あさねぼう

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岩倉使節団 明治4年(1871年)から明治6年(1873年)

2019-07-16 13:07:39 | 日記
岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

明治4年11月12日に横浜港を出港した使節団はアメリカ・サンフランシスコに到着し、アメリカを横断してワシントン、その後大西洋を渡りイギリス・リヴァプールに到着、イギリス滞在後はフランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,ロシア,デンマーク,スウェーデン,イタリア,オーストリア,スイスを歴訪、その後はアジアのシンガポールや香港に立ち寄って日本に帰国しています。
その期間は約1年10ヶ月の長きに渡り、不平等条約の改正の下交渉や西欧文化に触れた留学生たちの帰国後の活躍などもありましたが、岩倉具視や木戸孝允,大久保利通など政府首脳がごっそりと日本を長期間空けてしまう事によって、政治が停滞する事態を招き、日本に残った留守政府との間に修復しがたい対立を生んでいきました。
岩倉使節団の光と影とは、日本の産業や教育の発展と国際社会での日本の地位向上とを引き換えに、国を二分する深刻な政治的対立を招いてしまったことです。

☆ 日本の「近代化」、国家形成はどのように進んで、どのように出来たのか、に関心があります。江戸時代から明治維新、大正デモクラシー、世界戦争の昭和時代を勉強をしていくと、つまりは明治維新後の藩閥政府(大久保利通42歳、木戸孝充(桂小五郎)39歳)の取り組みがキーとなります。その始まりは、維新からほどなく、欧米の12ヵ国を巡った、岩倉使節団(最年長の大使岩倉具視は47歳ですが、副使の伊藤博文は31歳、46名の大使、副使の平均年齢はほぼ32歳です。使節団は20代から30代です。)の1年10ヵ月にわたる視察にあります。米欧回覧は、明らかに日本の形を決めたといえるのではないか。この「米欧回覧記」は1977年に、100年後に岩波文庫として公刊されたのです。「留守政府」は、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らであり、その後のアジアに対する、征韓論等に、そして民権運動、憲法制定、議会制度に強く影響をしています。あの中江兆民が留学生として参加している、ことも特記すべきでしょう。(つかさ)

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