岐阜県各務原市三井山町にある城跡。呼び名は『みい』。「みつい」だと思ってた…。
最初の城主は土岐忠八郎とも、土岐氏の家臣・三井弥市郎(弥一郎)とも言われています。築城にあたって山頂にあった神社を下に遷座させました。それが、三井町の御井神社と上中屋町の天神神社といわれています。天文17年(1548)に美濃国内の守護土岐氏と斎藤氏の内乱に乗じて侵攻した、尾張の織田信秀によって落城したとされています。
この城に関しあまり詳しい歴史はわかっていないようで、ネットで検索しても土岐忠八郎&三井弥市郎なる人物の詳しい事はわかりませんでした。また天文17年の織田信秀が侵攻した経緯について調べてみると、斎藤道三が美濃守護・土岐頼芸を追放し事実上の美濃国主になっていた時期で、追放された頼芸と織田信秀と結託し、美濃へ大軍で攻め込んできた『加納口の戦い』があった年と重なります。信秀が稲葉山城(岐阜城)を大規模に攻めたとされているので、この戦いの際に尾張の見張り台たる三井山城は落城したのでしょうか。
国道21号と交差するサクラの名所として有名な新境川を南下すると1キロ弱で赤い欄干の三井龍神橋があり、この橋を渡った先に三井山の登山口があります。現在は『三井山ふれあいの森』という自然公園になっています。
麓には三井池龍神神社があります。祭神は八大竜王。同市内にある苧ヶ瀬池のものと同じであり、両者の関係はどうのようなものかも気になります。
登山口にはお不動様が鎮座しております。この各務原市内は数多くの不動明王が祀られています。
その脇にはカサカサッと動く物音が…何ぞや!と恐る恐る見てみると、チャボ(?)が1羽だけ歩いていました。カメラを構えて近づくもまったく逃げる様子もなくウロウロ。なんでこんなとこにおるんやろ。。
登山道はファミリー向けだけあってキレイに整備されております。ただ岩山の上に枯葉が落ちているので下りは若干滑りやすくなっていました。
途中に『三井山古墳』があります。1400年ほど前の古墳時代後期に作られたもので、墳丘は直径10mほど。中央部には横穴式石室が残っています。三井山には数十基の古墳跡が発見されたそうです。
各務原市内には他にも数多くの古墳が残されています。麓にあった八大竜王は苧ヶ瀬と同じ祭神でありますし、古代にはチカラを持った豪族がいたのかもしれませんね。
その先には上に向かい『三の曲輪』・『二の曲輪』・『一の曲輪』という看板が連続して立っていました。『三の曲輪』看板付近にはやや広い平地がありそこから本丸に向かいゆるい坂になっています。石塁などが残っているわけではないので説明が無いと(説明されても…)見た目の判断では良く分かりませんでした…。
本丸を頂点に段々に守るように曲輪が囲んでいるとの説明板(左写真)があり、城跡の全体像がわかりました。『一の曲輪』だけは本丸を囲むよう(腰曲輪)にしっかり残っていました。その西端には東屋があり、ここからは北西方面がしっかり眺望できます。
本丸跡に到着。海抜108.8mに登頂です。約15分ほど、まぁまぁの運動にはなりました。『御井神社奥の院』と呼ばれる神社がありました。まずは無事なる登頂を感謝し手をあわせます。。。
山頂からは南東部以外はほぼ眺望がききました。北西には金華山をはじめ岐阜市方面がバッチリ見えます(左写真)。眼下には新境川沿いの桜並木も確認できます。今はまだ咲き始めでしたが、やがて満開になるピンクのラインをここから眺めるもの良いものでしょう。
南は木曽川を挟み濃尾平野が一望できます。小牧山はもちろん、遠くJR名古屋駅も確認できました(右写真)。尾張側への最初の要害のちであったであろうこの城の存在価値がわかります。当時の絵を見ると木曽川は山のすぐ南を流れていたようでまさに天険の要塞といった感じだったのでしょう。
『この山高からず、しかれども要害堅固なり』
と、江戸時代の書物に記されているそうです。ゴツゴツとした岩山に眺望の効く山頂。小さい山ながら美濃国の門番としての重要な役割を果たしていたのであろうと想像できます。
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この三井山頂に城を築く前に神社があったそうです。現在、三井町にある御井神社と上中屋町にある天神神社がそれにあたります。