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私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

今朝の山陽新聞の一面の構成について

2016-08-07 09:38:25 | 日記

 アッと驚きました。

 今朝の山陽新聞です。どうお思いでしょうか。従来の新聞の概念を一転させて構成させております。誰のどのような考えでかは知りませんが、素晴らしいサプライズの第一面です。オリンピックの開会式の様子と広島原爆日写真です。できれば一面ずつ二つの記事を同じ程度の大きさで報道していただいておればとも思いましたが、それは編集者の意図ですからそれでいいのではとも。

 まあ兎に角、画期的な紙面構成だったのではと思いました。常識はこのように時々破られればと思いました???

 マアそれはそうとして、今朝の山陽新聞は、近年にないヒット作品ではないでしょうか。[山陽新聞」と云う標題が、左にあるのも、又、おつな紙面構成じゃありませんかね。


8月6日です

2016-08-06 11:57:36 | 日記

 広島に投下された「原子爆弾」が炸裂してもう七十一年にもなるのです。その時、私は小学3年生でした。何かしら今までに見た事も聞いた事もないような恐ろしげ新爆弾で、「ピカドン」と云う名らしいと言うことを、何日かして知りましたた。それは、終戦の日よりももっと後日ではないかと思います、従姉妹で、その時は高梁の女学校に行っていたと思うのですが、その人から聞いたように覚えています。        
 総ての人の皮膚が全部めくれて、顔から血が流れ出してお化けの街になったのだと、恐ろしげに聞かせてくれたのを覚えております。しかし、 詳細は何も分からなかったし、先生からも何も教えてもらってもいません。とにかく、「ピカドン」と云う名で、「広島の街が一発で、めちゃめちゃになったんだ」とだけです。

 これは、原爆投下の当時の広島の模様について、岡山の片田舎に住む十才の私が知り得た小さい小さい情報だったのです。父からも母からも何も聞いてはおりませんでした。と、云うことは、当時の日本人のほとんどの人が、何一つ、この時の広島の惨状を知り得ていなかったのではないかと思います。当然新聞報道もなかったのではと思われます。

 その後、この年になるまで原爆についての情報は沢山学びました。資料館には幾度となく訪ねました。今朝のNHKの報道もしっかりと見ました。その中にも有った

         “過ちは繰返しません”

 と云う記念碑も何回となくみております。その言葉の持つ意義についても、私は、一年に一回だけですが考えて居ります。
 誰がいいか悪いかではなく、この悪魔的な弾丸の持つ意味への、ただ、単なるアメリカ人へとか日本人へとか言う範囲を限った人々に対してでなく、これからを生きて行く地球的全人類に対する天からの有情なる崇高なる警告ではないかと思われます。どうでしょうか????

 なお、昨年の今日の私のブログには、その時の広島での原爆の悲惨さを伝える写真を載せています。この写真、現在、なかなか好評です。  再度載せます

 


再び、吉備下道臣前津屋の愚行を

2016-08-05 09:53:46 | 日記

 「足守メロン」がら、まんざら関係がないとも云えない、あらぬ方向に進んだのですが、再び、お話を「前津屋」の話に戻します。

 「前津屋は、自分の鳥に見立てた足に黄金の距<アゴかアユゴか???>を付けた鶏を、天皇の鶏として羽を抜いた禿鶏<アカハダカナルニワトリ>と闘わします。結果、天皇の鶏に見立てた如何にも弱そうに思えた鶏が勝ちます。すると、激怒した前津屋は、刀を抜いて、その禿鶏を即座に殺します。」

 と、吉備の国での出来事を虚空<オホソラ>は天皇の前で語ります。

 そのような吉備の国における「少女の相撲」や「闘鶏」の天皇を蔑ろにする話をお聞きになった雄略天皇は激怒され、吉備の国の征伐を行います。それが、また、この書紀の話では、誠に、お粗末な有るはずもないような話が、堂々と、よくもこのようなオオウソが書かれたものだなあと思えます。
    
 当時は480年頃です。あの「造山古墳」を作った吉備の大王がいた時代よりも、時間的に見ますと、まだ、50年も経過はしてない時にです。衰えたとはいえ吉備王国は、まだまだ、強固な国家でした。その国を征伐にやってくるのです。相当な軍事力が必要であったのではないでしょうか。
 
 この時、雄略天皇は、どれくらいの兵力を吉備の国に派遣したと思われますか?????

 あの秀吉すら、毛利軍との戦い「高松城の水攻め」の場合にでも、二萬もの大軍よつて攻撃を仕掛けているのですから。岡山の浮喜多軍の一萬を合せて三萬もの兵力を投入しておるのです。それでも、やっとの思いて攻略することができたのですから、想像はお付きの事だと思います。

 秀吉と同様に「二萬ぐらいは」少なくとも、とお思いではないでしょうか


秀吉は、即、云い放ちます。

2016-08-04 08:40:50 | 日記

 「己以前は下郎土民にせよ、今は毛利家の足軽を預り、武士の数に入たる者の、恨みある相手を討ち果たすべき筈なるを、己が恨みのために主人の城に火を放ち、門を開らき、敵を引入る条、不忠とや云ん獣心とや云はん言語道断憎き奴かな。以後の見懲しの為、引出だして首を切れ」

 と、「此の者にも恩賞、褒美を!!!」と思った清正の考えとは裏腹に言い放ちます。そして、この団右衛門を陣外に引立て、終に、その首を刎ねてしまうのです。

 この時代は、まだ、それまでの日本の戦いの特徴ずける、平安の世の中から打ちつづいている「仁義」が、色濃く残っていたのです。中国などの他の国の戦いのような、敵を総て抹殺すればいいと言う、ただ、むやみやたらに弱肉強食の戦いを繰り広げるような無残さはなかったのです。当時は、下剋上の荒んだ世の中ではあったのですが、争いの中にも、何らかの、古来から続いている日本独特の物云わぬ恩義や仁義が有ったのでなないかと思われます。

 しかし、此の事件とほぼ同時に起きた明智光秀の本能寺での戦いは、日本での戦の中で、それまでの伝統を打ち破るような「恩義」などはかけらもなかった戦いではと思われます。ただ、この団右衛門と同じ武士の仁義に悖る、在ってはならない戦いだったのす?? 「ただ、体面を汚された」と言う個人的な恥ずかし目を受けたと言うことだけで、主君を蔑ろにすると言うことは、封建社会では、決して、あってはならない事なのです。大義名分が幅を利かせた時代の話です。

 なお、此の明智光秀は、主従を重んじる封建社会にあって、早くも、団体よりも、箇の主張が己れの存在に最も大切な生き方であると思っていたのだと思います。生まれてくるのが200年ほど速かったのではないでしょうか。だから、光秀にすると、例え主君だとしても、それは当然の己れを主張するのが正義だと思っていて自分を主張して、信長の反感を買ったのでしょう。

 そんな事を考えると、この物語の作者は、ある程度、団右衛門の話を挿入することによって、この後、光秀の戦いを「有ってはならない非道な戦いである」と、無言のうちに、非難するための布石にしたのではないでしょうか???


何かいい仇打ちはないかと考える団右衛門

2016-08-03 09:40:42 | 日記

 「絵本太閤記」によると、この団右衛門は

 “不智不能の下郎なれば、邪智悪計出ばこそ、所詮此城を敵のために落城されなば、彼当城の大将にて、主君に対して申し訳は有るまじと心を定め、扨(サテ)こそ仮屋に火を放ち、門を開いて降参に出たる者なり”

 と、このようにして戦いはあっけなく程簡単に終わり、戦いが済んで、清正は、この戦いの一番の功労者として「団右衛門」を、太閤の前に連れて行き、このように紹介します。

 「そうか。よくぞその決心をしたものだ。でかした。褒美を取らすぞ。」と、太閤は、大変、喜んで、云うものだとばかり思っていた清正ですが、あにはからんや、そこら辺りに武家社会の支配構想の対する二人の考え方の相違があったのです。秀吉の考え方の方が、封建社会の仕組みに、即、適合していたのだと思えます。清正の持つ温情では、決して、天下を武力で統一することが出来ない要因がそこら辺りにひそんでいるように思われます。それが関ヶ原の戦いやそれ以後の豊臣家の悲劇にも通じていると思われるのですが・・・・・・。
 清正からの冠山城の戦いの状況を扨聞いた秀吉は、講談調ですが本文にある文章をそのまま書いてみます。

 “礑<ハタ>と白眼<にらみ>

 即刻、言い放ちます。