あさねぼう

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安藤広重 版画 神奈川宿

2020-11-13 12:33:29 | 日記
田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていました。
この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていました。
その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれていますが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったそうです。

海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。

幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。その少し前、安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していきます。

初代の晝間弥平衛から現在の五代目女将平塚あけみまで、約150年。関東大震災、横浜大空襲など、たいへんなこともくぐりぬけてきましたが、この間、様々なお客様にごひいきいただき、現在まで続けることができました。

著名な方もたくさんおいでいただいています。米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作などが倒幕の計画を練ったともいわれるお店でもあります。夏目漱石の書など、多くの品々が田中家でごらんいただけます。

幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。
月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。
横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
田中家の前身は、歌川広重の浮世絵にも描かれていた。
今でこそ埋め立てがすすみ、国道1号と横浜駅を越えて海に出るまで1キロほどあるが、昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたという。
伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石ら文豪も投宿。
日本囲碁界の第一人者、呉清源の対局戦も行われるなど数々の著名人に愛された。
(中略)
田中家ゆかりの人の中で最近特に脚光を浴びているのが、幕末の志士、坂本龍馬の妻おりょう。
30代の2、3年間、勝海舟の紹介で仲居として働いていた。気丈な人で、集合写真では誰よりも前で納まり、ひいきの客も多かったという。

/朝日新聞 2010年12月10日より抜粋



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