朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

渡辺えりさんの言葉

2020-11-30 21:56:35 | 毒親のこと

自分の道を自分で決めて

家族と共に毎日を過ごしていますが、時々後ろ髪をひかれるような…、母を見捨てて、私は親不孝ではないのだろうか…と考えてしまう時があります。

そんな時、渡辺えりさんが新聞の悩み相談で答えていた記事を見かけました。

 

「束縛する母親は嫌っていい」 渡辺えり「人生相談」回答が大反響

 

娘を自分の持ち物のように思い、いつまでも自立させずに縛ってしまう母親は誘拐犯と同じ、もう母親とは言えません。

渡辺えりさんの回答の中でこの言葉が一番心に残っています。

自分が母親を嫌いになってはいけないという強迫観念から逃れてください。

そしてこの言葉にとても救われました。

私も2人の子どもの母になりました。

毒親のもとで育ち、母のようになりたくないと強く願っているのに時々チラつく母の存在…。

戒めとしてこの言葉を忘れずにいたいと思います。

我が子が自立し、自分の道を歩き始めたとき、道のスタート地点で“いってらっしゃい!”の横断幕と“一息つきたくなったら戻っておいで”と子どもが好きなご飯とフカフカのお布団を用意できるような母親になりたいです。

 

「応援ボタン」等、本当にありがとうございます。最近では「ブログ村」からお越しの方が増えたみたいでとてもうれしいです。明日から師走ですね。あっという間の1年でした。不安と自粛の生活はまだまだ続きますが、どうか皆様お身体を大切にお過ごしくださいお鍋が美味しい季節になりました。新しい土鍋を買うか悩む毎日です。(〆のうどんを沢山食べたい…)


私の両親(おまけ)

2020-11-29 11:41:41 | 毒親のこと

30代で結婚した私は地元を離れ、夫と2人の子供と一緒に現在東京で暮らしています。

結婚すること、実家を出ることは母に報告しました。(母の子としてキチンと筋を通したつもりです。)

上の子が2歳くらいの頃、母が上野に来るというので数年ぶりに会いました。会話に困るのを避けるため、待ち合わせは上野動物園にしました。その頃私は下の子を妊娠していました。

ちょうどお昼寝の時間だったので上の子はベビーカーの中で眠っていました。

母と待ち合わせして動物園に入って間もなく、上の子が目を覚ましました。

見慣れない場所と、初めて見る母の顔…(我が子にからしてみれば祖母)そして寝起き。

訝しげな表情を浮かべる我が子に対して母が一言。

「えっ、この子…ちょっと…(なんかあるんじゃない?的なものの言い方)」

「あら~起きたの?」でも「はじめまして」でもなく、孫に対しての第一声がこの一言。

その後も動物を見ながら母は今の暮らしの苦労話をします。母の住むアパートの住民が、他の住民の“生活音”に対して細かくクレームを入れてくるのだとか。母もミシンを使っている時に何度かクレームを言われたそうです。あまりにも細かいので引っ越しを考えたとこもある…と話す母。

「もし引っ越しをする時は(手続きなど)福祉の方が手伝ってくれるの?」と聞くと。

「普通は血縁関係がやるもんでしょ。乳飲み子をおぶってでも(手続きに)来るものよ」と母。

確かに道理でものを言えばそうかもしれません。

“妊娠中の娘にそれを言う!?あなたは私を妊娠してる時も出産したときも亡くなった祖母から上げ膳据え膳で世話をしてもらったでしょうけど、こっちは上の子を出産、退院直後から炊事洗濯をして四苦八苦の毎日でしたよ!!”

私は心の中でそう叫びました。

 

時間も夕方近くなり、「ベビーカーで電車に乗るの大変だから」といって母と別れました。

はっきり言って会わなければよかった。

一目孫の顔をみせてあげたいな。と思った私が馬鹿でした。あの日以降、母には会っていません。

ちなみに父は…第二の人生をのんびりと過ごしています。(家のローンも母の借金も無事返済しました)

 

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母に「この子…ちょっと…」と言われた我が子ですが、現在は鬼滅の刃と図工と習い事が大好きな、どこにでもいる普通の小学生です。年々「ほらー、あれだよ…なんだっけ」と“あれそれ”で話す私のよきブレーンとして非常に助かっています


私の両親⑬(最終話)

2020-11-27 17:16:21 | 毒親のこと

私は父に「お母さんと離婚してほしい」と言いました。

もうお母さんを支えていけない。

このままでは家族全員破産してしまう。

私は苦しい胸のうちを父に切々と訴えました。

今まで父に何かを訴えたり、頼みごとをしたことはありませんでした。幼いころから「お父さんが悪い」と聞いて育ってきましたから、「お母さんがダメっていってるものは、どうせお父さんもダメだろう」と思ってました。進学も就職も…何もかも母にダメ出しをされている私の姿を見ているはずなのに、いつも父は何も言ってきませんでした。父は私に興味がないと思っていました。

私の訴えを聞いた父は「ごめんな。けめこ、もう家に帰っておいで」

そして「お母さんとしっかり話し合うから」と言ってくれました。

私はアパートを引き払い、実家で生活をすることになりました。

両親の間でどのような話し合いがあったかわかりません。

数日度、市役所から離婚を受理した知らせが届きました。

そして、母は家を出ました。

 

母は福祉の協力の基、一人で生活をすることになりました。

実家から車で20分ほどの隣町にあるアパートです。

母が一人で生活をするようになってからも、私は週1程度に母の様子を見に行きました。母も特に変わりなく私を部屋に招き入れてくれていたので、離れて暮らしてみてよかったな…このままうまく距離をとって付き合っていけたらいいな…と思いました。

母と離れて自分の時間が出来た私は、以前から興味があった福祉系の資格の勉強をしたり、勤めている会社が工場だったので工業系の資格を取ったりしました。そして「高卒の女性でも家を買うことはできるのかな…」とぼんやりとですが考えたりしました。やっと自分で自分の道を切り開ける!と思っていた矢先…。また母から仕事中に電話がかかってきました。いつもの「お金を貸してほしい」との電話でした。私は「忙しいからまたあとで」と詳しい話を聞かず電話を切りました。

 

仕事帰り、母のアパートへ行くと「なんで(電話の対応を)邪険に扱うんだ!!」と怒る母。

私は「パチンコに行くお母さんより、借金を一生懸命返しているお父さんを支えていきたい」と言いました。

すると母が「“子はかすがい”と言うのに!!親不孝者!!薄情者!!」

そして、

「これがあんたの宿命なの!!」

私は背筋が凍り付きました。親の借金…しかもパチンコで負けた借金を払うのが私の宿命???

25歳過ぎた娘に言うこと???周りを見てみなよ…結婚して子供を産んでる人もいる。バリバリ働いている人もいる。夢に向かって頑張っている人もいる。それなのに、私は、私は、母の借金を払うために生まれてきたのか!!どこまで私を追い詰めれば気が済むの!!

今まで様々なことを否定され、母の言うとおりに従ってきた私ですが、この言葉だけは受け入れることができませんでした。

その日を境に私は母との接触を一切断つことにしました。

電話も、メールも一切無視しました。

ある日会社の守衛室から「けめこさんのお荷物を預かっています。」と内線があり守衛室に行くと

「お借りしていたものをお返しします。〇〇(母の旧姓)より」と書いてある小包を受け取りました。

中を開けると、母に貸していた本やDVDが入っていました。母はわざわざ私の会社の守衛室まで持ってきたのです。

そのような気味の悪いことがあっても私は母を無視し続けました。とことん無視し続けました。

しばらくすると母からも連絡が来なくなりました。

私は母の言う通り「親不孝」なのかもしれません。母を見捨てたのです。

否定され、貶され、決して認めてくれなかった母。

でも…いまでも、何か違う方法で接していたらここまで崩壊しなかったのでは…と自問してしまいます。

褒めてもらいたかった、認めてもらいたかった、そして…甘えたかった。

私はいま、2人の子供を育てています。

母を反面教師…と思って日々過ごしていますが、なかなか上手くいかない時もあります。

血は争えない。

蛙の子は蛙。

母のようになりたくないのに。

四苦八苦する日々をブログに書いていきたいと思います。

 

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毒っけのある親御さんのもとで育った方、今現在一緒に生活している方、環境は人それぞれ違いますが、どうかどうかみなさんの「自分の道を自分で切り開く権利」が奪われませんように…と願っております


私の両親⑫

2020-11-25 21:22:22 | 毒親のこと

再び母と一緒に暮らし始めた年の春頃、父が仕事中に怪我をしました。

入院するほどではなかったのですが、治療に時間がかかる怪我でした。

怪我をした当日の夜、私は仕事帰りに父の様子を見に行きました。1階部分の屋根と繋がってた自転車小屋の屋根がぐにゃりと曲がっていて、母を追い出した日に2階から母の布団や荷物を投げ捨てた形跡が残っていました。

父は元気があまりなさそうでしたが、一緒に夜ご飯を食べたり、洗濯や掃除をして私は自分のアパートへ帰りました。

アパートに帰って母に父の様子を話すと、「この時期は家の固定資産税や自動車税とか諸々の税金を払わなきゃいけないからね。お父さん、お金のことで悩んでいると思う。」と言いました。さらに「私(母)の借金もあるし。」と。

「ねぇ。お父さんの借金を少し払ってあげられない?」(父の借金と言ってますが、元々は母の借金です)

5年かけてやっと肩代わりした借金を払い終えたばかりなのに…

この間も母が父に黙って使い込んだ20万を振り込んだばかりなのに…

また私が払わなければいけないの…

私が何も言えずにいると「薄情者だね」と。

ここで私が何か言い返すと100倍にも200倍にもなって母は暴言を吐きだすことはわかっています。私はもうそれを聞きたくないし、耐えることができません。

 

結局私はその借金を払いました。

そして、とうとう私の貯金は底をつきました。

短大に行きたくて貯めていたお金も、亡くなった祖母からもらったお金も無くなりました。

母は一言「悪いね。でもお父さん助かったと思うよ。」

私は頭がおかしくなりそうでした。もう限界でした。

こんなこと誰にも…誰にも相談できない。友達にも会社の同僚にも相談できない。

もう逃げたい、母の前から消えたい、祖母の所へ行きたいと…絶対に考えてはいけないことがよぎりました。

 

次の日、私は父の住む家に行きました。そして「お母さんと離婚をしてほしい。」と父に言いました。

 

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今思い出しても胸が苦しくなります。どうすれば正解だったのか。たぶん私は一生答えが出せず、頭の片隅にずっとこびり付いたままなんだと思います。


私の両親⑪

2020-11-24 14:19:24 | 毒親のこと

母の代わりに銀行から借りたお金を返済するのに5年かかりました。(詳しい経緯は↓をお読みください)

 

私の両親⑧ - 母のようになりたくないのに

 

私は25歳になっていました。

銀行から借りたお金以外にも時々母から「お金を貸してほしい」と言われることがありました。大体2~3万円くらいの金額が多かったです。

ところがある日。「けめこさん、お家の方から電話ですよ。」と、仕事中に電話が入りました。母が私の会社に電話をかけてくるのは初めてでした。

私「どうしたの?」

「お父さんのお金を勝手に使っちゃった。さすがにお父さんにバレたらまずいから悪いけどお金を貸してくれない?」

私「…いくら使っちゃったの?」

「20万くらい」

怒り狂いそうになりましたが、会社の人の前です。キレるわけにはいきません。

それに、この頃母は比較的父の住む家で生活をしていました。両親がうまくいっていることに少し安堵していました。

それがまた喧嘩三昧の日々に戻ってしまう。不安な毎日を過ごさなければいけなくなってしまう。

私は父の口座に20万円を入金しました。

 

私はもう母に「パチンコに行くのは辞めて」と言わなくなりました。どうせ言っても無駄だし、「(パチンコで)勝ったお金は家の為に使っている」とか「今まで私(母)は散々苦労した」とか…母の言い訳をダラダラ聞くのが嫌になっていたからです。20万円払えば、母は父と一緒に暮らしてくれて私の所へは来ない。それでいいじゃないか…。そんなふうに考えていました。

 

ところがある日。

私の部屋のチャイムが鳴って、合鍵を持ってた母が中に入ってきました。日付が変わるくらいの時刻です。

母は「お父さんに追い出された」と言います。泥のついた布団を抱えていました。

連日閉店間際までパチンコを打っていたのでしょう。

堪忍袋の緒が切れた父は玄関に内鍵をかけ、母を家に入れなかったそうです。そして、2階から母の布団や着替えを投げ捨てました。

ブツブツ文句を言いながら荷物を運び入れる母。

「お母さんは元々明るい性格だった。」

「それがお父さんのせいでこんなことになってしまった。」

「お父さんが悪い。私はいつも尽くしてきた。」

「亡くなったおばあちゃんだって、お父さんのこと本当の息子のように面倒みてきた。」

「あんた(私)がいるから離婚できなかった。」

毎度毎度お馴染みの母の愚痴のオンパレードです。

私はもうどうしたらいいのか分からなくなりました。

 

再び私と一緒に生活するようになった母は、以前にも増してお金を貸してほしいと催促するようになりました。

「貸して」と言いますが返ってきたことはありません。少しでも私が貸すのをしぶると「薄情者」「親不孝」の罵ります。

“今までいくらくらいお母さんにお金を渡しているんだろう…”ふと思い、紙に書きだしてみました。自分でも驚くほどの金額になっていました。余裕で短大にいける額でした。

私はその紙を自分の部屋の天袋にしまいました。そこには小さな鍵付きのジュラルミンケースを置いていて、その中に通帳や印鑑を入れていました。あとでこの紙もジュラルミンケースの中にしまっておこうと思ったからです。

 

数日後、アパートに帰ると母が物凄い形相で私を怒鳴りつけました。

「お前最低だな!!こんなもの書き残して!!」

母の手には、私がいままでいくらお金を渡してきたか書いた紙があります。自分の部屋の天袋に置いていた紙です。

つまり母は、私が居ない間に私の部屋に勝手に入ってお金があるか物色していたということです。

私はこの時初めて母のことを“この人、気持ち悪い”と感じました。

 

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天袋以外にも私の部屋を物色していた母は、本棚にあった漫画(BL)も見つけたらしく、「こんな本を読んで気持ち悪い」と言っていました。(ノ_-;)ハア…