先日、『在』という文字を書きまくってグラウンディングという感覚を得た私に
今日降りてきた言葉は『己の中心に己を置く』というものでした。
自分自身が自分を認め、揺るがない自己を心の中心に据える。
イメージとしては、坐禅の『坐』の字のような感じです。
人間関係に振り回されてしまうとか
人に頼られること、人の役に立つことに『依存して』しまうとか
(いわゆる共依存という意味であり、奉仕や布施の精神とは似て非なるものです)
人の反応を過度に気にしてしまうとか、一人でいることが耐え難くつらいとか
そういう状態というのは自分の中心を相手や他人に明け渡している状態ではないかなぁと思います。
自分を認め、揺るがない自分を自分の軸とすることで
自分と他人のバランスが上手に取れるようになるのではないでしょうか。
モラハラを受けて自己評価が病的に下がっていることに気づいたばかりの頃
自己啓発の本やビジネス本を読みまくり、知識で武装しようと躍起になっていました。
知識を得て、考えて考えて。
もちろん、一つひとつ何かを会得することで自分に自信をつけるというのも
自己評価を上げるためには大切なプロセスではあるのですが
「もっと知識を」と渇望するということは、潜在意識下では
『今の自分では不十分である』ということになってしまうのでしょうね。
知的好奇心を満たす、というのとはとっている行動や手段は同じでも
その根本にあるものが違うので、不安や焦燥感からは、どうりで解放されないわけです。
自分の心の中にこそ、自分の居場所があるのだと、今では安心感とともにそれを信じられる。
だからどこに居ても誰と居ても一人でいるときでも、寄る辺ない心細さはもう、感じません。
神様や仏様のお導きは、時に大きな方向転換をもたらすこともあるけれど
進むべき道を照らした後は、ゆっくりとゆっくりと
その人の成長度合いや歩調に合わせて下さっているのだなぁと
本当に、本当にありがたく思います。
今日降りてきた言葉は『己の中心に己を置く』というものでした。
自分自身が自分を認め、揺るがない自己を心の中心に据える。
イメージとしては、坐禅の『坐』の字のような感じです。
人間関係に振り回されてしまうとか
人に頼られること、人の役に立つことに『依存して』しまうとか
(いわゆる共依存という意味であり、奉仕や布施の精神とは似て非なるものです)
人の反応を過度に気にしてしまうとか、一人でいることが耐え難くつらいとか
そういう状態というのは自分の中心を相手や他人に明け渡している状態ではないかなぁと思います。
自分を認め、揺るがない自分を自分の軸とすることで
自分と他人のバランスが上手に取れるようになるのではないでしょうか。
モラハラを受けて自己評価が病的に下がっていることに気づいたばかりの頃
自己啓発の本やビジネス本を読みまくり、知識で武装しようと躍起になっていました。
知識を得て、考えて考えて。
もちろん、一つひとつ何かを会得することで自分に自信をつけるというのも
自己評価を上げるためには大切なプロセスではあるのですが
「もっと知識を」と渇望するということは、潜在意識下では
『今の自分では不十分である』ということになってしまうのでしょうね。
知的好奇心を満たす、というのとはとっている行動や手段は同じでも
その根本にあるものが違うので、不安や焦燥感からは、どうりで解放されないわけです。
自分の心の中にこそ、自分の居場所があるのだと、今では安心感とともにそれを信じられる。
だからどこに居ても誰と居ても一人でいるときでも、寄る辺ない心細さはもう、感じません。
神様や仏様のお導きは、時に大きな方向転換をもたらすこともあるけれど
進むべき道を照らした後は、ゆっくりとゆっくりと
その人の成長度合いや歩調に合わせて下さっているのだなぁと
本当に、本当にありがたく思います。