あさねぼう

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「新しい中世」

2020-03-17 16:53:55 | 日記
我々が生きる21世紀は「新しい中世」になる? 突飛な発想に聞こえるかもしれないが、説明を読むと少なくとも面白い観点であることに気が付く。田中明彦が現代世界の一部を「新しい中世」と呼ぶ理由はおおまかに2つ。国境を越えた主体の多様性、それにイデオロギーの普遍性だ。

まず主体について。ヨーロッパ中世では神聖ローマ皇帝や各国の王に加え、教皇、修道院、騎士団、ベネチアやジェノバといった都市、北ドイツのハンザ同盟、パリやボローニャの大学など多様な主体が重要だった。また個人の帰属意識も複雑で、卓越した詩人や音楽家、騎士や参謀は常に一つの主君に仕えるとは限らなかった。確かに現代世界の一部においても、国家だけでなく、巨大企業、NGO、国際組織、宗教、民族団体、はたまた犯罪組織(テロ組織までも)などといった非国家主体の重要性が大きくなってきている(P. 198, 209-210)。

次にイデオロギー状況。主体の多様性に対し、中世ヨーロッパにおいて、思想的にはキリスト教普遍主義が支配的で、最高権威としてのローマ教会に挑戦するものはほとんどなかったという。現代世界もこの状況に似ている、と田中明彦。議論はあるにせよ、冷戦終結の結果、マルクス・レーニン主義の影響力はほぼ消滅し、自由主義的民主制と市場経済制に代わりうる現実に実効性を持つイデオロギーは存在しない、という(P. 200, 213)。

田中明彦は、このような世界政府(世界帝国)とも、主権国家システムとも異なる、ヨーロッパ中世と比較可能な状況が生まれつつある、という。もちろんこういった状況は世界のごく一部、いわゆる先進諸国に限られる。そこで著者は、自由主義的民主制と市場経済の成熟度・安定度を目安に世界を三分割し、1)新中世圏(米国、日本、ヨーロッパ諸国など)、2)近代圏(中国、インド、旧ソ連地域、東欧、南米、東南アジア、中東、アフリカ諸国など圧倒的多数)、さらに3)混沌圏(アフリカ諸国など)と名付けた。長期的に見ると、現在の世界システムはこれら3つの圏域が「新しい中世」に向けた移行期にある、というのがこの本の論点。(さらにこの3圏域それぞれに対し、異なった対応策が必要と提言する)。

なるほど面白い議論だけど疑問がないでもない。まずそんなにきれいに分れない。一国内においてですら、この3領域が見られる地域もあるし、第一、国内状況が国際社会に及ぼしうる役割について議論が乏しいのでは? 国境の垣根が低くなるならば、これまで以上に国内問題が国際問題化(逆もしかり)するだろうし、一つ一つの社会における変容も注目されていいと思う。

さらに関連して、それぞれの社会に内在するナショナリズムに対して楽観的過ぎないか。入江昭と同様、彼ら知識人の眼から見ればナショナリズムは、国境を越えたつながりや、地球的規模での相互依存体制への障壁、夾雑物に過ぎない。田中明彦は“「新しい中世」の国家にナショナリズムは必要ない”とまで言い切る(P. 282)。にもかかわらず、多くの、あまりに圧倒的大多数の人々にとって、ナショナリズムは決して消えることのない感情ではないか? さらに付け足せば、田中明彦は米国を「新しい中世」の筆頭に掲げるが、米国ほどナショナリズムが深く、構造的に根付いている社会も珍しいんじゃないかと思える。

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