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ケッタでグルグル

久々にケッタ(自転車)を購入。
これを機にブラブラ回ってみよっと。

伊藤萬蔵めぐり(美濃加茂)

2008-04-11 | 道標・石碑

美濃加茂市太田本町4にある石碑です。
「左 西京伊勢  右 関上有知 道」とあり、明治25年建立のものです。
ちょうど中山道太田宿の西端にあたり、
左(南)へ向かうと木曽川にぶつかり、西へ向かう中山道を進みます。
右(北)へは刃物の町・関や、和紙の町・上有知(現・美濃市)へ行きます。
萬蔵石碑はどれも彫りが深くて読みやすいのですが、この石碑は特に保存状態が良いです。

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美濃加茂市古井町下古井にある道標です。
「左 飛騨高山 八百津 麻生」
「右 東京 善光寺 道」
とあります。
中山道太田宿の東端にあたり、国道21号の神明堂信号東にあるY字路にあります。

左へは飛騨街道。右へは中山道の分岐に当たる場所だったと思われます。
石柱が萬蔵道標の中で珍しく一枚岩に彫られたものですあり、パッと見やすい形状です。
恐らく当時よりこの場所がY字路であった為に、石柱より見やすいと判断したのでしょうか??

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美濃加茂市森山町3にある道標です。上の下古井にあった道標を左に約4キロ進んだ先にあります。
「左 川辺 麻川 飛騨高山」
「右 かね山 八百津 木曽路」
とあり、明治25年に建てられたものです。
森山町本町信号を北東へ200mほど行った所にあります。

左へ行く飛騨街道は川辺・麻生を経て高山へ行く現・R41沿い。
右は飛騨川を渡り、兼山・八百津へ向かう街道へ。
飛騨川に掛かる青柳橋は木製の吊り橋として当時からあったそうです。

石碑は途中で折れたり欠けた部分をセンメト等で繋いだ後がみられ、痛々しいです。
以前は別の場所に保管してあったそうですが、平成15年頃に立て直されたそうです。


 


伊藤萬蔵めぐり(岐阜市)

2008-04-09 | 道標・石碑

各地で見つけた伊藤萬蔵の石碑。とりあえずまとめてみました。

上は藍川橋北詰にあった石碑です。長良川右岸を岐阜市方面から来るとあります。
正面に
「左 かさがみ岩井山」  「右 上有知(こうずち)街道」
かさがみ岩井山とは、ここから2キロほど行った岐阜市岩井にある延算寺のことです。
上有知は現在の美濃市中心部。長良川上流に10キロほど向かいます。

左面には「岐阜市道」「山縣村道」とありました。

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上は両方とも三田洞弘法にあった寄進物です。
左の花壷は本堂前にありました。同じものが2つ両脇にあります。
右の石碑は「四国八十八ケ所霊尊」とあり、本堂から階段を上がった所にあります。

昔は藍川橋から岩井山かさ神を通過し、山越えをしてここへ参拝に来る方も多かったようです。

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左(と中央)の寺標は岐阜市矢島町にある法華寺にありました。
「織田右府 祈願所  法華寺」とあります。
織田右府とは信長のことで、信長が小牧から岐阜へ居城を移った際に祈願所として建てられた寺だそうです。
伊藤萬蔵の隣に、「木村金次郎」なる人物が連名してありました。
こちらの人物も気になりますねぇ。。。


右の寺標は岐阜市寺町の瑞龍寺門前にあったものです。
瑞龍寺他、7つの寺がある広い境内の入口に立っていました。
「新四国二十六~三十二番札所(略)  瑞龍寺」とあります。


迫間・山中不動道標

2007-12-09 | 道標・石碑

  

苧ヶ瀬池の北300mほど、各務原パークウェイ入口の1本北の道に道標はあった。

迫間不動尊道 木曽川町 尾崎甚市」(左写真)
右山中不動明王 名古屋市東▲▲ 祖父江七三」(右写真)

昔はここから山道を進み三不動参りをした人が多くいたのでしょう。山中不動の道標は昭和六年の物、迫間不動の道標はもう少し新しいと思われます。今よりも交通手段が不便な中で愛知県、名古屋から熱心な信者がおられたことが分かります。現在でも三不動に掲げられている幟を見ると愛知県から寄進されている方が大勢いらっしゃいました。木曽川を越え、この地に引きつけられるモノは何だったのでしょうね。


小屋名道標

2007-12-01 | 道標・石碑

関市小屋名にある道標。

「左 郡上街道」(下に小さく上有知・八幡?)
「右 飛騨街道」(下に小さく関道・高山道?)
「明治十八年七月建設」
「美濃国武儀郡小屋名追分」
とある。

郡上街道は現在のR156沿いで美濃市・郡上八幡を経由し富山へ続く。
そして飛騨街道と言われてもピンとはこないが、恐らく関市街から現在の県道関金山線を通り金山・下呂を経由して飛騨高山に向かう道のことではないかと思います。

この道しるべについては司馬遼太郎「街道をゆく(4)」の中の「郡上・白川街道」にも書かれています。司馬氏が訪れた時には「交通取締実施中 関警察署」という看板が石碑にくくり付けられていたとか…。この地は「追分」といい、いわゆる分かれ道という意味があります。地名から見ても昔から街道の要衝であることが伺われます。以前はこれより手前で道が分かれており、この石碑の左側をR156が通っていました。司馬氏も書いているようにまさに「追分」の形態を残していました。


司馬氏の訪れてから30年以上たちますが現在も変わらず交通量が多く殺風景な場所ですが、近所の方が干していたダイコンが色のエッセンスを加えてくれていました。

                                               


大矢田道標

2007-11-24 | 道標・石碑
美濃市大矢田にある道標。

写真正面には
「左(北)大矢田神社楓谷圣牧谷」「右(南)高野圣関町高富岐阜」道。
右面は
「左(西)武藝八幡圣洞戸及谷合」「右(東)美濃町洲原圣郡上八幡」道。
左面は
「御大典記念昭和三年建之」
裏面は
「谷合 四里二十丁」「洞戸 三里三五丁」「美濃町 一里九丁」「岐阜市 五里三丁」
「北武藝村椿 武藤宮松」
とある。

昭和3年に建てられた割にはとても新しくみえる石碑です。立て替えられたのでしょうか?
寄贈者の武藤宮松さんは北武藝村(美山町→現山県市)村長だった方のようです。
山県市椿は随分と離れた地にありますが、なぜこの地に石碑を建てたのでしょう。


三田洞道標2

2007-11-15 | 道標・石碑
岐阜市三田洞にある道標。

おそらく折れてしまったのだろう、上半分が無い。
正面左に「かさがみ」、右に「たいし」道。
とだけ判別できる。

「かさがみ」は岩井山延算寺だろうが、
「たいし」は弘法大師のことか??
要は三田洞弘法の事だろうと勝手に推測しておく。

ここより東へ進み三田洞団地を抜け、山越えすると「かさがみ」へ。
南へ300mほどで三田洞弘法(法華寺)へ。


三田洞の道標1

2007-11-15 | 道標・石碑
岐阜市三田洞にある道標。

「右 かさがみ道」
とだけ書いてある。
ここから右へ進み三田洞団地を抜け山道を越えると…
「かさがみ」こと、岩井山延算寺に出る。

昔は三田洞弘法から山を越えて、かさがみ参りの参拝者が多くいたのだろう。


岐阜市藍川橋西詰の道標

2007-11-12 | 道標・石碑
岐阜市の藍川橋(長良川)西の交差点にある道標。

正面に
「左 かさがみ岩井山」「右 上有知(こうずち)街道」
かさがみ岩井山とは、ここから2キロほど行った岐阜市岩井にある延算寺のこと。
上有知は現在の美濃市中心部。長良川上流に10キロほど向かう。

そして下部には…出たっ「名古屋市塩町 伊藤萬蔵」。

先日、伊藤萬蔵翁に関してお調べになっている「ゆあさ」様からコメントを頂き、
「ゆあさ」様のHPにて詳しく記されている伊藤萬蔵翁について拝見しました。

伊藤萬蔵翁は明治~大正にかけ各地に石碑などを寄進された人物で、
おもに愛知県を中心に関東から中国・四国に至るまで寄進物が発見されています。
「ゆあさ」様の記録によると岐阜県内にも18箇所に石碑などを寄進されているようです。
石の語り部 伊藤萬蔵(「ゆあさ」様HP)

左面には「岐阜市道」「山縣村道」
ちなみに左面下は急斜面で危ないです。。。

明治時代に作られたとは思えぬほど、文字が読みやすいです。
どっかでまた萬蔵さんに会いたいですな。


美濃加茂森山町の道標

2007-11-01 | 道標・石碑
美濃加茂市森山町にある道標。
風雨に晒されかなり朽ち果て、倒れて破損したのか中央にコンクリ修復してある。
文字も相当読みにくい。。。

判読できる限りでは、
「左 ○○… 飛騨高山(上部は??)」
「右 ○○ 八百津 木曾路」
ウーン…上部が判読できない。。。

「明治二十五年●月建之」
そして施主はまたも「伊藤萬蔵」。
しかも不思議な事にこの伊藤萬蔵氏は名古屋市の方のようで…、
いったいどういった人なのであろうか??