私の幸せを追求してみる

着物だとかスピリチュアルなこととか

『物』との絆

2015-08-17 20:00:43 | 思うこと
物にも魂が宿っていると感じることがある。
例えば、いつも身に着けている腕時計。
壊れたかな?と思って修理に出そうとすると、途端に動きだしてみたり、散々持ち主を困らせた症状を修理に出した工房では一切出さずに隠し通してみたり。
長くしまいっぱなしになっていたカバンなどは、「あ、息してないな」と感じたりもする。




ところで私といえば交通系の関連会社に勤務しているため、お盆といえば繁忙期。
かれこれ10日ほど、来る日も来る日も残業続き@冷房のない倉庫内で肉体労働10~13時間。

その日は休日で、出かける予定があったのだけれど朝からクタクタ。
明らかにパワー不足。
一瞬、洋服で出かけようかとも思った。着替えが楽なので。

でも…。

出かける予定というのはセミナーで、会場に着いてしまえば参加している他の皆さんの向上心や笑い(講師の方が面白いのです)ワクワク感といった、とても良い気に包まれるので何が何でも行きたい。這ってでも行きたいw

なので、琉球の着物を着ていくことにした。

糸ににするための植物を育てることから始まり、刈り取ったその植物から指先で丁寧に裂いて繊維を取り出し、それを一本一本結んで長い糸にするという気の遠くなるような細かな作業を何一つオートメーション化することなく、丁寧に生み出された芭蕉布の帯。
まるで上布(麻)のように薄くて張りのある、美しい琉球絣の夏着物。

琉球の着物にはパワーがある、と感じる。
自分がパワー不足の時にはこれらを纏い、力を貰う。

……夏限定ですけれども;


お太鼓にシワがっっ!!


狙い通り、望んだ通り、疲れは吹き飛び気持ちも上がり、
「夏琉球なら、お澄ましせずに元気に下駄!」
と、素足に下駄をつっかける。

大井町アトレのきものやまとさんに寄って着物と帯のお披露目をし、ついでに写真(↑)を撮ってもらう。

思った通りセミナー会場は笑いと好奇心と向上心で満ちていて、聞き終わった後は仲間たちとビールを飲みつつ美味しいものを食べまくる。
充電完了。

帰りがけ、仲間の一人とカフェに入って熱々のカフェラテを注文。
そして、事件は起こった。

手元が狂って、熱々のラテを浴びてしまった。お腹のあたりから、結構な量を。
慌てず騒がず持っていたハンドタオルで吸い取ったものの、砂糖たっぷりのカフェラテを浴びた帯揚げも帯もベタベタだ。

でも、頭の中は冷静で、
天然の植物繊維の帯は水洗いが効くし、洗い張りに出洗馬問題ないだろうとかやまとさん自慢の『新はじく加工』の実力は、以前、羽織に熱々チーズとサルサソースを垂らした時に確認済みだからまあ、なんとかなるだろうと、私よりも慌てている連れに「大井町に出て呉服屋さんで相談するから大丈夫よ」と余裕を見せた。

やせ我慢でもなんでもなく、大丈夫、と確信していた。

連れと別れた後は。大井町に直行。アトレ4階のきものやまとさんで売り場にいた店員の女の子に事情を話す。
目の前のユニ●で着替えを買い、やまとさんで試着室を借りて全着替え。
思っていたよりもたっぷり浴びていて、長襦袢や裾よけにまでコーヒーが染みていた。

これ、洋服だったらお腹や腿に、ひどい火傷を負っていた。
そのくらい、帯や着物がダメージを吸収してくれていた。

私の愛する着物と帯が、私に元気をくれて、さらには事故から守ってくれた。
それに気づいて、感謝の念があふれ出る。



その他には、今まさに転機を迎えている私が今まで使い慣れ親しんできた、リーズナブルで使い勝手のいい持ち物たちが、壊れたりなくなったり次々と買い替えを余儀なくされているが、目の前に現れて心引きつけられるのは、それまでよりもワンランク上の物たちだ。

「そろそろ次のステージに上がりなさい」と、促すように、身を引くかのように。



物にも魂が宿っていて、大切に扱えば、彼らとの絆が生まれる。
そんな気がしてならないのだ。









ところで、やまとさんの試着室で一式着替えた後、着物と帯・帯締め帯揚げはそのまま預けて悉皆屋さんへ。
「これだけ大事故だとかえって冷静になるね!」と言いながら、テキパキと対処してくれた、チーフのT君には心から感謝。

思い込みを手放して、自分の枠から踏み出してみる

2015-08-09 20:34:46 | 思うこと
物事は何でも、自分の目で見て自分の耳で聴いて、自分の肌感覚で触れてみないと分からない。
偏見や思い込みは自分の枠を小さくガチガチに固めてしまう。

その小さな世界の中で、私たちは自分に限界を設定して
己の無力さを呪ってみたり小さな優越感に浸ったり
他人を見下してみたりと、つまらない小競り合いをしている。
失敗をすること、間違えることを恐れて、息を潜めるように目立たないように細心の注意を払ったり
自信の無さを覆い隠そうとするかのように、他人を威嚇してみたり。

安定はあるが自由度のない職場は人員を増やすことに消極的で、
いつだって抱えきれないほどの仕事に追われ、クタクタになって帰宅の途につく。
仕事をこなすことだけが人生の目的になってしまい、夢を手放したことすら忘れたかのような上司たちは
私たちの余暇を食いつぶすことに対して、当然、ひとかけらの疑問も抱かない。


ねえ、私の夢って何だった?
私の人生の目的って、身を粉にして会社のために働くこと?
正社員でもなく、単なる契約社員だってのに?


職場の人間関係は良い。
彼らのために尽力すること自体はやぶさかでない。

でも、でもね?

健康のために食生活を整えたくとも、無農薬の野菜や抗生物質を投与されてない動物の肉は割高で、
安全な食品を毎日取り入れるにはお金がかかり、栄養が偏ったり
保存性をよくするための添加物の入った安価な食品を食べ続けて、アレルギーや成人病のリスクを高めている。

そんな小さな枠の中で、私たちは日々ストレスをためながら己をすり減らして生きている。


昨年秋の健康診断に引っかかっていたことも忘れて
「体力のキャパシティ上げないと!」
などと息巻き、睡眠時間を削って筋トレに励んだりしていたところ、当たり前だが体調を崩した。
疲れがピークに達したり、自律神経のバランスを崩した時に必ず出てくるおなじみの症状や疾病が
これでもかというほど一気に出た。

そんなガタガタの身体とメンタル状態の中で
神社仏閣好きで、スピリチュアルや願望実現・引き寄せの法則大好き人間の私は、自分自身に問いかけた。
「私の人生、このままでいいの?」


よくない。
ってか、この枠の中で右往左往していたって、住宅ローン(自己負担分)や、
うっかり着物を買い過ぎた支払いに追われるばかりで(これは自己責任)
時間もお金も余裕なんてできない。
いつまでたっても(モラハラ夫と)離婚できない。


体調を崩しても自分の余暇を食いつぶされても、自分を守るのも自分を幸せにするのも自分の責任。
「私はこんな小さな枠の中にずっといるのか?」
現状を変えるなら、自分にかけてきた制限を取り払って行かなければならない。

本屋で一度は素通りした、ジョセフ・マーフィー氏の
『欲しいだけのお金が手に入る!』
という本を手に取った。
興味はあっても、タイトルがあからさま過ぎてレジに持っていく勇気側なかった本だ。
‘お金儲け’をはしたないこと・悪いこと、のように思ってきた。そういう教育を受けてきた
その制限を取り払ってみようという気になったのだ。

私が入り込んでいた、小さな枠からほんの片足を出してみた。


体調を崩して我に返る以前、私は、代々木八幡宮や近所の鮫洲八幡神社の出世稲荷さんに手を合わせては
「正社員に登用されますように」
などと、可愛らしい願掛けをしていたものだが、ボロゾーキンと化した私の目の前に
舞い込んできたのは、なんとネットワークビジネスの話だった。

「お前、いつまでもそんな小さな枠の中にいるわけ?」
と、お稲荷さん(というか眷属の狐さん)がニヤニヤしている姿の妄想つきだ。

(参考:鮫洲の出世稲荷さん)

それまでの私は、世の多くの人々と(おそらくは)同じように
ネットワークビジネス=ねずみ講!悪いお金儲け!
と、ガチガチな偏見のまなざしを向けていた。

けれど、このときはまあ、聞くだけ聞いてみようという気になった。
誘われたセミナーとやらに行ってみることにした。
もう片足も出してみてもいいかな。まぁ、聞いてみてやっぱり「ねずみ講!悪!」と思うようなら
断って走って逃げればいいや、と。


神社仏閣好きで信心深い私は、おかげさまでとても運がよく、
苦しいときや辛い時に導いてもらえたり、大小様々な場面で守っていただけたりと
見えない力の恩恵を普段から感じている。
だから、今回の話だってほんとうに危ない話だったら、そもそも私の前には来ていない。

あるいは間違いだったとしても、私の学びとなるのだろう。


何事も自分の目で見て確かめて、思い込みの小さなブロックを突き崩して出てこい、と。
背中を押されて(という気になって)腹をくくって馴染んだ枠から出てみれば
思いのほか心は凪いで不安はない。
これまでいちいち苛立っていた些末なことにも何故だかとても寛容で居られる自分に気づく。


変化を怖がっていたら、自分の枠からは出られない。
思い込みや古い価値観に縛られたままではブレイクスルーは起こらない。

古い価値観を一つ手離して一歩を踏み出してみた時に
ワクワクする心を感じたなら、それはきっと見えない力のGOサインだ。

『ソウルグループ』について思うこと

2015-06-01 22:34:21 | 思うこと
スピリチュアルに傾倒していない人でも‘ソウルメイト’という言葉にはなじみはあると思う。
特に女性は、運命の恋人、と、ロマンティックに‘ソウルメイト’を考える。

ソウルメイト=同じソウルグループから、同時期に肉体を持って生まれてきた魂

で、恋人に限らず親友として出会ったり、親子として出会う場合もあるらしい。
というのがスピリチュアル系な解釈。

そしてそのグループとして、一見別人格を持っている魂たちは
地球上に生れ落ちたり肉体の寿命(任期)を終えて戻ったりして
知識や経験を共有し、魂を研鑽しているのだという。

そうして磨き上げられたグループは源である宇宙へ吸い上げられて、宇宙を拡大させてゆく。

仏教でいうところの「輪廻の輪から外れて、涅槃へ到達する」ということなのだろう。
人として生れ落ちることは‘苦’であり、善行を積み修業を積み魂を磨き上げて
輪廻の輪の中で繰り返し繰り返し魂を磨き上げ続けて、その輪から外れること
涅槃へ行くことが目的であり、魂を磨き上げるために、人として生まれてくるのであると。

その輪廻の輪というのは人間一人分の魂ではなく、グループとして回しているのではないだろうか?

過去・現在・未来などという時間軸は実は一本の線で連なっているのではなく
パラレルにそれは、交差したり重なり合って同時に存在しているとしたら?

肉体を持って経験したこと、学んだ知識は肉体が滅びた時に持って上がる(帰る)のではなく
常に吸い上げて共有し、グループの仲間たち同士がお互いを支え合い、護りながら存在しているのだとしたら?
『虫の知らせ』はソウルグループの仲間たちからの助けの手。
守護霊様はソウルグループの仲間達…。

などと、取り留めもなく思い、こんな考えも悪くないんじゃないか…なんてちょっとほくほくする。

だっていつでもソウルグループの仲間達が自分を助けてくれていて
この物質世界の肉体に入っている以外の部分の、自分の魂の‘潜在意識’の部分が
仲間たちを護り支えているかもしれないと思えば、心強いし誇らしい。

いつでも誰かとつながっているという安心感(見えない誰かだとしても)と
自分が誰かの手助けをしてあげられるということに対する満足感や達成感・帰属感。
それらはメンタルの安定に、とても重要な意味を持つ。


夫のモラハラや母親の支配。
誰もいないのを見計らって、なのにそれでも声を殺して泣いていたあの頃の自分を
このことに気づいた今の自分になら癒してあげることができるのではないだろうか、と
そんなことを思うのだ。