(2018-6-28)
ラインというアプリをぼんやりとのぞいていると、ときたま「退会通知」なるものが届く。自主的に退会するというケースもあれば、強制的にさせられる、というケースもあるらしい。今起きた、だの、今どこで飲んでいる、だの、不必要に濃密なコミュニケーションを四六時中(文字通り)していた相手が急に退会という一言で永遠に消えていく。不思議なことだが、もはやそういう関係のほうがふつうになりつつあるよう。
若いバーテンに聞く限り、今どきは男女交際も二人でラインをするところから始まるそうだ。別れるとは、ラインを解消することを意味する。二人のラインを解消することを何と呼ぶのかは知らないが、やはりそれもまた、交際という「場」から退会していくということなのだろう。
こうした集合離散は「進行中の今」に限ったことではない。
私たちは記憶のなかでさまざまなグループ、いわば集合を立ち上げ、自分をその一要素と認識している。家族の集合がもっとも分かりやすい。コアのところには両親や兄弟姉妹がいる。それを包含する集合には祖父母、いとこ、おじおばなどがいる。配偶者は別の集合が左から重なってきて、自分はそこの集合の要素にもなる。
他にも学校、職場、趣味、地縁、様々な記憶の集合が、それぞれアメーバのように、あるいは銀河のように漂う巨大な宇宙のなかを私たちという存在はさまよっている、と言えなくもない。ときには、はっきりした境界をもたない集合もあるだろう。あるいは集合そのものが消滅していくケースもあるかもしれない。
私たちの世代が死んでいくとき、そこには膨大な数の集合だけが残される。
分かりやすく言えば無限数のライングループが残される。
それを構成する要素は消滅したにもかかわらず。
こういう普遍の現象を驚くべき手法で提示した小説が、メキシコのベロニカ・ゲルベル・ビセッチさん(1981-)の『空集合』(2017)。語り手はUNAMをうろうろしている無職の女(というのはメキシコではごく当たり前に存在しているらしい)。いちおう現代アートを習っているというこの語り手ベロニカが周囲のことを語っていくのだが、そこに、人間関係を再現したベン図が挿入される。ベン図の理解をうながすべく、主要な登場人物にはそれぞれ記号が割り振られている。
語り手自身はスペイン語の人称代名詞から Y。
兄はスペイン語のエルマノなので H。
主要な人物は語り手をふったトルド(T)、ある日を境に正気を失いやがて「輪郭がぼやけて」いった失踪中の母(M)、アルゼンチンから亡命してきた二流画家兼二流女優の故マリサ・チュブ(Ms)とその息子アロンソ(A)。最後にはそのアロンソも消えてしまう。消えることを志向する奇妙な連中が語り手のそばでアメーバのように形成する集合体が、この小説の真の主人公である。
いや、そもそも小説と呼んでいいのか、そこから考えるべきかもしれない。
仮にベン図や木の年輪をかたどったイラストが「作品」だするなら、この本に含まれたスペイン語(とそのへんてこなアナグラムは)はどれもみなその取扱説明書、壁に貼ってあるキャプションということになってしまう。活字の部分のみからわかりやすい物語を取り出そうとして(そしてそれに失敗して)不平を垂らしてもあまり意味はない。もう一度最初のギャラリーに立ち返って、読者が自ら勝手に好きな意味を立ち上げよ、ということだ。
小説であるか否か、特に気にする必要もないだろう。
失踪中の母、同じく消え「がち」な男どもをめぐる話に絶妙のタイミングでからんでくるのが、亡きアルゼンチン人マリサの遺品にあった手紙の書き手 S である。
マリサはブエノスアイレスで夫と上演した劇が反政府的とみなされ、劇団員が次々失踪したことから、1976年にアロンソを連れてメキシコへ亡命。夫は少し遅れて同じくメキシコに亡命してくる。ところが S なる人物が彼女に密かな愛の手紙を送り続けていたのである。語り手のベロニカはマリサの遺品を整理するバイトをしつつ、この S なる人物の素性に迫っていくのだが、それが最後で失踪した母と重なって、グロく、不気味な気配を漂わせてくる。
といっても、この本は、直近の過去に潜む暴力を身内を介して描くという、ここ十年ほどのスペイン語圏小説に多いオートフィクションとは一線を画している。というよりオートフィクションというものが原理的に抱えている不安定さ、書き手と対象との距離の問題そのものが、テーマになっている作品だと言えるかもしれない。UNAMの図書館でランダムに拾った言葉からつながる書物を読んでケタケタ笑う語り手には、オートフィクションの語り手にありがちな「理解を志向する」眼差しはなく、そこにあるのはむしろ、理解のメカニズムそのものを解き明かそうとして、その不可能性を種類ごとに分類するという、きわめて自己抑制的な、いわば試行錯誤する造形芸術家に特有のとめどもない逡巡の連鎖である。
言葉では語り得ないことがきっとある。(p.117)
という俯瞰的な理解をベン図も含めて総合的に展開しつつ、実は語っている内容そのものは、恋の話であったり、親世代の体験した暴力の痕跡であったりと、ある意味で下世話な話であるというそのアンバランスに、この本の独特な面白さがある。すでにクリスティーナ・マクスイーニーによる英訳も出て、そちらも好調。すぐに日本語になってもおかしくない、と思っているのは私だけかもしれないが、仮に翻訳するとしても、縦文字の文学になったときに図版をどうするかという究極の問題に直面することになろう。
本書のスタイルについて本人が語ったビデオが見られる。
Verónica Gerber Bicecci, Conjunto vacío. Pepitas ed. 2015, pp.195.(英訳あり:Empty Set. Translated by Christina MacSweeney, Coffee House Press, 2018)