朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

3時間だけのバカンスin原宿

2021-11-29 18:00:41 | 日記

子ども達と原宿に行ってきました。

「原宿でクレープが食べたい!」「可愛いお店でお買い物したい!」と娘におねだりされたのがきっかけです。

正直人混みの中に出向くのがまだ少し心配でしたが、たまには息抜きも必要よね!私も表参道でキラキラしたものが見たい!と思い行ってきました。

まずは表参道に設置されているライブカメラの場所に立って記念撮影(笑)生配信されてる動画を見ながら「あ、うつった!うつった!」とはしゃぐ様子をスクショしました

そして歩道橋を歩いてKIDDY LANDへ。可愛い商品が多いため、息子は「僕の見るものないじゃん」とブーたれていましたが、懐かしいプラレールと大好きなエヴァンゲリオンのグッツと、お試しで置いてあったカオナシの貯金箱にハマってそれなりに楽しんでいました。

娘は私と一緒にMちゃん(私の地元の友達。小柄な人で度々娘にお下がりをくれる人です。とってもオシャレさん)へのプレゼント選びを手伝ってくれました。

その後、再び表参道を歩いてラフォーレの隣のクレープ屋さんでクレープを食べました。

原宿に数多くあるクレープ屋さんの中でも珍しく椅子が置いてあるお店なので子連れでクレープを食べる際にオススメです

沢山の種類から1つのものを選ぶ時、娘は長考型。息子は即決型です。

しばらく考えに考えた娘は生クリームたっぷりのクレープを選び、鼻の頭にクリームをつけて食べていました

「僕しょっぱいやつがいい!」と即決で選んだ息子のクレープです。レタスをバリバリ食べてる息子をみて「ヤギかな?」とツッコミを入れたくなりました

クレープでお腹を満たされた後は竹下通りを歩きました。

量り売りのお菓子のお店で好きなお菓子を選ぶ時も性格がでます。

娘は色々なお菓子をバランスよく。

息子は好きなお菓子(グミ)だけ詰めます。

たくさん詰め放題をさせてあげたいのですが、100グラム約600円と少々お高めの料金設定なので「200グラム以内にして~」とお願いしました。

お菓子の次は「哺乳瓶ジュース」と「う〇こソフト」です。

哺乳瓶ジュースはヨシとして…

便器(カップ)に入ったう〇こ…

ちょっともう…40代のおばさんにはついていけません

商品を受け渡しする際も「王様のう〇こをお待ちのお客様~!」

思わず笑ってしまいました

哺乳瓶ジュースを選んだ娘も、う〇こアイスを選んだ息子も「容器は持って帰る!!」と。どうすんのよ…便器

雑貨屋さんでアクセサリーを買ったり、イカゲームのグッツを見ながらドラマのあらすじを教えてもらったり(ネットフリックスに入ってないのにどうしてあんなに詳しいのやら…)

「ママに合うハンドクリームを選んであげる」と言ってそれぞれが私に合う香りのハンドクリームを選んでくれたり。

そうこうしているうちに太陽が西日になり始め、人手も増えてきました。

「電車が混む前に帰ろうか」

「楽しかったね!」

「次はチーズがびょーんって伸びるやつ食べようね」

「でっかい綿あめも食べたいね!」

表参道に落ちる枯れ葉をカサカサ踏みながら3時間だけのバカンスが終わりました。

この先のコロナの状況がまた少し不安になってきましたが(オミクロン株ってなんなのよ…もう

“あたりまえの日常”と“ささやかな幸せ”を楽しめる日々が少しずつ戻ってきますように

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

約2年半ぶりの表参道と原宿。

前回行ったときは夏休み真っ最中でした。「ちょっと夜遊びしちゃう?」と夜遅く(と、言ってもまだお店がやっている時間帯)表参道を歩いて、クレープを食べました。

この時たまたまセミが羽化するところを見る事ができて(座ったベンチの足元で羽化していました)その様子を息子が夏休みの思い出絵日記にかいていました。

翌年は東京オリンピックを控えていたため、「オリンピックまで1年をきりましたー」的なモニュメントやライトアップがされていたのを覚えています。まさか延期になるなんて…まさか真夏もマスクをつけるなんて…その「まさか」が現在進行形だなんて…


紅葉を見ると思い出す母との出来事。

2021-11-26 17:35:42 | 毒親のこと

11月も下旬になり、関東近郊は紅葉の見頃となりました。

コロナが少しずつ治まってきたのか「紅葉見物の観光客が増えてきました」などのニュースを見かけます。

東京から車や電車で数時間で行ける某観光地の様子をテレビでみて…胸がざわつき、嫌な思い出がよみがえります。

両親が離婚する少し前、母は毎度おなじみの“人間関係のこじらせ”で仕事を辞めました。

当時50代半ばの母。もうそう簡単に仕事先は見つかりません。

そして相変わらずパチンコ通いも続き、借金は増え、私と言い争いになれば父の家に。父と言い争いになれば私が住むアパートに。父と私の間を行ったり来たり…そんな生活をしていました。

そんな母がどこから聞きつけたのか(職安?)「某観光地にあるホテルに住み込みで働こうと思う。」と言い出しました。「山間の観光地にあるホテルだから、今度こそパチンコを辞めることができる!」と。

改心なのか、一念発起なのか。ずいぶん大きなことを考えたんだな…と思いました。この頃の私はとにかく母と話すことに疲れていて、“私がお金さえ払えば母はうるさく言ってこない。もうそれでいいじゃないか。”という考えでした。なので住み込みで働く!と言う母に対しても“好きにすれば”と思いました。

「面接を受ける前に一度そのホテルを見てみたい。連れて行ってよ。」と言うので車で数時間かけて行きました。

国道を通り、大きな街からもどんどん離れていき、山道を登り…そのホテルはありました。

近くにはお土産屋さんが数軒と資料館的な建物と飲食店があるだけ。コンビニもないような山間の静かな環境にあるホテルでした。もちろんパチンコ店もありません。一番近いパチンコ店に行くためには山を下って1時間以上かかりそうです。

母はいたくこの環境が気に入った様子で「ここで働けばもうパチンコにいかなくてすむ。やり直せる。」と言いました。

そして面接を受けた母。年齢と業務が未経験であったこと、それを理由に“仮契約”みたいな形で数週間働くことになりました。

母は従業員専用の寮に入ることになり、着替えや身の回りで使う荷物を持って再びホテルへ。

寮の管理人さんに挨拶をすませ、部屋に荷物を運び、母に「頑張ってね。必要なものがあったら送るから。」と言って別れました。一人で車を運転して山を下りる私。所々に観光地や日帰り入浴等の施設がありましたが寄り道をする気にはなれませんでした。母の好きにすればいい…と思いつつ、「なんでこんなことになったんだか…」どっと疲れました。

母がホテルで働くようになって数日後。母から電話がかかってきました。

綺麗な空気、綺麗な景色を見ながら清々しい気持ちで働いていると喜ぶ母。

私は素直に「よかったね。」と言いました。

ところがその次母が言った言葉に絶句します。

 

「本当に素晴らしい環境で働いているのよ!夫婦や親子でこのホテルで働いている人もいてね、あんたも一緒にこっちにきなさいよ。良いところよ~。」

 

母は本気で言っています。私は虫唾がはしるほど嫌悪感でいっぱいになりました。

進学、部活、習い事、友だち付き合い…何もかも批判され、否定され、貶されて

就職も「もっと大きな会社に就職しなさいよ」と言われ、せっかくいただいた内定を辞退しました。自力で短大に行く希望も潰されました。

当時私は社会人5年目くらいでした。正直自分には合わない職種の仕事でしたが、それでも必死に働いて、職場でも自分の居場所が出来てきて、母の借金を返しながら新しいことを学んだりささやかな“幸せ”をみつけようとしている頃でした。

それをいとも簡単に「こっちにきて一緒に働こうよ」?

子どものことをなんと思っているの?自分の持ち物だと思っているの?

私には“心”がないと思っているの?親の言うことにはなんでも従うと思っているの?

その時の電話で私は母に何と言ったか覚えていませんが、いまだにあの観光地をテレビ等でみると嫌な気持ちになります。

身勝手全開な電話がきてから数日後。

再び母から電話がありました。夜遅い時間でした。

「こんな時間にどうしたの?」と聞くと、「階段から転んで怪我をした。」と。

一瞬ヒュッと肝が冷えましたが、電話の向こうの母の声はそれほど弱っていませんでした。

「大丈夫なの?」と尋ねると、母が事の顛末を話してくれました。

仕事が終わって寮に帰宅後、街の小さな商店に買い物にいこうとして出かけた母。

季節は冬。外は小雨が降っていたそうです。

鉄製の外階段(屋根なし)をつっかけサンダルで降りた時、あしを滑らせて階段から転んだ。

“そんなの転ぶに決まっているじゃん…”私は心の中で大きくため息をつきました。

物音に気付いた同じ寮に住む人がホテルの近くの診療所に連れていってくれたそうですが、レントゲン等の設備がないため怪我の詳しい状態がわからないとのこと。

「だからさ、あんた明日私を迎えにきてよ。」

平日です。私にも仕事があります。

でも、ここで「私にも仕事があるんだけど」みたいな事を言ったら、電話が壊れるほど大声で喚き散らし、どのみち迎えに行く私に暴言を吐き、最悪の雰囲気のなか車を運転して山道を降りてこなければいけません。

翌朝私は仕事を休んで母を迎えに行きました。

母は包帯で腕を吊っていましたが、痛み止めが効いているのか顔色は悪くはありませんでした。

寮の管理人さん、ホテルの責任者さん、一緒に働いていた従業員の皆さんにお詫びをし、母を連れて帰りました。

帰りの車の中は母のワンマンショーです。「コーヒーがのみたい」「あのパン屋さんが気になる」「ちょっと道の駅に寄りたい」今日中に診察してもらえなくなるんじゃないかと不安になりました。

やっとの思いで自宅に帰ってきて病院に行きました。レントゲンを撮ってもらった結果“全治1~2か月”程度の怪我と診断されました。

母は自分でホテルに連絡を入れ、状況を説明していました。

「再びまた戻ってきます!」と言っていましたが…結局ホテル側から本契約を頂けませんでした。

仕方がありません。年齢も50代半ば、宿泊業で働いた経験なし。わざとじゃないとはいえ不注意で怪我をする(しかも職場の敷地内)。

当時は外国人観光客がまだ少ない頃です。宿泊業界は“買い手市場”だったのかもしれません。

もしあの時「あんたも一緒にこっちにきなさいよ。」という母の言葉に従ってあの山間のホテルで働くことになっていたら…ゾッとします。私の人生メチャクチャになっただろうな

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

日が昇る前にアパートを出発して急いで母を迎えに行った私。

そんな私に母は「化粧っ気もない顔でwww」と言い放ちました。

未だにあの街の紅葉情報とか見聞きすると気分が悪くなります

綺麗に色づく山はなにも悪くないし、母がお世話になったホテルも何も悪くありません。皆さん「お大事にね」と優しく声をかけてくださいました。

結婚してからまだ1度も訪れていないあの山間の街。

コロナが収束したら夫と子ども達と一緒に紅葉を見に行って、思い出の上書きをしたいです。


おつきあいれんらくノート

2021-11-25 15:34:19 | 日記

今年の夏、色々あった娘ですが今のところ“しくじり”は再発していない様子です。

習い事についても、ブスブスしたり、弱音を吐く事もなくなりました。

相変わらず朝練の支度は当日の朝ドタバタと準備していますが、私は放っています。車のカギを持って「先に車に行ってるよ~」と声をかけてそそくさと玄関に向かいます。

忘れ物したり、遅刻して嫌な思いをするのは娘本人ですし。そう割り切りました。気が楽になりました。

もちろん今まで以上に応援しています。送り出すときは「頑張ってね!」と気合入れの握手をするようになりました。

 

子ども達に母の事を打ち明けた時、いつか自分の「ルーツ」を知りたくなるのかな?と思いました。

ブログにも何度か書いていますが、我が家はいわゆる「女手」がなく、夫側の親族との付き合いもほぼゼロです。

私側もそんなに親戚付き合いが盛んな家ではありませんでした。さらに両親が離婚。しかも離婚した訳が訳なのでなんとなく疎遠になってしまいました。

唯一の付き合いは年の近いいとこ2人。それでも年賀状や出産祝いなどを送る程度のお付き合いです。年に1、2回LINEをするかなぁ…くらいです

今のご時世、そのようなお家も多いかもしれません。

だけど、母方の祖母がいるのに会えない。お盆やお正月に親戚で集まることがない。いとこと遊んだ経験がない。(夫側には「いとこ」がいるのですが訳あって交流がありません。)

そんな我が家の子ども達が少し可哀そうだな…と思いました。

なので自分たちの「ルーツ」がわかるよう書き残してあげたい。

ダイソーでこんなノートを見つけました。

 

「おつきあいれんらくノート」です。

他にも「けんこうノート」「お金ノート」「じぶんノート」があります。

自分の“もしも”の時のために備えておくのに便利なノートだなぁと思い購入しました。

この「おつきあいれんらくノート」には

・家族のこと:家族の連絡先等
・親族のこと:親族の連絡先等
・親族表:家系図
・親族メモ:親族の命日
・贈答記録:贈答品などおつきあいの記録
・友人のこと:友人の連絡先等
・その他連絡先:習い事などの連絡先

などが記入できるようになっています。

特に家系図のページを見て“これいいな“と思いました。

子ども達が幼いころ、実家の父と私と子ども達で遠方に住む親戚に会いに行ったことがあります。車に寝袋を積んで、何百キロも車を走らせ行きました。

車で寝泊まりなんてしたことがない子ども達は大はしゃぎ。遠方に住む親戚は所謂「限界集落」という地域に住んでいて、東京育ちの子ども達は何もかもが新鮮だったようです。

当時、息子は年齢的に物心がつき始めくらいの年でしたが、いまでもちゃんと覚えていました。その時親戚と一緒に撮った写真も添えて「家系図」を書き残していきたいと思います。

「おつきあいれんらくノート」にはフリースペースもあるので、私の持病やかかりつけ医、服用している薬や、“もしも”の時の希望やお願い、延命治療や、臓器提供の有無、そして亡くなった時のことなども書いておこうと思います。

「子どもを3人産みたい!」と言っている娘の為にも健康で長生きしたいし、ADHDの息子の将来も心配だし、夫が定年退職したら新婚旅行で訪れたあの街にもう1度行きたい。

でも“もしも”はいつやってくるかわからない。その時大事な家族に余計な仕事は増やしたくない。思う存分偲びまくってお別れをしてほしい。

まだまだこの世で頑張らなきゃいけないことがたくさんあるけど、次の世代のひとのために何か残せるなら…“もしも”の備えは大切だと思いました

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

ダイソーで一通り全部の「もしもノート」に目を通してみました。

「自分ノート」には「各種パスワード」「ライフライン」

「お金ノート」には「銀行口座情報」「年金・保険」「クレジットカード情報」

「健康ノート」には「既往歴」「かかりつけ医」「服用している薬」「延命治療などの希望やお願い」

などが記せるようになっています。たしかにどれも重要なことだと思いました。

義父が亡くなった時とても大変な思いをしました。泣くことが許されないほど日中は慌ただしく動き、子ども達が寝静まった夜遅く夫婦で涙を流しました。

我が家のゴットファーザー(義父)についていつかブログに書けたらいいなぁ…と思っています


思春期との向き合い方⑦(最終話)

2021-11-22 23:39:43 | 子育てのこと

 

いつか娘に読んでほしい本がありました。

西原理恵子さんの「女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと」です。

どこでこの本を知ったのか、いつ買ったのか覚えていません。

“いつか”の日の為に私の本棚にしまっていました。

今年の夏休み前。娘はお金の使い方について大きな“しくじり”をしました。

コロナ、習い事、自分より恵まれた環境にいる友だちのこと、そして思春期に突入した心と体の変化…。

「好き」という気持ちだけじゃ乗り越えられない壁が出来て、おそらく娘は自暴自棄になったのかもしれません。

それがお小遣いの使い方に出てしまったのです。

そして「心の隙」を見せてしまった娘は、同じクラスのヤンチャな男の子にお金をたかられてしまいました。

一連の出来事を知った時、ギャンブル依存で借金まみれになった母の事が頭をよぎりました。

母の血を引く私と娘。母のDNAがこんなところで私たちを苦しめるのか…。

 

もう何度目か分からなくなった緊急事態宣言で少し延長になった今年の夏休み。

私は娘と一緒にこの本を読みました。

本の中では「妊娠、出産の話」「お金を稼ぐこと」「夢を追いかけること」「DV」「パートナーとの別れ」

西原理恵子さんのせきららな体験談が書かれています。

小学校高学年にもなれば「こうのとりが赤ちゃんを運んでくれる」という話がファンタジーであることが分かっているはずです。

どうして男の人が読む漫画雑誌は女の人の水着姿が表紙なのか…その理由も分かっているはずです。

本の中で西原さんが歌舞伎町のお店で働いていたというエピソードがあります。

私は娘に「女性は時としてこのような仕事を選ばざるを得ない時があるんだよ。」と教えました。

小学生に読み聞かせるには少し早かったかもしれません。

だけど私はこの本に書いてあった「長い人生、人は何回も転ぶ。その時腐らず立ち上がる方法。」この言葉を少しでも早く娘に気付いてほしいと思いました。

残念ながら、この世には「あなたはいったいどうしてそんな人格なの!?」という人間がいます。

老若男女関係なくいます。幼稚園児だろうが、立派なお仕事をしていようが関係なくいます。

学校生活、社会生活。集団の中に入れば必ずそのような人に出会います。仕方がないことです。

そんな人たちにあなたの大切な“心”を取られないで欲しい。その為には自分自身を大切にして欲しい。

「石橋を叩く」「薄氷を踏む」そこまで慎重にしなさいとは言わないけど、隙を見せてはいけない人間がこの世にいること。それを知って欲しい。

そして、あなたが進む道のスタート地点の後ろにはいつも私たち「親」がいること。

「いってらっしゃい!」の横断幕を掲げて見守っていること。

すごろくみたいにスタートに戻ってきたときは、あなたの大好物な料理とフカフカの布団を敷いて待っていること。

そのことを忘れないで欲しい。

この先、私たちのことをうざったく感じるのも覚悟しています。(あぁ…でもガッツリ落ち込むだろうなぁ

だけど私はずっとずっとあなたが好き。

そんな気持ちを込めて読み聞かせました。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

どんな時でも、次の一手は、自分で考えて、自分が選ぶ。

王子様を待たないで。

幸せは、自分で取りに行ってください。

本の最後はこう締めくくられています。

私は絶対子ども達の夢の邪魔をしません。

自分で自分の道を切り開く醍醐味を味わって欲しいです


思春期との向き合い方⑥

2021-11-21 21:11:54 | 子育てのこと

「いつか母のことを子ども達に話さなければいけない日がくる。」

そのことがいつも頭の片隅にありました。

どうやって話したらいいのか。

いつ話していいのか。

 

娘に「おばあちゃんのいる家が羨ましかった。」と言われ、ついにその時がきた…と思いました。

休みの日の午後。「お昼ご飯を食べ終わった後にお話があるの。」と子ども達に言い、席に座らせました。

子ども達に1枚の写真を見せました。

今では珍しくなった絹目プリントで現像された写真の中には「え!?ママ!?」と子ども達が勘違いしてしまうほど

私によく似ている若い頃の母が写っていました。

微笑む母の腕の中には生まれたばかりの私がいます。

「この人がママのお母さんだよ。」

子ども達が目をまん丸くして写真を凝視しています。

「ママは自分のお母さんがいまどこで暮らしているか知らないの。」

子ども達は驚きのあまり声も出ない表情でした。

「どうしてそうなってしまったか…ゆっくり話すね。難しい言葉がでてきたら質問してね。」

そこから私は自分の生い立ちと、母がギャンブルで借金を作ってしまったこと、私と父で借金を返したけど母のギャンブル依存が治らなかったこと、両親が離婚したこと。

出来るだけ“感情”は話さず、あった出来事を話して聞かせました。

小学生に聞かせるにはボリュームがありすぎる内容です。時々「チョコレート食べよっか」と気分転換をしながら話しました。

私は「ママは自分のお母さんとの“繋がり(縁)”を切ってしまった。そしてあなた達のママになれた。私はあなた達のママになれて本当に幸せだし、自分のお母さんとの“繋がり(縁)”を切ったことを後悔していない。そのくらい今が幸せだし、あなた達が大切で大好き。」と伝えました。

子ども達は最後まで静かに話を聞いてくれました。

「おばあちゃんの居ない家で寂しい思いをさせたね。ごめんね。」

子ども達が首を横に振ります。

「ママのお母さんのこと、キチンと話さなくてごめんね。今まで不思議に思っていたでしょう。」

今度は首を横に振りません。子ども達の正直な感情が現れたことに少し安堵しました。“おばあちゃん”のことでこれ以上子ども達の本音に蓋をしたくありませんでした。

でも最後に私ははっきりと言いました。

「ママが次にお母さんに会う時、それはお母さんが亡くなった時と決めています。」

もしかしたら子ども達は“おばあちゃん”に会いたいかもしれない。でも私は会わせる気はありません。

“あなたの「親子関係」と「祖母と孫の関係」は違うじゃない。おばあちゃんに会えない子ども達が可哀そう”と思う方もいるかもしれません。

でも私は経験しています。

「親と子」この世で一番近い関係でも、分かり合えないことがあること、支えきれないことがあること。一番大切なことは自分を大切にすること。

そして今の自分は誰を一番大切に思うか。守るか。

 

それから数日後。

私は娘と二人で洋服を買いに出かけました。

小学校高学年にもなると、ジュニアサイズよりレディースサイズの方がたくさんの種類から選べます。

女優さんがモデルをつとめるアパレルショップを何店舗かのぞき、「へぇ…この子はこういう服が好きなんだ」「もうMサイズを着れちゃうじゃん」と…娘の成長にしみじみしながら買い物を楽しみました。

可愛い雑貨店では身だしなみを整える携帯用の櫛を。

アクセサリー店では「お出かけ用に」と可愛いイヤリングを。

ブッ〇オフでは児童書コーナーなど見向きもせずコミック棚をじっくり眺めていました。

(私も一緒になってキャッキャウフフとコミックコーナーを見ていました現在おたんこナースの文庫本を収集中

ひとしきり買い物をして、「お茶でもしよう」とテイクアウトで飲み物を買い…この時も娘は“カフェオレ“をチョイスして「あぁ…もうジュースじゃないんだな」と…そんなところでも娘の成長を感じました。

思えばこのような窮屈な世の中になって初めて娘と2人で出かけました。

休校や自粛が続いたこの1年半の間に娘は心も体も「大人」へと変化していたんだな。

コロナの影響で大好きな習い事が休みになって…練習も大会も中止になって…

コロナの不安を抱えたまま学校が再開されて…慣れないオンライン授業やタブレット学習になって…

モチベーションがあがらないなか習い事も再開。大会ではなかなか結果が出せない。

心と体の成長とコロナ禍の生活。たくさんの不安を抱えていたと思います。

 

公園のベンチに座り、娘とたくさん話をしました。

学校のこと。友だちのこと。好きな男の子のこと。漫画のこと。いま流行っていること。コロナが落ち着いたら出かけたい場所。

習い事の話になり、私は娘に言いました。

「ママ、本音をいうとあなたの習い事をもっと応援したい。大会の応援にも行きたいし、あなたから習い事の話を聞くのも好き。頑張るあなたの姿が誇らしくて、もつと応援したい。ママに手伝えることがあるなら何でも言ってもらいたいな。」

「今日の買い物楽しかったね。あなたが楽しそうに洋服やイヤリングを選ぶ姿が見れて私も楽しかったよ。娘とこうしてお出かけができて幸せだなと感じたよ。」

以前、娘が“将来は子どもを3人産みたい”と言っていたので

「あなたがおばあちゃんに甘えられなかった分、ママがおばあちゃんになったら、たーーーーーくさん孫を可愛がって可愛がって…離さないかもしれない!!」

娘は笑いながら「やめてよ~~~」と言いました。

「ママはすーっとあなたと仲良し親子でいたいな。」

娘も素直に頷いてくれました。

「また一緒にお出かけしようね。」

その日は娘と手を繋いで帰りました。

 

ブログをご覧いただきありがとうございます!

母の事を考えるとどうしても気持ちが沈みます…。沈むが故、ブログを書くのが重くなってしまいます。

いつか話さなければいけないと思っていた母の事。正直子ども達がどう思ったのか分かりません。

私が次に母に会う時は母の骨を拾う時。身の回りの整理は一人娘の私がきちんと片付けようと思っています。

それが私ができる最後の親孝行です。

それを覚悟で私は母を捨て、母になりました。