私の幸せを追求してみる

着物だとかスピリチュアルなこととか

『物』との絆

2015-08-17 20:00:43 | 思うこと
物にも魂が宿っていると感じることがある。
例えば、いつも身に着けている腕時計。
壊れたかな?と思って修理に出そうとすると、途端に動きだしてみたり、散々持ち主を困らせた症状を修理に出した工房では一切出さずに隠し通してみたり。
長くしまいっぱなしになっていたカバンなどは、「あ、息してないな」と感じたりもする。




ところで私といえば交通系の関連会社に勤務しているため、お盆といえば繁忙期。
かれこれ10日ほど、来る日も来る日も残業続き@冷房のない倉庫内で肉体労働10~13時間。

その日は休日で、出かける予定があったのだけれど朝からクタクタ。
明らかにパワー不足。
一瞬、洋服で出かけようかとも思った。着替えが楽なので。

でも…。

出かける予定というのはセミナーで、会場に着いてしまえば参加している他の皆さんの向上心や笑い(講師の方が面白いのです)ワクワク感といった、とても良い気に包まれるので何が何でも行きたい。這ってでも行きたいw

なので、琉球の着物を着ていくことにした。

糸ににするための植物を育てることから始まり、刈り取ったその植物から指先で丁寧に裂いて繊維を取り出し、それを一本一本結んで長い糸にするという気の遠くなるような細かな作業を何一つオートメーション化することなく、丁寧に生み出された芭蕉布の帯。
まるで上布(麻)のように薄くて張りのある、美しい琉球絣の夏着物。

琉球の着物にはパワーがある、と感じる。
自分がパワー不足の時にはこれらを纏い、力を貰う。

……夏限定ですけれども;


お太鼓にシワがっっ!!


狙い通り、望んだ通り、疲れは吹き飛び気持ちも上がり、
「夏琉球なら、お澄ましせずに元気に下駄!」
と、素足に下駄をつっかける。

大井町アトレのきものやまとさんに寄って着物と帯のお披露目をし、ついでに写真(↑)を撮ってもらう。

思った通りセミナー会場は笑いと好奇心と向上心で満ちていて、聞き終わった後は仲間たちとビールを飲みつつ美味しいものを食べまくる。
充電完了。

帰りがけ、仲間の一人とカフェに入って熱々のカフェラテを注文。
そして、事件は起こった。

手元が狂って、熱々のラテを浴びてしまった。お腹のあたりから、結構な量を。
慌てず騒がず持っていたハンドタオルで吸い取ったものの、砂糖たっぷりのカフェラテを浴びた帯揚げも帯もベタベタだ。

でも、頭の中は冷静で、
天然の植物繊維の帯は水洗いが効くし、洗い張りに出洗馬問題ないだろうとかやまとさん自慢の『新はじく加工』の実力は、以前、羽織に熱々チーズとサルサソースを垂らした時に確認済みだからまあ、なんとかなるだろうと、私よりも慌てている連れに「大井町に出て呉服屋さんで相談するから大丈夫よ」と余裕を見せた。

やせ我慢でもなんでもなく、大丈夫、と確信していた。

連れと別れた後は。大井町に直行。アトレ4階のきものやまとさんで売り場にいた店員の女の子に事情を話す。
目の前のユニ●で着替えを買い、やまとさんで試着室を借りて全着替え。
思っていたよりもたっぷり浴びていて、長襦袢や裾よけにまでコーヒーが染みていた。

これ、洋服だったらお腹や腿に、ひどい火傷を負っていた。
そのくらい、帯や着物がダメージを吸収してくれていた。

私の愛する着物と帯が、私に元気をくれて、さらには事故から守ってくれた。
それに気づいて、感謝の念があふれ出る。



その他には、今まさに転機を迎えている私が今まで使い慣れ親しんできた、リーズナブルで使い勝手のいい持ち物たちが、壊れたりなくなったり次々と買い替えを余儀なくされているが、目の前に現れて心引きつけられるのは、それまでよりもワンランク上の物たちだ。

「そろそろ次のステージに上がりなさい」と、促すように、身を引くかのように。



物にも魂が宿っていて、大切に扱えば、彼らとの絆が生まれる。
そんな気がしてならないのだ。









ところで、やまとさんの試着室で一式着替えた後、着物と帯・帯締め帯揚げはそのまま預けて悉皆屋さんへ。
「これだけ大事故だとかえって冷静になるね!」と言いながら、テキパキと対処してくれた、チーフのT君には心から感謝。

すべては自分の中にある

2015-08-11 00:39:56 | 『引き寄せ』練習中
先日の投稿で‘タイトルがあからさま過ぎて今までなら手に取らなかった本’として紹介したのがこちら。

マーフィー 欲しいだけのお金が手に入る!: 努力いらずの17の成功法則 (単行本)
ジョセフ マーフィー
三笠書房


タイトルは確かに‘お金’押しですが、お金に限らず、いろいろな願望や自分の状況を変えるために効果的な、アファメーションの実例集みたいな感じです。
『相手への執着や憎しみ・嫉妬を手放し、相手の幸福を祈ることで相手との関係が良いものに変わる』というのが、私にとっては目新しい考え方でした。
頑なだった(文中の相談者にとっての)相手が軟化してくる様がすごいなぁと。
今までに読んだ引き寄せ関連の本では、他人は変えられない、というのが定番だったので。

『引き寄せの法則』や、『願望実現』というと、望むものは常に‘自分の外’にあるものというイメージを持ってしまっていましたが、マーフィー氏が繰り返す「私の内なる偉大な力」という言葉は、富も成功も、すべては自分の内側で出番を待ち構えているものなのだ、という感覚に、とても簡単に移行させてくれる。

自分の‘外’にあるものと考えると、なんだか頑張って引っ張りよせなきゃって気がするのだけれども、自分の内にあって解放してあげればいい、と考えるならばその分気持ちにゆとりができるので、引き寄せやすく・実現しやすくなるのかな?と。

というわけで、この本を読んだ直後にはまず、着物を引き寄せました。
知人の方からもう着る予定もない、置き場所もないから貰って欲しいというとても美しい古典柄の訪問着。

ほかには、新しい人間関係と、この先の人生を考える上での選択肢。
私の人生を丸ごと救い上げてくれた人と、年に数回しか顔を合わせることのない今でも、温かく強固な絆で結ばれていることの再確認。

引き寄せの法則を説く人たちが繰り返し繰り返し、私たちに語りかけるのは、
「望む生き方をすることを決断する」ことと「自分の望みを潜在意識に焼き付ける」ということ。

この本の著者であるジョセフ・マーフィー氏は、私たちの潜在意識に長く焼き付けられてきた、古くて邪魔にしかならない価値観を豊かさと繁栄を呼び込む新しい価値観に書き換える、上書きをするための方法(アファメーション)を様々なケースに合わせて紹介してくれている。

引き寄せの法則を夢物語だと思い込んでいる人こそ、読んで目からうろこを落としてみるといい。
自分をかこっている小さな枠から出るって、ワクワクするから。

思い込みを手放して、自分の枠から踏み出してみる

2015-08-09 20:34:46 | 思うこと
物事は何でも、自分の目で見て自分の耳で聴いて、自分の肌感覚で触れてみないと分からない。
偏見や思い込みは自分の枠を小さくガチガチに固めてしまう。

その小さな世界の中で、私たちは自分に限界を設定して
己の無力さを呪ってみたり小さな優越感に浸ったり
他人を見下してみたりと、つまらない小競り合いをしている。
失敗をすること、間違えることを恐れて、息を潜めるように目立たないように細心の注意を払ったり
自信の無さを覆い隠そうとするかのように、他人を威嚇してみたり。

安定はあるが自由度のない職場は人員を増やすことに消極的で、
いつだって抱えきれないほどの仕事に追われ、クタクタになって帰宅の途につく。
仕事をこなすことだけが人生の目的になってしまい、夢を手放したことすら忘れたかのような上司たちは
私たちの余暇を食いつぶすことに対して、当然、ひとかけらの疑問も抱かない。


ねえ、私の夢って何だった?
私の人生の目的って、身を粉にして会社のために働くこと?
正社員でもなく、単なる契約社員だってのに?


職場の人間関係は良い。
彼らのために尽力すること自体はやぶさかでない。

でも、でもね?

健康のために食生活を整えたくとも、無農薬の野菜や抗生物質を投与されてない動物の肉は割高で、
安全な食品を毎日取り入れるにはお金がかかり、栄養が偏ったり
保存性をよくするための添加物の入った安価な食品を食べ続けて、アレルギーや成人病のリスクを高めている。

そんな小さな枠の中で、私たちは日々ストレスをためながら己をすり減らして生きている。


昨年秋の健康診断に引っかかっていたことも忘れて
「体力のキャパシティ上げないと!」
などと息巻き、睡眠時間を削って筋トレに励んだりしていたところ、当たり前だが体調を崩した。
疲れがピークに達したり、自律神経のバランスを崩した時に必ず出てくるおなじみの症状や疾病が
これでもかというほど一気に出た。

そんなガタガタの身体とメンタル状態の中で
神社仏閣好きで、スピリチュアルや願望実現・引き寄せの法則大好き人間の私は、自分自身に問いかけた。
「私の人生、このままでいいの?」


よくない。
ってか、この枠の中で右往左往していたって、住宅ローン(自己負担分)や、
うっかり着物を買い過ぎた支払いに追われるばかりで(これは自己責任)
時間もお金も余裕なんてできない。
いつまでたっても(モラハラ夫と)離婚できない。


体調を崩しても自分の余暇を食いつぶされても、自分を守るのも自分を幸せにするのも自分の責任。
「私はこんな小さな枠の中にずっといるのか?」
現状を変えるなら、自分にかけてきた制限を取り払って行かなければならない。

本屋で一度は素通りした、ジョセフ・マーフィー氏の
『欲しいだけのお金が手に入る!』
という本を手に取った。
興味はあっても、タイトルがあからさま過ぎてレジに持っていく勇気側なかった本だ。
‘お金儲け’をはしたないこと・悪いこと、のように思ってきた。そういう教育を受けてきた
その制限を取り払ってみようという気になったのだ。

私が入り込んでいた、小さな枠からほんの片足を出してみた。


体調を崩して我に返る以前、私は、代々木八幡宮や近所の鮫洲八幡神社の出世稲荷さんに手を合わせては
「正社員に登用されますように」
などと、可愛らしい願掛けをしていたものだが、ボロゾーキンと化した私の目の前に
舞い込んできたのは、なんとネットワークビジネスの話だった。

「お前、いつまでもそんな小さな枠の中にいるわけ?」
と、お稲荷さん(というか眷属の狐さん)がニヤニヤしている姿の妄想つきだ。

(参考:鮫洲の出世稲荷さん)

それまでの私は、世の多くの人々と(おそらくは)同じように
ネットワークビジネス=ねずみ講!悪いお金儲け!
と、ガチガチな偏見のまなざしを向けていた。

けれど、このときはまあ、聞くだけ聞いてみようという気になった。
誘われたセミナーとやらに行ってみることにした。
もう片足も出してみてもいいかな。まぁ、聞いてみてやっぱり「ねずみ講!悪!」と思うようなら
断って走って逃げればいいや、と。


神社仏閣好きで信心深い私は、おかげさまでとても運がよく、
苦しいときや辛い時に導いてもらえたり、大小様々な場面で守っていただけたりと
見えない力の恩恵を普段から感じている。
だから、今回の話だってほんとうに危ない話だったら、そもそも私の前には来ていない。

あるいは間違いだったとしても、私の学びとなるのだろう。


何事も自分の目で見て確かめて、思い込みの小さなブロックを突き崩して出てこい、と。
背中を押されて(という気になって)腹をくくって馴染んだ枠から出てみれば
思いのほか心は凪いで不安はない。
これまでいちいち苛立っていた些末なことにも何故だかとても寛容で居られる自分に気づく。


変化を怖がっていたら、自分の枠からは出られない。
思い込みや古い価値観に縛られたままではブレイクスルーは起こらない。

古い価値観を一つ手離して一歩を踏み出してみた時に
ワクワクする心を感じたなら、それはきっと見えない力のGOサインだ。

『ソウルグループ』について思うこと

2015-06-01 22:34:21 | 思うこと
スピリチュアルに傾倒していない人でも‘ソウルメイト’という言葉にはなじみはあると思う。
特に女性は、運命の恋人、と、ロマンティックに‘ソウルメイト’を考える。

ソウルメイト=同じソウルグループから、同時期に肉体を持って生まれてきた魂

で、恋人に限らず親友として出会ったり、親子として出会う場合もあるらしい。
というのがスピリチュアル系な解釈。

そしてそのグループとして、一見別人格を持っている魂たちは
地球上に生れ落ちたり肉体の寿命(任期)を終えて戻ったりして
知識や経験を共有し、魂を研鑽しているのだという。

そうして磨き上げられたグループは源である宇宙へ吸い上げられて、宇宙を拡大させてゆく。

仏教でいうところの「輪廻の輪から外れて、涅槃へ到達する」ということなのだろう。
人として生れ落ちることは‘苦’であり、善行を積み修業を積み魂を磨き上げて
輪廻の輪の中で繰り返し繰り返し魂を磨き上げ続けて、その輪から外れること
涅槃へ行くことが目的であり、魂を磨き上げるために、人として生まれてくるのであると。

その輪廻の輪というのは人間一人分の魂ではなく、グループとして回しているのではないだろうか?

過去・現在・未来などという時間軸は実は一本の線で連なっているのではなく
パラレルにそれは、交差したり重なり合って同時に存在しているとしたら?

肉体を持って経験したこと、学んだ知識は肉体が滅びた時に持って上がる(帰る)のではなく
常に吸い上げて共有し、グループの仲間たち同士がお互いを支え合い、護りながら存在しているのだとしたら?
『虫の知らせ』はソウルグループの仲間たちからの助けの手。
守護霊様はソウルグループの仲間達…。

などと、取り留めもなく思い、こんな考えも悪くないんじゃないか…なんてちょっとほくほくする。

だっていつでもソウルグループの仲間達が自分を助けてくれていて
この物質世界の肉体に入っている以外の部分の、自分の魂の‘潜在意識’の部分が
仲間たちを護り支えているかもしれないと思えば、心強いし誇らしい。

いつでも誰かとつながっているという安心感(見えない誰かだとしても)と
自分が誰かの手助けをしてあげられるということに対する満足感や達成感・帰属感。
それらはメンタルの安定に、とても重要な意味を持つ。


夫のモラハラや母親の支配。
誰もいないのを見計らって、なのにそれでも声を殺して泣いていたあの頃の自分を
このことに気づいた今の自分になら癒してあげることができるのではないだろうか、と
そんなことを思うのだ。

品川寺のお地蔵様

2015-05-17 18:49:29 | 日々是開運


徒歩でジムへ行く際に、必ず手を合わせるのが青物横丁にある品川寺(ほんせんじ)のお地蔵様です。

怪我をしませんようにとか、心の中にあるわだかまりを吐き出させていただいたり
弱音を吐いたりと、いろいろ聞いて頂いています。
一方的に語りかけているだけとはいえ、後から気づくと答えが得られていることも。

前に進む、背中を押してもらうのには神社で決意表明や願掛けをするのですが
ネガティブに偏っているときなどには、お寺で癒しを頂いています。
ここのお地蔵さまは、門よりも外にあるので閉門後でも会いに行けます。
有難いです。


お地蔵さまというと、赤い前掛けをした立像というイメージですが
こちらのお地蔵さまは坐像で、何しろ大きい。
最初のうちは小振りな大仏様かと思っていました…。

江戸六地蔵の最初の一体目だとのことで、あとの5体のお地蔵さまもこの、丈六という大きなお姿だそう。
勉強になりました。





お地蔵さまの奥に三門。




乳銀杏。
気根が垂れ下がっている銀杏を見たのはこの木が初めてで、吃驚しましたが
母乳の出にくいお母さん方が、願掛けをされたりするそうですね。
なるほどです。

鮫洲八幡神社と出世稲荷

2015-05-08 18:57:57 | 日々是開運




京浜急行の鮫洲駅のすぐそばに、鮫洲八幡神社があります。

旧東海道から少し入り込んだ位置にあり、週に数回はその旧道をほてほて歩いて
南品川にあるフィットネスジムへ通っているのですが、
神社の存在には気づいていながらも、素通りしていたのです。

が、気になる。とにかく気になる。
ほっそい路地の奥にあるというのに、ものすごい存在感で、絶対に目に入るという。
そういえば前回投稿の代田八幡神社もそんな感じだったなぁということで
半月ほど前から、時折お詣りしています。

お社は、観音開きの戸は開いているものの、引き戸が引かれてお賽銭箱はその中にあり
引き戸の格子の隙間から手を突っ込んでお賽銭をするようになっています。
なかなか立派な神楽殿があり、管理をしている宮司さん(?)のお住まいのような
戸建のお家が境内にあるのですが、社務所を兼ねている雰囲気でもなく、
お守りやお札の授与所もない。
人が住んでいる気配はあるのだけれど、無人。
むしろ、木に結び付けられたおみくじはいつどうやって引くことができたのだろうかと。
謎です。

御朱印や御祈祷をお願いするときには玄関チャイムかしら?などと思いつつ。

ただ、無人の利点というのもあり、その分、そっとお酒を奉納して、そっと下げて持ち帰られますw
神様に奉納したお酒は(封を切って口を開けて奉納しています)角が取れてまろやかな味になり、
体の内側から清められる感じがして、元気が出ます。
酒のみにはうれしい限りですw




ところで、こちらの八幡様の境内には、出世稲荷も祀られています。
東京都内にはいくつも出世稲荷神社がありますが、こんな身近にもあったとは。


稲荷社前の鳥居。



屋根の両端に、躍動感のあるキツネさん。



こちらのお稲荷様への4回目のお詣りの時に感じた空気が、それ以前の硬さを含んだものではなく
『包み込む』というより『支えてくれる』ような、大らかで力強いものに思われました。
受け入れて頂けた、認めて頂けた。そんな気がして、とてもとてもありがたいです。

写真を撮らせていただきたいとお願いをしてからシャッターを押したところ
曇天だったにもかかわらず、明るくてはっきりした写真を撮影することができました。


これもきっと、お稲荷様のお力添えですね^^

代田八幡神社の子持ちの狛犬

2015-04-24 22:27:31 | 日々是開運
代田の八幡様は、私が生まれた土地の神社です。
ということはここが私の産土神社なのかしら?と思い、お参りに訪れてみました。

小田急線の世田谷代田駅を降りて、ぐーぐる先生に道案内をお願いする。
駅からは、環状七号線を渡らなければならないとはいえ、結構近い。

環七にかかる歩道橋の、階段の途中から神社の境内に入ると
交通量の多い街道沿いとはとても思えないほど静まり返っている。

拝殿に近づいてみると、お正月や御祭りの際にはよほど賑わうのか
参道を挟んで手水舎がふたつ。この規模の神社にはちょっと珍しい。

そして、狛犬の足元には仔犬が!
向かって左は親犬にムニッと組み伏されていて、右は親犬を見上げている。
コレはかわいい、と、写真をパシャパシャ。

大きな二本の銀杏の木(雌雄なのかな?)に注連縄が渡されていて
それがご神木なのだろうな、と思う。
ここ数日の陽気の良さのおかげで、新緑のまぶしい大きな銀杏は
どこまでも高く、神々しい。

そういえば、以前の仕事で何度か荻窪へ、ひとが運転する車で向かう際に
環七を通ったのだが、車中で仲間たちとどれほどおしゃべりに高じていても
この横を通過する際には必ず、神社の名が刻まれた石碑と
大きな鳥居が目に飛び込んできたことを思い出す。

当時はまだ、モラハラ夫の支配下にあり、だのに支配されコントロールされていることにすら
気づくこともできなかった私を案じて、ここにおいでと招いてくれていたのかもしれない
なんて、都合よく解釈するのだが、それもまた感慨深いし有難い。
胸の奥がぽぅっとあたたまる様な、癒されるような。

ほぼ二十年ぶりに乗った小田急線。
今の住まいからは一時間もあればこれる距離。
時々はまた、生まれた土地の神様に会いに来ようと思ったのでした。

私の中心に私を置く

2014-12-08 20:03:17 | 言葉や導き
先日、『在』という文字を書きまくってグラウンディングという感覚を得た私に
今日降りてきた言葉は『己の中心に己を置く』というものでした。

自分自身が自分を認め、揺るがない自己を心の中心に据える。
イメージとしては、坐禅の『坐』の字のような感じです。

人間関係に振り回されてしまうとか
人に頼られること、人の役に立つことに『依存して』しまうとか
(いわゆる共依存という意味であり、奉仕や布施の精神とは似て非なるものです)
人の反応を過度に気にしてしまうとか、一人でいることが耐え難くつらいとか
そういう状態というのは自分の中心を相手や他人に明け渡している状態ではないかなぁと思います。

自分を認め、揺るがない自分を自分の軸とすることで
自分と他人のバランスが上手に取れるようになるのではないでしょうか。

モラハラを受けて自己評価が病的に下がっていることに気づいたばかりの頃
自己啓発の本やビジネス本を読みまくり、知識で武装しようと躍起になっていました。

知識を得て、考えて考えて。

もちろん、一つひとつ何かを会得することで自分に自信をつけるというのも
自己評価を上げるためには大切なプロセスではあるのですが
「もっと知識を」と渇望するということは、潜在意識下では
『今の自分では不十分である』ということになってしまうのでしょうね。

知的好奇心を満たす、というのとはとっている行動や手段は同じでも
その根本にあるものが違うので、不安や焦燥感からは、どうりで解放されないわけです。

自分の心の中にこそ、自分の居場所があるのだと、今では安心感とともにそれを信じられる。
だからどこに居ても誰と居ても一人でいるときでも、寄る辺ない心細さはもう、感じません。


神様や仏様のお導きは、時に大きな方向転換をもたらすこともあるけれど
進むべき道を照らした後は、ゆっくりとゆっくりと
その人の成長度合いや歩調に合わせて下さっているのだなぁと
本当に、本当にありがたく思います。

『在』という字とグラウンディング

2014-12-06 14:43:02 | 言葉や導き
少し前のことになりますが、筆ペンを衝動買いし、だからと言って何を書くでもなく眠らせておりました。

そして先日、増上寺の夕勤行でお経のシャワーをたっぷりと浴びさせていただいたあと
本屋に行こう!と思い立ち、浜松町の文教堂を覗いたところ、
林香都恵さんという方の書かれた『一文字セラピー』という本が平積みになっていました。
それを見て、これはあの筆ペンを使うチャンス!と思い立ち、購入。
(筆記具は、自分が書きやすいもの、書いていて心地よいものなら何でもOKとのことでしたが
私は筆ペンが使いたかったのですw)

本の内容というか使い方としては
「こういう気分の時にはこの文字を書いてみましょう」といったもので
悩み事で眠れないときには『切』という字をゆっくりと大きく書いて
心をリセットしましょうとか、固定観念に縛られて身動きが取れないときには
『飛』という字で飛躍の度胸を付けて軽やかに飛び立ちましょう。
というもの。


その中に、『在』という字には自分の存在を認める力がある、と、ありました。


子供の頃、いい成績を取ることでしか親の関心を引くことができなかったこと
大人になっても、職場でのいじめや孤立、夫からのモラハラなどで受けてきた
無力感や自己否定は、私を認めてくれる人たちとの出会いや鬱病の治療
神社やお寺への参拝などにより、かなり改善されてきているとはいえ思いの外根深く

(実際、医師からも、何十年という間受けてきたストレスで鬱病になっているから
感知するのにもそれなりに時間はかかりますよ、と言われています)

‘自分を認める’と、顕在意識のうえでは解っていても、潜在意識にまで
それを落とし込むことの難しさを痛感していたところだったので
このページに出会うために、導いて頂けたのだと思いました。


そして実際に書くと、当然、一発で満足いくような字など書けるものではなく
何度も何度も書いて、けれど筆ペンのインクは少なくてあっという間に掠れてしまうし
紙も大量に消費するので、ついには仕事帰りに筆と半紙、墨汁などを買い込んで
さらに大きな字で、『在』という字を書きまくっていました。

そして昨夜、入眠する直前に突然‘地に足がついた’と感じました。


和服を自分で着られるようになり、神社やお寺への参拝を繰り返して護られていることに気づき
筆で文字を書くことで書道にも興味を持つようにもなり、ああ、私は日本人だなあと思い
この日の元の国を足の下に強く、その繋がりを感じ、この国のどこもかしこも
そして、この世界のどこもかしこも、私の居るべきところ、在るべきところであり
どこに居てもいいのだと、感じることができました。


今回、同じ文字を繰り返し繰り返し書くことで、
それがアファメーションとなって潜在意識に落とし込めたのではないかな、と思われます。

そう考えると、書くのは良い意味を持った言葉や文字にしないと危険ですね。
間違っても‘金けt(ry’なんて書いたら…怖いですw




一文字セラピー
林 香都恵
日本文芸社

おみくじ(辛口)

2014-12-04 21:31:49 | 言葉や導き
先日の芝東照宮でおみくじ付きの『禊紙(みそぎのかみ)』という
ありがたいウェットティッシュを授与して頂いて来ました。



そして、おみくじ。


中吉

「良い結果を得られれば、自身の成長に繋がる。
結果までの過程も大事だが、結果を出してこそ一人前と評価されるもの。
途中の過程で自身を評価することは、自己満足に過ぎない。
結果にこそ、すべてが凝縮されているのだ」

願望:結果に満足すると後に失う
健康:我慢することも健康につながる
仕事:良くも悪くも結果こそすべて
勝負:攻撃は最大の防御なり
金運:金を当てにすると貯えも底を突く
人望:勇気を持った行動は人の心を動かす


なかなか痛いところを突かれた感じですが
どの占いにも「今は成長の仕上げで、次のステージに進むとき」出ていることもあり
あとひと踏ん張り!と思っておりましたが、小さな成長や小さな成功に満足せず慢心せず
常に上を目指し続けなさい、という神様からの叱咤激励を頂けたのだと思うと
とてもとても有難くて幸せだなぁと思います。


「途中の過程で~」の件を特に、心に刻み付けて漫然と時を無駄にしないよう
そして、いつでも神様は見守ってくださっているのだと安心して
日々を時を大切に、高みを目指して生きてゆきたいと思います。