ケッタでグルグル

久々にケッタ(自転車)を購入。
これを機にブラブラ回ってみよっと。

三井山(みいやま)城

2008-03-25 | 城跡

岐阜県各務原市三井山町にある城跡。呼び名は『みい』。「みつい」だと思ってた…。  

最初の城主は土岐忠八郎とも、土岐氏の家臣・三井弥市郎(弥一郎)とも言われています。築城にあたって山頂にあった神社を下に遷座させました。それが、三井町の御井神社と上中屋町の天神神社といわれています。天文17年(1548)に美濃国内の守護土岐氏と斎藤氏の内乱に乗じて侵攻した、尾張の織田信秀によって落城したとされています。 

この城に関しあまり詳しい歴史はわかっていないようで、ネットで検索しても土岐忠八郎&三井弥市郎なる人物の詳しい事はわかりませんでした。また天文17年の織田信秀が侵攻した経緯について調べてみると、斎藤道三が美濃守護・土岐頼芸を追放し事実上の美濃国主になっていた時期で、追放された頼芸と織田信秀と結託し、美濃へ大軍で攻め込んできた『加納口の戦い』があった年と重なります。信秀が稲葉山城(岐阜城)を大規模に攻めたとされているので、この戦いの際に尾張の見張り台たる三井山城は落城したのでしょうか。

 

 

 

国道21号と交差するサクラの名所として有名な新境川を南下すると1キロ弱で赤い欄干の三井龍神橋があり、この橋を渡った先に三井山の登山口があります。現在は『三井山ふれあいの森』という自然公園になっています。
麓には三井池龍神神社があります。祭神は八大竜王。同市内にある苧ヶ瀬池のものと同じであり、両者の関係はどうのようなものかも気になります。

登山口にはお不動様が鎮座しております。この各務原市内は数多くの不動明王が祀られています。

その脇にはカサカサッと動く物音が…何ぞや!と恐る恐る見てみると、チャボ(?)が1羽だけ歩いていました。カメラを構えて近づくもまったく逃げる様子もなくウロウロ。なんでこんなとこにおるんやろ。。

 

 

 

登山道はファミリー向けだけあってキレイに整備されております。ただ岩山の上に枯葉が落ちているので下りは若干滑りやすくなっていました。
途中に『三井山古墳』があります。1400年ほど前の古墳時代後期に作られたもので、墳丘は直径10mほど。中央部には横穴式石室が残っています。三井山には数十基の古墳跡が発見されたそうです。

各務原市内には他にも数多くの古墳が残されています。麓にあった八大竜王は苧ヶ瀬と同じ祭神でありますし、古代にはチカラを持った豪族がいたのかもしれませんね。

その先には上に向かい『三の曲輪』・『二の曲輪』・『一の曲輪』という看板が連続して立っていました。『三の曲輪』看板付近にはやや広い平地がありそこから本丸に向かいゆるい坂になっています。石塁などが残っているわけではないので説明が無いと(説明されても…)見た目の判断では良く分かりませんでした…。 

本丸を頂点に段々に守るように曲輪が囲んでいるとの説明板(左写真)があり、城跡の全体像がわかりました。『一の曲輪』だけは本丸を囲むよう(腰曲輪)にしっかり残っていました。その西端には東屋があり、ここからは北西方面がしっかり眺望できます。

 

 

本丸跡に到着。海抜108.8mに登頂です。約15分ほど、まぁまぁの運動にはなりました。『御井神社奥の院』と呼ばれる神社がありました。まずは無事なる登頂を感謝し手をあわせます。。。

山頂からは南東部以外はほぼ眺望がききました。北西には金華山をはじめ岐阜市方面がバッチリ見えます(左写真)。眼下には新境川沿いの桜並木も確認できます。今はまだ咲き始めでしたが、やがて満開になるピンクのラインをここから眺めるもの良いものでしょう。

南は木曽川を挟み濃尾平野が一望できます。小牧山はもちろん、遠くJR名古屋駅も確認できました(右写真)。尾張側への最初の要害のちであったであろうこの城の存在価値がわかります。当時の絵を見ると木曽川は山のすぐ南を流れていたようでまさに天険の要塞といった感じだったのでしょう。

『この山高からず、しかれども要害堅固なり』
と、江戸時代の書物に記されているそうです。ゴツゴツとした岩山に眺望の効く山頂。小さい山ながら美濃国の門番としての重要な役割を果たしていたのであろうと想像できます。

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この三井山頂に城を築く前に神社があったそうです。現在、三井町にある御井神社と上中屋町にある天神神社がそれにあたります。


更木陣屋(各務原市)

2008-03-05 | 城跡

各務原市にある旗本徳山氏の陣屋跡。 

徳山氏はダムに沈んだ村でもある旧徳山村(徳山郷)の出身でした。初代旗本だった徳山則秀は織田信長、柴田勝家、前田利家に仕えた後、関ケ原の戦いでは東軍に付き戦功を挙げました。それにより旧領の徳山郷に加え、各務郡内の西市場、山後、桐野、岩池、大島、島崎、野口など五千石の知行地を得て、幕府直轄の旗本として明治維新までの約250年、12代にわたってこの地を治めました。

各務原市那加地区西部は更木郷とよばれており、その中心部に置かれた陣屋であった為、更木陣屋とよばれたそうです。



   

陣屋跡は公園として整備されています。周辺は密集した住宅地となっており、公園の場所は分かりにくかったです。周辺の道路区画は細く入り組んだような感じで古くから集落があった場所である事は推測できます。

公園入口には模擬門(最上部写真)が置かれ雰囲気を感じさせます。園内には「更木陣屋絵図」を元に平成12年に実施された発掘調査から陣屋の間取りが再現されています。建物は役所を兼ねた屋敷という趣で地面に各部屋の配置が説明されておりました。

まだ整備されて月日が浅い感じですが、若い梅はきれいな花を咲かせており池は水を回流させて澄んでいて休憩するにも落ち着く場所でした。


安桜山城

2008-02-26 | 城跡

安桜山城(関城)は関市にある城跡です。  
関市の中心部である(であった?)本町通りの北側にある安桜山に城跡があります。

登山口にあった看板を要約すると…
享禄元年(1528)に永井藤佐衛門長弘が築城し、その後城主は永井隼人佐道利に移りました。永井隼人は斎藤道三の義弟にあたり、中濃から東濃可児郡までの勢力をもち信頼された武将として織田信長との合戦には総大将格で出陣していました。
信長の侵略に備え堂洞城、加治田城と共に同盟を結びましたが、永禄八年(1565)の織田勢の大軍に加治田城は織田軍に降伏。堂洞城は孤立し落城。永井隼人は神出鬼没の迎撃戦で奮戦するもついに安桜山城は陥落しました。
安桜山遊歩道案内

永井隼人佐道利…「永井」とありますが他の文献では「長井」とされているところが多いです。「国盗り物語」で斎藤道三が名乗っていた長井新九郎規秀が印象に残ります。隼人佐道利はその義弟、もしくは息子とされている所もありますが、どうなんでしょう。。織田軍に徹底抗戦した武勇に優れた将ではあったようです。


  

旧市役所があった「わかくさトンネル」の脇に登山道入口の階段(左写真)があります。安桜山はたくさんの遊歩道が整備されていますが、ここが大手道といわれているので今回のスタートはここにしました。階段の上には「安桜山公園」があります。以前は草ボーボーの空地でしたが、今は地元の青年会議所によってたくさんの若い桜が植えられて整備されています。数年後には素晴しい桜の公園になることでしょう。

そこから更に階段で上へいくと御嶽神社があり、拝殿の左脇にポツンと苔むした道標があります。「左 道祖神 月の峯」 「右 本社 朝日山」と見えます。想像ですが、朝日山とは安桜山から朝日が見られる所から、月の峯は昔は月見の名所だったからなのでしょうか。わからなくとも想像するのが面白いです。

 

本筋からちょっと寄り道してサイレン塔を見てきました。昭和13年に建てられ戦時中には空襲警報も流していたそうです。現在はサイレンは流されてはいませんが、NPOぶうめらんの方々によってイルミネーションが装飾され夜にはキレイな電飾が見られるそうです。昼にみると電飾がまるで鉄条網のようで無骨ながら存在感のある戦争を潜り抜けてきた昭和初期の凄み(?)が感じられます。



  

大手道はしっかり整備されており、途中の道標もしっかりと迷うことなく、疲れることなくピークにある東屋に到着。ここは平坦になっており城下町絵図をみるにここが二の丸だったのかもしれません。

 

 

山頂すぐ下に南が一望できる場所があります。
(左写真)中央の山が梅龍寺山。 / (右写真)左の山が一ツ山砦。中央の小山が十六所山砦です。
東を流れる吉田川、西を流れる関川が内堀の役目。それらが流れ込む南の津保川が外堀の役目を果たしていました。
安桜山城下町絵図(関市教育委員会)

江戸期の関には城は無く、刃物(刀剣)をはじめ職人の町として栄えました。眼下に広がる現在の本町付近に町は集中していたようで、吉田観音あたりになると周りは田畑であったといわれています。いかに現在は多くの家が建ち密集してるのかが上から見るとよくわかります。

 

     

山頂です。標高152m。登頂しました。安桜山城の本丸跡でもあります。御岳神社が祀られています。

 

 

山頂から西(関善光寺方向)へ行くと途中西のピークあたりから西北方面(左写真)の能郷白山(でいいのかな?)と北東方面(右写真)の御岳山が凄くきれいに見られました。関市内の絶景ポイントではないでしょうか。空気が澄んで山に雪がかぶり絶好条件でしたが、カメラマンの腕が無いのが悔やまれてなりません。。西方面の伊吹山も素晴しかったです。

 

善光寺に至る手前にはお不動さんに率いられるようにお地蔵さんがズラーッと並んでいました。皆こちらをずっと見てる感じなので前を通るのが少し気恥ずかしい気がしたりして…。

ここから西へ下ると卍型戒壇巡りで有名な関善光寺(宗休寺)へ続きます。→【関善光寺へ】


鉈尾山城(古城山)

2008-02-19 | 城跡

 

鉈尾山城跡は現在の岐阜県美濃市にある古城山頂に築かれていた中世山城です。美濃守護の土岐氏に属していた佐藤清信が築城しました。織田信長の美濃侵攻後は織田家に属し、嫡男の秀方の代には信長、秀吉の配下として数多くの戦功を上げ武儀郡大半にあたる二万五千石の所領を得たといわれています。 

しかし三代目の方政のとき、関ケ原の戦いにて西軍に属して岐阜城の織田秀信(信長の孫)の将として新加納の戦いなどで戦うも敗れ、戦後に所領は没収されました。方政は新加納の戦いの際に戦死したとも、敗戦後に清泰寺にて息絶えたとも、大阪の陣まで生き延びてそこで戦死したとも言われているそうです。

その後に入部した金森長近により城は小倉山城、町は上有知へと移転され鉈尾山城は廃城となりました。

左写真は美濃市運動公園から見た鉈尾山城。現在、地元では古城山と呼ばれています。右写真は佐藤氏が鉈尾山に居城していた頃の城下町として栄えていた場所(現・美濃市中央の水田地帯)といわれています。現在は陰も形もありません。佐藤氏の菩提所は市内の清泰寺です。

古城山へのアクセス 
古城山ルート  

 

 

登山口は美濃市運動公園からとなっています。道の駅「美濃にわか茶屋」北の信号を右に折れ、トンネルをくぐってすぐ左折、どんどん坂を登っていった突き当たりに運動公園のグラウンドがあります(大駐車場あり)。

そこにある看板(左写真)を見て、野球場下から毛鹿洞池へでます。ダークグリーンの美しい水面を見ながら時計回りに池を1/4ほど歩くと登山口があらわれました。こちらからの道が鉈尾山城の大手道であるといわれているそうです。

 

  

山火事用心の幟を見ながら出発。道は大変きれいに整備されています。先日訪れた大桑城とは大違いで道幅も広く危ない思いもすることは無く悠々と登る事ができます。途中で何度も案内・距離板も設置されており迷うことなく頂上を目指す事ができました。道中は少しだけ残雪もあり、防火用のバケツの中の水は比較的温かな2月の午後だというのにまだしっかりと氷が張っていました。

 

 

季節が季節だけに山道に色付く花や葉を見ることはできませんできず、シダの葉が山肌を覆っていました。ヘビやマムシも怖いですが、寒いので恐らく冬眠中だろうと身勝手な希望を持って前に進みます。登山口から約20分で最初の休憩所(右写真)に到着です。

 



  

東の休憩所からの眼下には東海北陸自動車道を走る車が見られます。走っている車はミニカーのような小ささに見えるんですが、音は結構通るんですね。ここから高速で北に走るとスグ「古城山トンネル」に入ります。この「古城山」こそが、今登っている山なんですよね。知らなかったなぁ~。

この休憩所脇に「不動の岩」という巨大岩があります。その横から更に上へと進みます。この辺りからは階段が少々多くなりますね。でも、道はきれいに整備されております。やがて尾根に出たのか道はやや平坦になっていきます。

 



  

出発から40分ほどで初めてここが城跡であることを示す看板、「石塁」があらわれました。言われてみればいかにも人為的に積み上げられた石です。この辺りからは頂上に向かって階段が続いています。

続いて「三の曲輪」。石塁の所から平坦地→階段→平坦地→階段と続き、人為的に作られた曲輪の跡だというイメージが湧いてきます。木や草が生えまくってますが…。ということは次は二の曲輪かな??と思い階段を上がります。

 



  

眼前に飛び込んできたのは石碑でした。「史蹟美濃●佐藤●●●城趾」(よく読むと美濃守佐藤才次郎城趾)と書かれています。誰が消したのか…というか何か埋めたのか。。何にしろここが主郭です。要するに頂上ということで標高437m登頂しました☆

山頂は本丸趾でありながらたくさんの木が生えていたと思われますが、頂上からの眺望を考え何本かの木は切られているため結構広々しています。東屋から南西方面への景色はバツグンです。天気がよければ…。美濃教育委員会による鉈尾山城の説明文と、高田徹氏による縄張り図も分かり易くイメージが良くわきます。


 

頂上からの眺望。天気がイマイチだったのが悔やまれます…。右側にある小高い山が小倉山城。その先にある田園地帯に佐藤氏時代の城下町があったといわれている場所です。たしかにこんな高い山からあんな遠くまで行くのは不便で仕方が無い感じです。城と町を移動させた金森長近の判断は賢明だといえるでしょう。しかし、佐藤氏の時代には下克上の戦国時代。戦が一段落した江戸初期と同列に考えるのは難しいかもしれません。もちろん佐藤氏の時代も、この城は万が一の戦に備えての為に存在していたわけで、平時は城主が常駐していたわけではないと思います。

そして、なぜ鉈尾(なたお)山というのか?? 説明文によると『四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたと伝えられています』…ということですか。三国志みたいですな^^ 

 

  

さて下山。帰りは反対方向へ下りていきました。とにかく広くて道がスムーズ。大桑城は帰りの方がすべるのが怖くて注意してましたが、今回は楽々です。

こちらの道にも展望台がありました。頂上からの景色と似ています(右写真)。やや天気が良くなって眺望もききました。ウーン残念。ここからは長良川に夕焼けが反射してきれいでした。 

無事、到着。弓道場脇に出ました。今回も何もなく下山でき感謝です☆


大桑城跡

2008-02-16 | 城跡

「枝広はもう、あぶのうござる」
と、頼芸に説き、頼芸も賛成し、彼を川手城・加納城から北へ五里も入った山地に移すことにしたのである。
大桑城という。
はるかに飛騨の山々につづく大桑山の山上にある古城で、庄九郎がみずから監督してみちがえるほどの壮麗な姿に仕立てかえた。なるほどこの山上なら、もはや洪水からの不安はない。
もともと洪水ぎらいの頼芸は、
「なぜ早くここに移らなんだか」
とよろこんだ。
追いやられた、とは頼芸は気がつかなかったのであろう。
【国盗り物語 斎藤道三編(司馬遼太郎 著)より抜粋】

(庄九郎=斎藤道三 / 頼芸=土岐頼芸)

上の文は小説「国盗り物語」の中の一節で、大洪水によって土岐頼芸の居城だった枝広(現・長良公園付近といわれる)周辺が水害にあった際のくだりです。
初めて「国盗り物語」を読んだ時から妙に気になっていた大桑城という名前。加納から北へ五里(20キロ)ってどこの山奥だ?と大桑の地名も知らず…最近になって調べてみると山県市の大桑と判明。しかもオオクワだと思い込んでたら、オオガだと知りました。そして念願?叶って訪れる事になり…。

 

ちらほら小雪が舞い寒風が吹く。天気を気にしつつ登山口に向かいます。椿野苑という特養ホームを過ぎると小川沿いに桜並木(左写真)が揃ってます。もちろん今は枯れていますが、4月はキレイな事でしょう。

正面に見えてくるのは大桑城登山口の看板。そして熊出没注意の看板…ちょっとビビります。。

 

    

少し朽ち果てたような「大桑養蚕団地」の建物脇にケッタをおき、その脇道を進むと狭い駐車スペースがあります。そこには山火事注意の看板と共にご自由にお使い下さいとの登山用の杖(左写真)が。心遣いありがたや。。

やがて見えてくるのは「大桑古城山登山口」の石碑。これも手づくり風です。温かみを感じながらの出発です。

 

 

登りはじめのしばらくは細い道、しかもシダに覆われたような足元が見えないような道。ホントにこの道であってるのだろうか…としばし不安になりつつの登り道。しかもそこそこキツイし。

つづら折の細道を約10分。上りきったら尾根に着いたのかようやくそれなりに広い道に。今来た道の反対側は高富ゴルフクラブがありますが、以前はそちらから登るのが正規の登山ルートだったようで、それが大桑城の大手道らしいといわれています。

 

  

しかしまだまだ気を抜けず。道は時折細くなり、岩はゴロゴロ転がり、倒木(左写真)が行く手をさえぎり…どちらが正規の道か迷いつつ、たどり着いた番所跡。登りはじめてから、やっとここが城跡である事をしめす看板を見つけました。今は岩が転がり木が生えていますが、言われてみるとここは岩場ではなく土が盛った跡という感じがしないでもない。。言われないと全くわかりませんが…。とにかく、ここに城の番人がいて見張っていた場所ということでしょうね。ここまで下から約25分。

 

 

そして約5分歩くと第二の看板。馬ならし場跡入口。こんな狭い場所で馬を…今まで自分一人だけ登るだけでもヒーヒー言ってたのに…馬を…。絶句。。

そのスグ先には、なんとなく堀のような場所がありました。登山道の両側は人の手が加えられたような不自然な崖になってます。

この先には「霧井戸入口」という看板があったので、興味を引かれたのですが見るからに急斜面なのと天候が気になったので断念…あとから調べると10分程度だということで、行かなかった事に少し後悔。。

 

 

途中、能郷白山眺望と書かれた看板があり眺望してみると…白い雲がこちらへ向かって襲い掛かって来そうな雰囲気。怖い。。もちろん能郷白山は白い雲の中で見えませんでした。

このあたり何となく広い場所が多くなり、下も岩場ではなく土になり曲輪の跡かもと思わせる場所が出始めました。そろそろ山頂は近いか。

 



  

坂を上って前を見るとそこには社が…ここが山頂付近か。前文の庄九郎が仕立てた壮麗な姿の城はここに建っていたのでしょうか。社の横には土岐頼芸を顕彰した石碑(右写真)もありました。

自分が知ってる土岐頼芸、そして大桑城はあくまで小説の範囲内しか知りません。一説にはここを居城としていたのは頼芸の兄である政頼・頼純親子だったとも言われているそうです。そもそも斎藤道三その人にしても、「国盗り物語」は親子二代で成し遂げた説が正論となりつつありますし、何がホントかと言われてもなかなか簡単にはわからないのでしょうね。

 


 
  

そして、見えてきたのが『大桑城天守閣』。これが道三の築いた壮麗な…ではなく、大桑青少年育成会の方々が協力し昭和63年に完成した手づくりのミニ天守閣でした。城の石垣に書いてある説明板には3年の月日をかけて計画・作成されたとあり、地元の方々が汗を流しながら作り、そしてここまで運ぶ姿が目に浮かぶようで、この小さい天守に心が温まりました。この手づくり天守は大桑の方々にとって誇りという感じがします。見下ろせば大桑地区が小さく見えます。

 

 

そしてもう一つのプレゼントがこの景色。南を向けば今来たルートの大桑から高富方面に(左写真)。金華山もおぼろげながら見えてるかどうか…。

東側には武芸川方面(右写真)。武儀川の流れはハッキリと見えます。雪雲が流れてきてやや視界が悪くなっていたのは残念でしたが、ここまで登ったかいはありました。

 

西を見ると…何も見えない。能郷白山方面が見える予定ですが、完全に雪空でした。かなりこの山頂にも雪が舞ってきて時折薄暗くなり、山に慣れていない自分は結構恐怖でした。

 

  

そして山頂はすぐそこ。古城山(金鶏山)407.5mに登頂成功です。解けていない雪が少しだけ残っていました。ここでは最後のご褒美。北への眺望がバッチリでした。高賀山や瓢ヶ岳でしょうか。雪はうっすら、今年はあまり多くないのかもしれません。ここまで約40分でした。

なんとか無事下山できた頃には空は快晴。もっとゆっくり堪能すればよかったと思いながらも、トラブル無く帰還できたのが何よりのご褒美だと感謝しながらケッタをまたぐ。 


小倉山城(美濃市)

2008-01-15 | 城跡

  

美濃市の小倉山にある城跡。

小倉山城は金森長近が関ケ原合戦の功績により加封され上有知藩を統治した際に、そのころ城があった鉈尾山(古城山)から当地へ移動させて慶長11年(1606)に建築しました。当時は尾崎丸山と呼ばれていましたが、文化人でもあった長近は小倉百人一首でも詠まれている京都嵯峨野の名勝地「小倉山」の名を取り名付けたといわれています。長近の死後、二代藩主金森長光が夭折してしまいわずか二代で上有知藩は廃藩となり、以後は代官所が置かれ明治に至りました。明治33年(1900)町有地となり本丸・二の丸跡は小倉公園として整備され現在に至っています。

 

  

R156沿い左手の美濃市文化会館前に金森長近の顕彰をたたえ、「長近の松」と命名された松が立っています(左写真)。ここが小倉山城への入口です。先へ進み坂を上ると西側に美濃市図書館が建っています。明治期には有知学校(現在は泉町の宝勝院に移築)が建てられていました(中写真)。 

 

  

坂を上った駐車場の所が二の丸跡です。整備された水路などが整備されており、東側にはミニ動物園があり猿や鹿、クジャクにチャボ…などの動物が飼われていました。なんとなく昭和のニオイがしてこれはこれで良いですね。サルの親子が仲良く毛づくろいをしていて微笑ましかったです☆

築かれた石垣は長近が築城以来400年の歴史に耐えたものであり、今も微動だにせずガッツリと支えています。上に建つ櫓や土塀は近年に復元されたものです。重厚感のある石垣に比べるとちょっと…少なくとも金のシャチホコはやめた方がいいかも知れない^^;


  

石段の上は本丸跡、こちらもキレイな庭園として整備されています。のどかです。桜の木も多く春になったらさぞかし見事な桜が咲くことでしょう。同地の偉人でもある村瀬藤城の碑もあります。

 

  

山頂を目指します。道筋には小屋(左写真)が多数あり、案内板には屋号が振られています。中には誰もいませんし、あまり使われていない様子。想像ですが、桜の時期には花見小屋として活躍するのではないのでしょうか?

登山道はキレイに整備されており割と楽に登れます。小さいお子さん連れでも問題ない位の気軽なウォーキングコースです。途中、道が四方八方に別れておりルートに迷ってしまうほどですが、色んな道が楽しめそうです。曲輪跡かな?と思えるような場所も所々ありますが、どうなんでしょうか…忠魂碑あたりも気になります。

山頂まで10分少々。標高約160mです。そこには一見三層天守かと思わせる展望台が建っていました。

 

  

展望台の上からは360°の眺望ができます。北(左写真)は長良川上流方向。少し先に西から流れる板取川と合流点があり、板取川を上った所に美濃和紙の産地である牧谷があります。南東(右写真)は上有知の街。「うだつの上がる町並み」が見られます。 

 

  

南(左写真)はR156から関市方面へ。真ん中の小高い山は以安寺山です。南西(右写真)は長良川下流方面。眼下には清泰寺など殿町が見えます。

天気も最高によく、遠くまで眺望できました。低い山ながら景色は広がりなかなか堪能できました。

「うだつの上がる町並み」へ。
上有知川湊へ。
美濃橋(前野渡舟場)へ。
清泰寺へ。


名古屋城(本丸)

2008-01-05 | 城跡

名古屋城の本丸。天守閣。
右ある名古屋の象徴、金鯱(シャチホコ)を携えた大天守と連結された小天守の連結式になっています。

大天守は五層五階の地下一階。築城は1612年に徳川家康が建て、江戸・明治・大正・昭和と300余年の長きに渡り尾張名古屋を見下ろしてきましたが、昭和20年(1945)に空襲により全焼してしまいました。
高さは18階建て高層ビルに相当し、延べ床面積は江戸城、大阪城をも凌駕する広さだと言われています。屋根瓦は銅製で、他の城と違い名古屋城のイメージとしてパッと浮ぶのは薄緑色の屋根なのはそのためなのですね。

そして名古屋城と言えば金のシャチホコ(金鯱)ですね。築城当時の金鯱は約320キロいわれ、金の純度も高く非常に光沢のあるものでしたが、歴史と共に尾張藩の財政も厳しくなってきた為に金の純度を下げていき光沢も薄れてきたそうです。しかし金はいつの時代も貴重なもので何度も鯱のウロコの盗難騒ぎが起きているそうです。中には大凧に乗って盗みに来た輩も…そんな金鯱も昭和20年(1945)に空襲により消失してしまいました。空襲から守ろうとシャチホコを地上へ降ろす準備をしていた足場に上から落ちてきた焼夷弾が引っかかり天守もろとも焼けてしまったそうで…なんとも因果な話です。

小天守は二層二階地下一階でした。大天守にいくにはここを通過しないと行けないので、名古屋城最後の関門とも言えますね。非常に地味な存在ですが、それでも他の小さな城の天守閣よりも大きいらしいのです。

現在の大天守・小天守・金鯱とも昭和34年(1959)に再建されました。現在も立派に名古屋の象徴として頑張ってます。

  

現在、天守館内は資料展示館となっています。
小天守から中に入り、剣塀のある連結部から大天守内部へ。1階から7階展望室までのエレベーター(城外から大天守内部へ入る身障者用エレベーターも完備)があり、一気に殿様気分を味わう事もできますから体の不自由な方にも内部まで存分に見学できるような配慮がしてあります。私は階段を一段一段登り、各階を見学しながら最上階まで行きました。

展望室から見下ろすと、本丸に集まる人々の小ささ(左写真)から天下人になった気分が味わえます。どんな天守に行っても、この気持ちよさは格別です。(バカと煙は高い所が…とか言いますが)
しかし、西を見てみるとわずか前方に名古屋駅前の高層ビル群(右写真)が…見事に上から見下ろされています^^;

   

左写真の場所には本丸御殿が建てられていました。
当初は藩主の邸宅として使われてきましたが1620年に将軍上洛時の御成専用となりました。要するに将軍が京都に向かう途中に立ち寄る時のみに使ったという事でしょう。何とも贅沢極まりない話ではありますな。ただ、そこは尾張名古屋のプライドではないでしょうが、本丸御殿の内装は非常に豪華なものでした。立派な襖絵なども数多くありましたが、こちらも昭和20年(1945)の空襲によって全焼してしまいました。。ただ、壁画などは疎開されており焼失を免れたものもあります。

現在、本丸御殿の復元計画が実行されており基金を集めています。完成すると右の図(左写真とほぼ同角度)のようになる予定です。完成予定は2020年…まだ気の遠くなるような先ですが、楽しみですね。

   

名古屋城には隅櫓が4つありました。
左写真は西南隅櫓(手前の櫓)で二層三階で外面に石落とし(落狭間)が配置されています。石落としは石垣をよじ登ってくる敵兵に対し、櫓の中から石を落として邪魔をするためのものです。外見から見ると建物の装飾の一つに見えるように偽装されています。この櫓は1891年の濃尾地震で石垣もろとも崩壊してしまい、後に復元されたものです。

右写真は東南隅櫓(本丸から撮影)で基本的には西南隅櫓と同じ構造ですが、落狭間の形が若干違うようです。。(写真は逆ですね;;)。この櫓は1612年の築城当時のまま残っており重要文化財に指定されています。

あとの2つは御深井丸にある西北隅櫓と本丸にあった北東隅櫓(濃尾地震で崩壊)です。

   

天守台の石垣は上部で外に反りだす「扇勾配」といわれ、石垣を担当したのは築城の名手加藤清正「清正流三日月石垣」と呼ばれているそうです。本丸の周りは空掘が囲んでいます。

堀の中には鹿の親子が数頭飼われていました。やはり動物がいると和みますな^^。

     

左写真は大天守と小天守をつなぐ通路になっているのですが、その塀の上外側には30センチほど槍の穂先が並べられています。これは「剣塀」といって忍返し(曲者が塀を越えられなくする)の役割を果たしていたそうです。

右写真は「清正石」と呼ばれる巨大な石塁です。この巨石を運搬する際に加藤清正が自ら音頭をとって運んだと言われていますが、この場所の担当は黒田長政だと伝えられており、清正の話は疑問ですね…ただ、この名古屋城を探索するのに何度も出てくる加藤清正の名前。それだけ当時の民衆からの支持が高かったのではないかと思いますね。

      

名古屋城の石垣をジックリ見れば所々にある不思議な刻印…一見するとラクガキのようですが。。。
これは石を遠方から運んだ時に誰の石か?というのを示すために彫られたと言われています。こんなに重たい石を苦労して運んできて他の連中に横取りされては人足たちもたまったものではないでしょうからね。

武と美の象徴である建造物に残る少し微笑ましい歴史の足跡ですな^^

北西、西之丸(大手筋)へ。
南東、二の丸へ。
北、御深井丸へ。


名古屋城(二の丸)

2008-01-05 | 城跡

名古屋城二の丸は天守閣がある本丸の南東側に位置した場所にありました。
1618年の二の丸御殿完成後に藩主が本丸御殿からこちらへ居を移しました。それからは本丸御殿は御成専用となって、こちらの二の丸御殿が幕末に至るまで藩の政庁としての機能を果たす事となりました。要は本丸の天守および御殿は一種の見世物というか権威の象徴としての役割、本当の政治的な中枢はこちらで行われていたと言うことでしょうね。

当時の御殿及び庭園は明治期に取り壊され、現在は新たに二の丸庭園として再整備がされています。庭園には外国人観光客の方が多数おられ興味深げに写真を撮っていました。日本人観光客の多くは、この二の丸をスルーしてそのまま本丸へ向かう方が殆どです。やはり外国の方には、このような庭園が日本らしさを感じられる部分なのかも知れません。勝手な想像ですが。。。

   

東西に鉄御門(くろがねごもん)を備え、三の丸から二の丸への連絡門となっていました。

左写真が西之門で、二の丸大手門または西鉄門と呼ばれています。これは築城当時のもので重要文化財に指定されています。普通の家で言えばいわゆるここが玄関の門という解釈なのでしょう。愛知県体育館建設時に一度解体されましたが、後に復元されました。地下鉄や駐車場から来場するルートからは外れており一般観光客が訪れる際には一番利用されない門かも知れません。

右写真は東之門で、二の丸東二之門または東鉄門と呼ばれています。これも築城当時のもので重要文化財に指定されています。こちらも愛知県体育館建設時に一度解体され後に復元されたのですが、復元された場所が元の場所ではなく本丸東門が建っていた場所になり何の違和感もなくスッポリ収まっています。本来、東鉄門が建っていた場所は現在、地下鉄「市役所駅」から名古屋城へ入る観光のメインルートになっており、また大相撲名古屋場所の時期になると、ここを通って愛知県体育館に向かう客が大勢いるので、ここに復元するのは通行のジャマだと判断されたのでしょう…でもまぁ、上手く収まる場所があって良かったですね^^

どちらの門も内部に枡形を備えており、門の形状は高麗門でした。裏から見ても良く似てます。



この碑は初代尾張藩主の徳川義直の著『軍書合鑑』の末尾に書かれている
「王命に依って催されるゝ事」
という言葉が彫られています。
要するに、もし何か有事の際は「天皇方(朝廷)に味方しますよ」という意味が込められ、尊王思想を持った人物であったと知らしています。

歴史が下って幕末。この碑の言葉ははす向かいの草葉の陰に立っている「青松葉事件之遺跡」の碑とリンクされることになるのですね。青松葉事件の碑の写真を取り忘れました。。詳細も深く知らないので勉強しなおして参ります。

   

左写真は「南蛮たたき鉄砲狭間」というものです。石灰・赤土・種油を練り合わせて、たたき上げる「南蛮たたき」と呼ばれる工法で造られた練塀が並び、そこに円形の穴を掘り銃口を向ける「鉄砲狭間」の仕組みになっていました。当然こんな低くては話にならないので、昔はもっと立派な壁だったのでしょうね。関係ないですが、カラスがメチャクチャ多かった。地面にも木の枝にも空にも…。

   

明治維新後、二の丸は尾張藩から新政府に摂取され名古屋鎮台として設置されました。二の丸御殿や庭園など、多くの建築物は取り壊されて官舎が建てられました。その後、第三師団に改編され終戦まで置かれました。左写真は第三師団に所属していた歩兵第六連隊の記念碑です。

戦後、二の丸北側が庭園になり、南側(江戸期には馬場だった)を愛知県体育館が建てられました。ここは毎年7月になると大相撲名古屋場所が催され多くの大相撲ファンが訪れる場所です。最近、何かと騒がしい角界で毎年入場客の減りが目立っているようですが、今年の夏は盛り上がる事を期待したいです。

北西、本丸
北、御深井丸
西、西之丸
南、三之丸へ


名古屋城(西之丸)

2008-01-05 | 城跡

『尾張名古屋は城で持つ』と言われるほど、名古屋城は名古屋の象徴とされています。
西之丸は三之丸から本丸へ続く大手筋にあたり、以前は米蔵が立ち並び有事の際の食糧基地としての役割もあったそうです。

上写真は現在の名古屋城正門。江戸期には西之丸榎多御門があった場所に、明治44年江戸城の蓮池門を移築しました。しかし昭和20年の戦災によって消失し、昭和34年に復元され現在に至っています。
現在も門番がしっかり立っており、この門より中に入るには入場料が必要となります。

   

正門をくぐると天然記念物のカヤの木(左写真)があります。樹齢600年といいますから名古屋城より年長ですね。地震や戦災にも耐えて栄枯盛衰を見続けてきたのでしょう。また2008年度から本丸御殿復元の着工が始まる為に寄付金を集めていました。シンボルである金鯱君(右写真)に皆募金…ではなく写真を撮ってました。

   

ここから本丸へが大手筋(左写真)。要は正式な順路ですね。これだけの広さの道を大名行列が通ったと想像すると尾張名古屋の殿様の絢爛豪華さが伝わってきます。

当時、本丸へ入るには馬出しというU字型に作った堀を通らなければ行けませんでした。イメージとしては車両通行禁止の場所に人間だけが通れるように作られたU字型柵の巨大なモノ…という感じでしょうか。要は敵が攻めてきた時に、一度に多くの人が一斉に城内に流れ込めないようなストッパー的な役割がありました。門の中には枡形(ますがた)というクランクになっており、これも敵が一気に来ないようにする工夫なのですね。現在は取り壊されてまっ平らになっています。

本丸へは本丸表(南)二之門(右写真)をくぐり入ります。この門は鉄製で地震や戦災にも耐え、重要文化財となっています。門の左壁にある丸い穴は「鉄砲狭間」といって門に近づく敵をあそこから撃つんですね。こんな所で写真を撮ってたら撃ち殺されますな^^;

北、本丸へ。
東、二の丸へ。
北西、御深井丸へ。
南、三之丸へ。


名古屋城(御深井丸)

2008-01-05 | 城跡

御深井丸は天守閣のある本丸の空掘を挟んだ北西に位置していました。
本丸の背後を守る役目があり、その最大の象徴が北西隅櫓(戌亥櫓)でした。
これは三層三階と名古屋城の隅櫓の中でも最大で、清洲城から移築されたのではないかという説から「清洲櫓」と呼ばれています。重要文化財に指定されており、名古屋城内で最古の建築物であると言われています。

  

本丸からは不明門(左写真)を通じ行き来できました。しかし本丸御殿の大奥へと通じる秘門とされていたため「あかずの門」として常に鍵が掛けられていたようです。

また猿面茶席(右写真)は織田信長が清洲城に建てたものを名古屋城二の丸に移築したものですが、明治期になり鶴舞公園へ移された後、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。現在はこの御深井丸に復元されています。なぜ「猿面」かというと、茶席の床柱に両眼のように見える節があり、信長が木下藤吉郎に向かい「汝の面の如し」と笑った所が由来と言われています。名古屋人は三英傑のエピソードが好きなのが伝わってきます。

  

御深井丸は武器・弾薬を入れた蔵が多数あり名古屋城の軍事庫の役割を果たしていました。明治期になり一旦は徳川家所有地となっていましたが、明治22年(1889)に陸軍に買い上げられ錬兵所となりました。その中にポツンと立つレンガ造りの倉庫が乃木倉庫(左写真)と呼ばれいる陸軍の弾薬庫で、後の陸軍大将乃木希典が名古屋に在任中に建てられたので、自然にこの名がついたと言われています。その後、昭和20年の空襲の際に本丸御殿の障壁画などをここへ避難させていたので焼失を免れたそうです。

御深井丸から西は広い水堀になっています。見上げた先にはJR名古屋駅前の高層タワーが、夕日に照らされていました。下々の民衆を見下ろしていた名古屋城も時の流れと共に見下げられてしまう立場に変わってしまった名古屋の象徴…少し儚い思いがしないでもありませんね。。。

南東、本丸
東、二の丸
南、西之丸