関市武芸川谷口の寺院。写真は山門前の苔むした石畳。
汾陽寺(ふんようじ)は県道59号(北野乙狩線:岐阜から寺尾千本桜へ向かう峠)を脇へ入るひっそりとした山の中にあります。県道からは特に目印もなく、ちょうど田んぼが無くなる最後の脇道を左へ入りそのまま山道を進んだ先という、まさに浮世離れした場所にある山寺でした。
創建は嘉吉元年(1441)に斎藤利永による。息子の利国(妙純)により再興された。斎藤氏は当時の美濃守護代として権威を振るっており、美濃のマムシこと斎藤道三もこの系統になります(もちろん道三は乗っ取りですが…)。また斎藤氏の後縁であり明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘・春日局は、ここから南へ1.5キロほどの法泉寺近くに奇遇していた時期があり、汾陽寺へも良く参拝をしたと伝えられているそうです。
ここより西へ3キロほどにある山県市中洞には明智光秀の墓があり、光秀が落ち延びてきた伝説があります。春日局の父・斎藤利三は光秀とは深い信頼を寄せていた間柄であったと言われていますので、同地域と光秀による関係も深いものであったのではないか?との推察もできそうです。三日天下を取った後、秀吉に敗れた光秀の足跡にも深い興味が湧いてきます。
県道と別れ杉に囲まれた山道を歩きます。マイナスイオンが放出(?)ている爽やかな山道。ときおりすぐ脇の県道を自動車が行き交っていますが、その音もそれほど気になりません。途中で車が1~2台ほど止められる駐車スペースがあります。
その先で車が進める左の山道と、右の苔むした石畳の道があります。迷わず右へ。歩を進めるほどに苔むしている見事な道が続きます。この道を春日局が歩いたとされる為に「お局道」と呼ばれているようです。
やがて山門をくぐると本堂が見えます。街中の豪華な寺と違い非常に質素ですが、力強い石垣の上で長い歴史を耐えていた風格が感じられます。そして番犬君が見事な見張りをして警護をしていました。。
また近くには安藤守就が隠住していた屋敷もあったそうで、織田家に仕えていた時に武田信玄との内通を疑われた守就が、同寺で住僧だった弟を頼り住んでいたといわれています。恐らく写真の位置なのでしょうが、今は田んぼになっています。