私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

女々しいぞ!!!建御名方神は”恐。莫我殺我”と

2018-08-23 14:31:17 | 日記
 思わぬ敗戦を被った建御名方神は、悠々と、大空を泳ぐように飛んで行きます。下には美しい水穂の国が広がっております。何もあの狭苦しい山国の地「出雲」なんかにいるよりは、この広々とした大きな洲羽海のほとりに住んだほうがいいと思われたのでしょうか。そこに軟着陸されます。
 そして、さて、「どこに住まいを」と思われておった時です。ご自分のすぐ側にあのにっくき
             「建御雷神神」
 が、いつの間にか居るではありませんか。それまでは気がつかなかったのですが、彼の後を見え隠れするように建御雷神が付いてきていたのです。そして刀を振り上げて。

             “将殺時<コロサムト シタマフトキ>

 「天の主アマテラスのご命令に従わない者は殺してしまえとご命令を頂戴しておるのだ。だから。お前を此処迄追いかけて来たのだ、覚悟はいいか。」
 と、言います。さあ、建御名方神は、絶体絶命に陥ります。それではと潔く殺されるか、折角の大力を持っているのですから、再び、力の限りを尽くして戦うかすればいいのですが、オホクニの子らしくもなく、女々しいと思うのですが、そんなことがあるものかと思うのですが、命乞いをします。

            “恐。莫我殺我”

 と。



今、我が町吉備津では・・・・・

2018-08-21 08:43:33 | 日記
 「今、我が町吉備津では」と、大きな題を掲げましたが、それほど大きな騒動ではないのですが、一つの問題が小さく持ち上がっております。それは、我が町に、今、流行りの

               “葬儀場”

 建設計画があり、まさに、これから、すぐにでも、建設されようとしているのです。其の建設に反対する声が小さくではありますが、地域の有志の方々の間で持ちあがっております。

、御存じ、我が町は、国宝であもある「吉備津神社」が宮柱太とく立ちて以来、2000年の歴史が地域全体を覆い尽くしていると言っても過言ではありません。それ故、此処に住む人々は、此の歴史を体の中の一部としながら、熱い崇敬の念を持って、声に出しては言わないのですが、「ありがたや」の深い思いを持って日常の生活をしていると言っても過言ではありません。この地に住む我々の、「気持ち良い場所だなあ吉備津は」という心の拠り所になっているのです。そのような里人の思いが、此の土地へは、特に、神社のある神聖で侵すべからざるざる宮内へは

     「不浄なるものは一切に持ち込ませない。」

 と言う強い信念みたいなものが何時の間にやら、2000年の歴史の中から、自然に生まれて来たのです。墓場は勿論、死者をお墓まで運ぶ道(葬列道)までも、わざわざ参道より別に設けるなどして、「犯すべからざる神聖さ」の維持に大きな力を働かせて努めて来たのです。
 そのように長い年月をかけ懸命に守ってきたこの地方の人々の思い「不浄なる者は何事であれ設けさせない」を、無視して、ただ、経済的な見地からだけで建設を目指しておるこの計画を認めないと言う思いの人が立ちあがって反対しているのです。

 どうでしょうか、無謀なる吉備津の一住民の反対運動なのでしょうか。もっと地域性を考慮した建設計画を業者も、すべきではないのでなないでしょうか

        

         

洲羽海まで飛んできました

2018-08-20 15:51:29 | 日記
 建御名方神が着いた所は

            “科野国之洲羽海”

 です。諏訪湖のほとりです。これについて宣長は
 「道を歩いて逃げて来たのだが、この湖の岸に到着して、それ以上、道が海によって途絶えて、逃げ場がなかったので、そこに居座ったのだ」
 と書いておりますが、それなら、その前の琵琶湖でも同じことが言えるのではないかと思います。だから、わたしは、建御雷神に投げ飛ばされたまま空を此処ませ飛んできたと考えた方が正解ではないかと思いますが。
 建御雷神が自分の後を追いかけてきているとも知らずに、平然と、この地があまりにも景色がよかったものですから、ここに降り立ったのではにかと思いますがどうでしょうか???。ここで、兎に角にも、一服して、それから後の対策を講じればとでも考えられたのでhないでしょうか???科野国の洲羽海に空から軟着陸されたのだと思います。
 
      さあ!!!どうでしょうかね???事がうまく運ぶかどうかですが。

「栲」とは

2018-08-19 09:47:00 | 日記
 「栲<タク>」の木から白い布(木棉)が作られ、その木が当時は「志那」と呼ばれ、それが沢山生えている処というところから信州が「科野」と呼ばれた原因になるのですが、この

           「栲」

 という字、何処かで見たような気がしてなりません。万葉集の中にあったような気が????念のためにと、契沖の「万葉州代匠記」を見たのですが、それにも、この字は出ていません。その他、万葉集の数冊の本を見たのですが、やっぱり、「栲」は出ておりません。何処ぞにと思って、更に、探してみました。手元にあった「NHKブックス(木俣 修)万葉集 時代と作品」を見ると
 
持統天皇の御歌

   春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山

と出ているではありませんか。何か得意げになって、今、これを書いております。

 なお、大匠記にもその他の本にも、「白妙」という字が記されております。この木俣氏だけが、どうしてかは不明ですが、この「栲」をつかって<タヘ>と読ましております。

 以上これの蛇足の蛇足ですが???お暇なら御読みください。

 と書いた後から、中西 進の「万葉の秀歌(講談社)」や山本健吉の「日本詩歌集」を見たのですが、ここでは、意に反して、いずれも「白栲<シロタヘ>」の字を使っております。どうして、何時頃から「妙」が「栲」にとってかわったのでしょうか。まさか宣長の説からではないでしょうにね。誰かその出典を御存じのお方はおられませんか???

逃去<ニゲイニキ>した建御名方神

2018-08-18 09:16:53 | 日記
 空の上に投げ飛ばされたのを幸いいに建御名方神は「ウルトラマン」のように両手を前に差し出しながら気持ちよく大空を飛んで行きます。何処かよい着地点はないかと捜しながらです。何処まで飛んで行ったのでしょうか、ふと眼下に

              ”科野国洲羽海<シナヌノクニノ スワノウミ>”

 が見えます。ここまで逃げると、もうあのにっくき「建御雷神」は追っては来ないだろうと思われたのでしょうか、そこに降りられたのです。やれやれです。
 この「科野<シナヌ>」とは、宣長説によりますと
 山国だから「級坂<シナザカ>」(階段の様な坂道)があちこちと至る所にあるから、<シナノクニ>と名が付いたのだと。また、一説には、此の国には、「志那<シナ>」という木が沢山生えていたからだとも書いております。 「志那」という名前は、その皮から作り出した布は、とても「品々しい」、大変高級な白布だったので、この木を「シナ」と名付けたのだそうです。その美しい特産物を作りだす木が沢山生えている国と言う意味から「シナ」の国となったのだと。
 なほ、「志那<シナ>」は「栲<タク>」であると???