です。その為に、毎度、朋友の真野竹堂を招待できたのだと思います。
 そのやり取りが総て手紙で行われていたのです。