私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

それで直に神渟川耳尊は・・・

2019-09-18 09:11:19 | 日記
 神渟川耳尊は兄の持っていた弓矢を

         “掣取<ヒキトリ>”

 ぐずぐずしていては居られません。一秒を争うことです。ヌナカワは、兄がふるえて矢を放つことができなく放心したようになっているの見て、直ちに、兄の持つ弓矢を、強引に、捥ぎ取るように手にして、矢を寝ているタギシミミに向かって放ちます。
 その場の様子(戦況を含めて)を敏速に、しかも、沈着に決断して有無を言わさず、果敢に、実行に移します。それが“掣”というたった漢字一字の中に完全に包み込まれて描き出されているのです。このようなことは英語など表音の文化圏(ローマ字社会)ではけっして描くことのできない話です。
 このように漢字の持つ機能を巧みに利用して書物を作りだしたのは、古事記も同じですが、漢字が日本に入ってきて、まだ、200年もみたないような時にです。舎人親王(天武天皇の子)を始め相当多くの日本人が、既に、十分にこの漢字を熟知して、そして、巧みにそれを利用して文章を作っているのです。
 大変な驚きと言いましょうか、この漢字から派生したと云ってもよいと思うのですが、好学の人々が沢山、この奈良期にも、日本にいたかということが分かります。この時から芽生えて行った日本人の好奇な心はそれ以後の日本文化を育む源に大きな貢献を与えていたのではないでしょうか。更に、その先へ溯って行けば、その好奇心なる心的な要因は縄文、いや、それより以前の先縄文期から長い年月を経て作り上げられたDNAではないでしょうか。それを生む要因としては“日本の四季の為せる業には有りける”とも考えられますが、それは兎も角として、それが、日本で、見事に花開いたのが、この「奈良の時代」だったのです。それを代表するものが

           “記紀”

 だったのではないでしょうか。それが日本の現在のノーベル賞受賞者の数の多さにも結びついているのではと私は・・・

 今日は、又、へんてこな文章をお見せしましたが、考えてみますと、この「紀記」の文章、いや“掣”からでもいいのですが、果たして、「日本人とは」と問われた時、一体、あなたなら、どうお答えをなさるのでしょうかね????

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