私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

日本武尊の母(1)

2015-06-04 09:15:14 | 日記
  美麗な童女に変身して熊襲の首領「川上梟帥、カワカミノタケル>」を退治した18歳の日本武尊の母親は誰かご存知ですか。その母の名前は「播磨稲日大郎女」(古事記では針間之伊那毘能大郎女)と云う女性です。播磨ですから、普通なら、誰しも播磨の国の出身の女性だと思われるのですが、そうではありません。“吉備臣等之祖若建吉備津日子之女”と、古事記には、はっきりと書かれております。日本武尊の母「大郎女」は吉備の国からお嫁に行った人だったのです。更に、この時、この人の妹も姉と一緒に景行天皇の妃(姉の方は后)になっております。このように姉妹で一人の男の人の元にお嫁に行く例は、現代の日本社会ではあり得ないことですが、古代社会では、その例は数多く見ることができます。例えば、若建吉備津日子のお母さんの「蝿伊呂杼<ハエイロド>」はその姉「意富夜麻登玖邇阿禮比売命<オオヤマトアレヒメ?」とともに孝霊天皇に嫁しております。

 では、なぜ、日本武尊の母に、「播磨」が付いているのでしょうか??それについて、本居宣長ですら何も言っていないのですが!!!!!。そこで私が個人的に推論してみますのでお読み頂いてご批判願えれば幸いです。

 日本建国の天皇である神武より7代目の孝霊天皇の時代は、まだまだ、日本の国は中央集権化していない、それぞれの地方で、九州で、大和で、出雲で、吉備等で、夫々独立的に大王がいて、てんでにその地方を治めて、お互いに覇権を競っていた時代なのです。その中で一番有力な政治体制と整えたのが大和地方にいた天皇勢力だったのです。その大和勢力が、吉備勢力を征服して自分の支配体制の中に組み入れようと計画したのが孝霊天皇でした。その為に派遣したのが、天皇の皇子である「比古伊佐勢理毘古命<ヒコイサセリヒコノミコト>」亦名「大吉備津日子命」(母;阿禮比売命)とハエイロドが生んだ義理の弟「若建吉備津日子命」です。

 さて、古事記には、この兄弟二人を派遣して吉備の国を「言向和<コトムケハヤシ>たまう」とあります。「ことむく」とは「言葉によって相手をこちらに従わせる」という意味ですから、初めから力によって征服を試みたわけではないのです。先に挙げた九州の熊襲征伐は、初めから、その首長たち一族を武力的に征服するの戦いでしたが、この吉備の国との戦いは、和戦両様の構えがあったことには間違いがありません。

 

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