朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

私の両親⑩

2020-11-23 17:54:31 | 毒親のこと

不安定な生活が続く中、遠方に住む母方の祖母が亡くなりました。

いつも私や両親のことを案じていた祖母。

何度も母に「パチンコを辞めなさい、たった一人の娘の為にもしっかりしなさい。」と手紙や電話をしてくれた祖母。

「辛いことがあったらいつでもおばあちゃんの所に電話してね。」と言ってくれた祖母。(心配をかけたくなくて出来ませんでしたが、その言葉がどれだけ私の心の支えになったことか…)

私の成人式の写真を見て「かわいいね。おばあちゃんが選んだ着物の色が似あって嬉しいよ。」と喜んでくれた祖母。(母は少しも褒めてくれませんでした

 

私は両親と共に祖父母宅へ向かいました。

葬儀後の会食の時、親戚の人が父に話しかけました。(二人ともお酒が入っています。)

親戚の人「〇さん(父)と△さん(母)って職場結婚だっけ~?」

「そうだよ。子どもができたから結婚したんだ。」

初耳でした。うちの両親は所謂“できちゃった結婚”だったんだ…

幼いころから夫婦喧嘩の多い両親を見て、「どうしてこの二人は結婚したんだろう…」と不思議に思っていました。

好き同士で結婚するんじゃないの?なんで母はこんなに父のことを悪く言うの?なんで父はこんなに母を困らせるんだろう?

やっぱり物事には“順番”が必要なんだな…。父と親戚の人の会話を聞いてそう思いました。

 

久しぶりに会った祖父には少し認知症があり、葬儀中も落ち着かない言動などがありました。

祖父の代わりに喪主を務めていた叔父から「気晴らしにおじいちゃんをドライブに連れて行ってくれないか?」とお願いされたので、両親と私と祖父と一緒に出かけました。

ドライブ中も「おばあちゃんは?」と尋ねてくる祖父。

お洒落で、お茶目で、祖母のことが大好きな祖父でした。

運転席に父、助手席に祖父、後部座席に私と母が座っています。

祖父は耳が遠いので車内の会話も自然と大声になってしまいます。耳の遠い祖父に対してイライラし始めた母はヒステリー気味に声を張り上げて祖父と会話をしていました。結婚してから苦労ばかりしたと話す母。すると祖父が

「お前たちは最初から間違っていたんだ。」

認知症があり、祖母が亡くなったことも理解していなかった祖父がハッキリとした声で言ったのです。

点と点が線で繋がったような感覚になりました。

祖父の言葉に対して、母は声を張り上げて何か騒いでいたと思いますが、何を喋っていたか…覚えていません。父は無言で運転していました。

祖父母には本当に可愛がってもらいました。

だけど、祖父の言葉が心に重く圧し掛かったのも本音です。出来る事なら聞きたくなかった。

 

葬儀後、叔父が「これおばあちゃんが残したものだから」と私たち家族3人に数万円ずつお金を渡してくれました。

それから数日後…そのころ母は父の住む家で生活していたのですが、私が実家を訪ねるとダイニングテーブルが新調されていました。「おばあちゃんから貰ったお金で買ったの」と話す両親。母は鞄も新調していました。

 

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“授かり婚”で幸せなご家庭を築いていらっしゃる方がいることももちろん承知しています。私もできれば“できちゃった”ではなく“授かった”で生まれてきたかったです


私の両親⑨

2020-11-21 12:19:03 | 毒親のこと

平日は仕事帰りに母を探しにパチンコ店巡り、休日は母をパチンコ店に行かせないためにドライブや近隣の観光地に母を連れていく生活が続きました。

この頃私は自分の仕事でも緊張や不安やストレスを感じる事が多い時期でした。

私は金属製品の材質や寸法を調べる仕事をしていました。入社当時は外注が作った製品を担当していたのですが、この頃は社内で作った試作品の担当になり、技術開発の方が試作品を私の所に持ち込み、私が検査をしていました。

しかし、技術開発の方は大学や高専など、高学歴の男性の方たちばかりで、中には私が検査した結果を「この数値は本当ですか?」と疑ってくる人もいました。

以前のブログにも書いた通り、私は学習能力が“グレー”なので、検査結果を疑われると益々自信をなくします。

疑われないように、間違わないように…何度も何度も調べてしまうので時間がかかります。残業をすると上司に注意されるため、朝早めに出社して仕事をしたり、手順書や過去のデータなどの資料を家に持ち帰り読み込みました。

そして、休日は母と一緒に過ごします。心が休まる時がありませんでした。

夜はなかなか寝付けず、初めて検査する試作品を持ち込まれると動悸や汗が止まらなくなり、こっそりトイレに逃げてトイレの中で泣いてしまう時もありました。

産業医の方に相談をして、私は初めて「心療内科」を受診しました。

処方してもらった薬を家で飲んでいたら、薬袋を見た母が

「あんた、精神科に通ってるの!?」

「やめてよ!近所の人に知られたらどうするの!?恥ずかしい!!」と、言い放ちました。

私はこの言葉に心底傷つきました。

母の言うとおりに“大きな会社”に就職し、男性社会の中で必死に働いて、進学する夢も諦め、母の借金を肩代わりして、休日は母のご機嫌取り。

我慢の限界だった私は「もういい加減にして!!」と、母にブチ切れます。

今まで母に否定されてきたこと、それでも母の言うことを聞いてきたこと、私がこんなに頑張っているのにどうしてパチンコを辞めてくれないの!?

 

あぁ、今こうしてブログに書いててもわかります。

この言い回し…母と同じです。

夫婦喧嘩をしたあと、昔あったことをほじくり返して「自分はこんなに大変だった」と話す母。

人間関係で失敗をして「私はこんなによくしてあげたのに」と会社の悪口を話す母。

ブチ切れた私は母そっくりでした。一番なりたくなかったのに。母のようになりたくないのに。

 

母は「親に向かってその口の利き方はなに?私から頼んであんたと一緒にくらしているわけじゃない。」そう吐き捨てると父の住む家に帰りました。

そして、父と言い争いになると私の住むアパートへ、私と言い争いになると父の住む家へ…母はそんな生活を繰り返すようになりました。

 

 

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「パチンコ依存症」の母を病院に連れていけなかった理由は、母が“心の病”に対して偏見的な考えを持っていて、断固と聞く耳を持たなかったからです。


私の両親⑧

2020-11-19 21:57:58 | 毒親のこと

母と一緒に実家を出ることにした私は実家と同じ市内にアパートを借りました。

実家から離れた場所に引っ越すことも考えたのですが、ひとり残された父が心配だったからです。

「私の両親」とタイトルを付けている割には父のことをあまり書かなかったな…と気づきました

父は母より3歳年下で、仕事は真面目に働くけど「仕事運」に恵まれず何度かリストラを経験しています。

母はリストラの原因を「お父さんは中卒だから」と見下すように話していました。晩酌を欠かさない所も気に食わないのか「お父さんの兄弟も親戚もみんな酒飲みだから大嫌い」とよく話していました。

幼いころから「お父さんが悪い」と聞かされたわたしは、父のことをよくわからないまま「お父さんはお母さんを困らせてる存在」と刷り込まれていたのかもしれません。父方の親戚にもなつきませんでした。

それでもやはりこの世にたった一人の父です。時々父の様子を見に行ける距離に居たくて同じ市内に部屋を借りました。(そんな父は娘の心配をよそにテキパキと炊事洗濯をこなして生活していましたが。)

アパートを借りる際に発生する敷金礼金、引っ越し費用、冷蔵庫・洗濯機など諸々の家財道具の購入費用…短大に行くために貯めていたお金はどんどん無くなっていきました。車のローンもあるし、これからは月々の家賃と光熱費も払って行かなければいけません。父も母の借金を返していかなければいけないので頼ることはできません。私は短大に行くこと諦めました。

そんな中、母が私に「ねぇ、銀行からお金を借りてくれない?」と言ってきました。

「なんで?」と尋ねると「お母さん、消費者金融で借りてるお金があるんだけど利子が高いの。銀行の方が利子が少ないし、あんた正社員だから貸してくれるよ。お母さん、あんたに月々2万ずつ返済するから。おねがい」

すぐに返事ができない私を見て

「あんたがここまで(引っ越しの件)してくれてお母さん嬉しかった。お母さんも気持ちを切り替えて頑張るから」

今まで私を褒めてくれなかった母が「嬉しかった」と言ってくれた…

私はその言葉が嬉しくて、お母さんの役に立てたことが嬉しくて、絶対やり直せる!と信じて

銀行からお金を借りて、母が消費者金融で借りたお金を返済しました。

だけど…結局母が私に返済したのはたった2か月間だけ。

私は毎日仕事から帰ると、母を探しに市内中のパチンコ店を回ることになりました。

 

 

「応援ボタン」等、ありがとうございます!!この頃、パチンコ店を巡回しても見つからない時は実家に寄って父の様子を伺っていました。父と二人でゆっくり話す機会があまりなかったので、本当の?父の姿を見ることができました。また父の作る“炊き込みご飯”がおいしくて…。「あれ?お母さんが言ってたお父さんって違くない!?」と気づき始めたのもこの頃です


私の両親⑦

2020-11-18 22:45:02 | 毒親のこと

母の借金の原因はギャンブル(パチンコ)でした。

思い返せば、わたしの行動全てに難癖を付けてきた母が、高校の時のアルバイトはあっさりOKを出したのです。あの頃から母はパチンコにはまり、手元のお金がどんどん無くなっていたのかもしれません。

父が母に問い詰めると

「私(母)に相談なく退職金を使い込んだ」

「むしゃくしゃした気持ちをパチンコで憂さ晴らしをしていた」

「(パチンコで)勝ったお金は家のために使った」

「ここまで私を追い込んだあんた(父)が悪い」

そしていつものように昔あった話をほじくり返し、自分がどれだけ辛い思いをしてきたか矢継ぎ早に話します。

確かに、父は自分の退職金を母に何もいわず使い込みました。そして個人事業に失敗しました。

しかし、基本的に我が家の財布のヒモは母が握っていて、父は長年“おこづかい制”でした。なので父は我が家のお金のやりくりや、いくら預金があるのか分かってなかったと思います。それだけ母を信頼し、家計を任せていたのだと思います。

社会人になってからはもちろん私も家にお金を入れていたし、余裕とまではいかないけど普通に生活できていると思っていました。

矢継ぎ早に苦労話や父方の親戚の悪口を言った母は

「私を苦しめてるお父さんが悪い。だけど、あんた(私)がいるから離婚できなかった」

私の存在はそんなに母を苦しめているのか…

お母さんがかわいそう…

こんな私でごめんなさい…

幼いころからずっとそう思っていました。

進学も就職もやりたかった部活動も友達付き合いも…全て全て否定してきた母。

私を認めてくれなかった母。褒めてくれなかった母。

だけど…私がお母さんを助けてあげなくちゃ。

私は母に「お母さん、この家を出て私と一緒に暮らそうよ。」と提案しました。

父と離れれば…環境が変われば…お母さんはもう苦しまない。パチンコにも行かなくなる。

この時の私は“絶対やり直せる”と思っていました。

 

 

今でも「もっと違う方法で母を助けることができたのではないか…」と自問してしまう時があります。

「応援ボタン」等、本当にありがとうございます!!思い出したくない過去ですが、こうしてブログに書くことで冷静に向き合うことができます。


私の両親⑥

2020-11-17 21:46:10 | 毒親のこと

社会人2年目。私は二十歳を迎えました。

成人式に着ていく振袖をどこでレンタルしようかな…

いや、振袖なんて着なくていいや入社式の時に着たスーツで行こう…学校に行くお金を貯めたいし。

この頃私は自分でお金を貯めて短大に行こうと考えていました。

成人式のことを両親には何も相談できずにいると、遠方に住む母方の祖母から電話がかかってきました。

「けめちゃん、成人式の振袖はどうするの?」

うちの母ですら何も聞いてこなかったことを、遠方に住む祖母が尋ねてきたので驚いたの覚えています。

私は正直に自分の考えを祖母に話しました。進学が諦め切れないこと、今自分で学費を貯めていること、成人式は着物をレンタルするか、スーツで出席するか悩んでいること。

祖母は「たった一人しかいない娘に着物のひとつも用意できないなんて…情けない親だよ」と言いました。

「おばあちゃんにはけめちゃんを入れて三人しか孫娘がいないの。けめちゃんの晴れ着をおばあちゃんが用意してあげるからね」

丁重に断りましたが「おばあちゃんのお願いを聞いてね」とまで言われ、ありがたく晴れ着を仕立ててもらいました。

届いた晴れ着を鏡の前で合わせていた時、母が一言。

「私(母)がいるから、あんたはこんないいことをしてもらえるのよ」

この言葉も今まで数えきれないほど母に言われてきました。

祖父母が私に何かお祝いをする。お年玉をあげる。すると母は必ず「あんたがおじいちゃん達に可愛がってもらえるのは、私(母)がいるからなんだからね」

私だってわかってます。母がいるから私には祖父母がいる。祖父母との親交ができるのも母が祖父母の娘だから。そして私はただの孫。

なのになぜか母は「私と祖父母」の間柄に対して対抗心を見せてきます。

同じ部署で働いていた同僚のご実家が果物農家さんだったので、その果物園から祖父母宅に贈り物を届けてもらったことがあります。しかし、残念なことに祖父母の口には少し合わなかったようで、祖母から「おばあちゃん○○(品種名)のほうが好きだな~。もし○○も作ってたら来年はそっちがいいなぁ。」と電話で話をしたことがあります。

このことを母に話すと大声で笑いながら「なれないことするからよwww」と小馬鹿にされました。

小学生の時は祖父母に手紙を書くと必ず母に検閲され、「余計なことをかくなよ」と圧力をかけてきました。

そんな母は夫婦喧嘩をするたびに祖父母に電話をかけ泣きわめき、高齢の祖父母に要らぬ心配をかけます。

母と父の結婚式も祖父母が全て負担したそうです。その辺りの話が「点と点が線で繋がる瞬間」も近々ブログに書いていこうと思ってます。

 

話は成人式に戻って。

「小物類はお母さんに買ってもらいなさい」と祖母は言っていましたが、母はお金を出す気がないらしく(そのくせ呉服屋さんには一緒についてくる)小物類も写真撮影代も私が購入しました。出来上がった写真を見て母が「なにこの髪型?前髪がベトッとして汚らしい。顔もパンパンw」とまた私を小馬鹿にしました。

 

そんな母に多額の借金があることが判明したのは、成人式を過ぎてから数か月後のことでした。(つづく)

 

 

「応援ボタン」等いつもありがとうございます!!いつか皆さんのブログもぜひ拝見させてください