朝がまた来る

旧ブログ名「母のようになりたくないのに」です。
毒親、ママ友、育児、病気のこと…40代パート主婦が呟いています。

私の両親⑤

2020-11-16 22:19:59 | 毒親のこと

私の高校生活はまずまず安泰した毎日でした。

中学の頃と同じく美術部に入部し、漫画やアニメ好きの仲間も増えました。

両親にダメ元で「アルバイトをしたい」と話したら意外にも承諾を得られ、アルバイト先でも色々な年代の人と仲良くなりました。

なぜこんなにも安泰した日々を送ることができたのか…

それは…お世話になった母校には申し訳ないのですが、私が通っていた高校は県内でも下から数えた方が早いくらい偏差値が低く、学習能力がグレーな私でもそこそこの成績をとることができ、(偏差値はともあれ)母の満足する成績表を持ち帰ることができたからです。

 

この頃父が会社をリストラされ、母と私に内緒で個人事業を始めました。退職金の大半をつぎ込んでしまい母は烈火のごとく怒り狂いましたが、父に個人事業を勧めた人が間に入り母を説得していました。

父の個人事業は1,2年は順調でした。

私も何度か父の仕事場に行ったことがあります。ご機嫌で仕事をする両親。夢はどんどん膨らみます。

「将来はけめこに婿をとってもらって継いでもらわなくちゃ」(今更の自己紹介ですが、私は一人っ子です)

私自身が考えてる将来設計なんて無視です。そもそも将来のことなんて聞かれたこともありません。

しかし、素人がそうそう上手く商売が出来るわけありません。

私が高校3年生の頃には経営がうまくいかなくなり、立て直すこともできず、父は個人事業を辞めました。父に個人事業を勧めた人も姿を消しました。

夫婦仲は最悪の最悪な状況です。そんな状況下、私の進路を決めなければいけない時期になりました。

今でもその時の光景を忘れていません。母が台所で洗い物をしている時でした。

私は勇気を振り絞って「進学をしたい」と母に言いました。家計の状況も薄々わかっている、学費は自分で払うからと。

母は私に背中を向けたまま「何言ってるの?就職しなさい。」と声を荒げることもなく静かにいいました。逆にその様子が恐ろしくて、これ以上この話をしたら母が逆上して襲い掛かってくるのではないか…私はそのあと何も言えませんでした。

私の進路は「就職」になりました。

学校に届く就職案内のファイルを見る日が続きます。90年代後半のことです。高校生の就職も“氷河期”でした。

私はアルバイトでも経験した職種に就職しようと思い、とある地元企業の面接試験を受けました。ありがたいことに採用の返事を頂きました。採用されたことを母に報告すると

「そんな小さな会社断りなさい、新卒なんだからもっと大きな会社に就職しなさい!」

もちろん母には事前に面接試験に行くことを話しています。内定を断るなんてできません。

しかし母は「断りなさい」の一点張り。そして毎度お馴染みの自分の苦労話を語りだします。「お母さんはこんなに苦労した」「お母さんはこんなに辛い思いをした」そして締め括りはいつも通りの「あんたがいるからお母さんは離婚できなかった」

小さい頃から何度も何度も聞かされた母の話なので“わたしのせいでお母さんが苦しんでいるんだ”と暗示をかけられていた私は母の言う通り内定をお断りしてしまいました。進路指導の先生からは「こんな厳しい時代に採用してくださった企業なんだぞ。もう来年からは就職案内が来なくなってしまうんだぞ。」と叱られました。しかし私は「職種はなんでもいいです。大きな企業に就職したいです。」とお願いをして、隣町にある会社の面接試験を受け採用されました。

新聞の株価欄にも企業名が載っている会社だったので、母も満足している様子でした。

しかし、ここから私の環境はどんどん苦しくなっていきます。(つづく)

 

 

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私の両親④

2020-11-13 23:31:59 | 毒親のこと

中学2年生の時、数学のテストで赤点を取ってしまったことがあります。

今後自分自身のことについてもブログで書いていきたいのですが、おそらく私は学習能力が“グレー”だと思います。

小学校1年生の時、「3+5」ができるのに「5+3」になると頭が真っ白になりました。

母に「なんでできないの!?」と怒鳴られ叩かれますが、なんでできないのか私自身が一番知りたくて、泣いて謝ることしかできませんでした。

その後も、面積や体積の計算はすぐ覚えられるのに、時速や時間の計算になるとまたつまずき…本当にこの世から算数がなくなればいいと思っていました。数字に対して恐怖しかなかったです。そのほかの学習でも得意不得意が両極端で、苦手な科目を学習するときは普通の人の倍以上時間をかけないと習得できませんでした。

赤点のテストをみた母は怒り狂い、私の部屋に入ると壁に貼っていたポスターや、私が描いた絵や作品、そして友達が私の誕生日に描いてくれたイラスト…それらを破り捨て、それでも気が収まらなかったのか机の引き出しを全部開け散らかして「こんなくだらないもの全部すてろ!!」と。

確かに赤点を取った私がいけません。でも、母に「勉強がわからない」と言うのが怖かった。怒鳴られたり、叩かれたりするのが怖かったんです。

中学入学前の春休み、母に「アルファベットを大文字も小文字も順番に完璧にかけるようにしなさい」と言われ、母の前で書いていると、間違うたびに菜箸で手を叩かれました。下手くそ!何回まちがうの!?違う!!ほらまた間違えた!

終わった頃には手の甲が腫れあがっていたのを覚えています。またあのような怖い思いをしたくなくて母に「勉強がわからない」と言えませんでした。

赤点をとった私は、母に勉強道具以外全て捨てられてしまいました。本当にゴミに出してしまったのです。

殺風景になってしまった部屋を見て、母を恨みましたが、勉強ができない自分を一番恨みました。

そして中学3年生。受験生です。

私は家から少し遠い(自転車で30分ほど)ところにある高校に新しくできた科(医療や福祉、保育関係が学べる)に行ってみたいと思っていました。そのことを母に話すと猛反対。

「自転車で30分!?ダメダメ!!バス通学もダメ!!そんな遠い学校なんて行く必要なし!!」

学んでみたい科目があるとこ、バス通学になっても定期代はアルバイトをするから、と言っても相変わらず私の気持ちは届きません。しまいには、

「新設されたばっかりの科なんてイジメられるよ!?」

なにかその高校に恨みでもあるのか!?と思うようなことまで言いました。

「家から一番近い高校にしなさい。それ以外はダメ。」

 

少し話は変わって…

当時、私の地元では9割近くの子が地元近隣の県立高校に入ります。

でも一応“滑り止め”として私立高校の受験もします。(ちから試し的な受験ですが)

母に滑り止めの件を話すと「そんなのやる必要なし!」とピシャリと言われました。

「もし希望する高校が落ちたらどうするの?」と母に聞くと

「二次試験なり、夜間高校にいけばいいじゃない」

志望校も滑り止めも受けさせてもらえない。私自身、自己評価は底辺だし、なにより母に否定されたり、批判されるのが怖い。

結局私は家からほど近い県立高校に推薦ではいりました。(一般で受験して落ちるのが怖かったからです。)

 

応援ボタンありがとうございますブログを始めて1週間近く…過去の自分と向き合うことができたのでとても気持ちが落ち着いた1週間でした。明日からの土日は子どもの習い事の送迎とPTAの仕事があります。両方とも肩の力を抜いてがんばります!!日曜は5時起き…( ^ω^)フゥ


私の両親③

2020-11-12 23:11:50 | 毒親のこと

私の通っていた中学校は全員部活動に入らなければいけませんでした。

私は友達とソフトテニス部かバトミントン部に見学にいこうと約束をし、そのことを母に話すと

「あーーーー!!ダメダメ!!テニスもバトミントンもお金かかるじゃない。部費がかかる部活動はダメ!!」

見学だけでも見に行きたい。友達と約束した。と私なりに説得したのですが、全く聞く耳を持ってはくれませんでした。

一緒に見学に行く約束をした友達には行けなくなったことを謝り、私なりに親の負担にならない部活動はないか考えた結果、美術部に入ることにしました。そのことを母に話すと

「ろくに絵も描けないのに?」

今思い返しても…どんなに一生懸命思い出しても…私は母に褒められたことがありません。

小学生の頃に話は戻りますが、小学校5、6年生の時、手芸クラブに入っていた私はクラブで手提げバックを作りました。(のりぴーマンの柄の生地で←柄までハッキリ覚えてます)作った手提げバックを母に見せると

「自分で縫ったってちゃんと(周りに)言いなさいよ」

母は洋裁が出来る人でした。要するに私がこの手提げバックを持ち歩いて、誰かがガタガタな縫い目をみて「あらー。けめこちゃんのお母さんお裁縫下手ね~」とでも思われたら恥ずかしいってこと?

また、同じく小学生の時、家庭科のテストで100点を取ったときのことです。担任の先生が「100点だったのはけめこだけだったぞ」と教えてくれました。私は嬉しくて、母に褒めてもらえると思ってテストの結果を話すと

「でも、国語や算数のほうが評価されるのよ。」

がんばったね。の一言が欲しかったな…と40歳過ぎた今でも思ってしまいます。

 

話は部活動に戻ります。

部費がかからないということで、私は美術部に入ることになりました。

そこで運命の(!?)出会いをします。

漫画好きの友達(Aちゃん)と仲良くなりました

Aちゃんのおかげで「花より男子」も「天使なんかじゃない」も「イタズラなKiss」も…少女漫画の世界に浸ることができました

漫画好きなこと以外にも、たわいのない会話が楽しかったり、一緒に絵を描いたり、あみんの「待つわ」をハモって歌いながらケラケラ笑ったり。交換日記もしていました。お互いの誕生日には好きな漫画のキャラクターを色紙に描いて渡しあったりしていました。

しかし、楽しそうに学校生活を送っている私を見て、母はおもしろくないのかAちゃんの悪口を言い始めます。

「あんな子(Aちゃん)と仲良くするより、もっと自分のためになる子と付き合いなさいよ」

「Aちゃんのお母さんって…なんか…ねぇ(笑)働いてないんでしょ?いいわね、専業主婦って」

でも今回ばかりは私も母の言いなりになりません。思春期ということもあり、よくも悪くも母の言葉を無視していました。

そんな時、悲しいことかおこります。(つづく)

 

「応援ボタン」ありがとうございます!「続き希望ボタン」や「いいねボタン」もあるのですね。久しぶりにこんなに長々と文章を書くので、時には「!?」と思われえる文章もあると思いますこんな下手くそなブログを読んでいただけて本当に感謝です


私の両親②

2020-11-11 22:19:03 | 毒親のこと

主人と子どもたちがドラえもんの話題で盛り上がっています。

主人は子どものころドラえもんの漫画を持っていて、映画にも連れて行ってもらったそうです。アニメも毎週欠かさず見ていたとか。我が家の子どもたちにも結構早い段階で(まだEテレをよく見ていた月齢から)ピー助が出てくる映画のDVDなどを見せていました。

正直、私はドラえもんにそんなに思い出がありません。

見たことがあまりなかったからです。フランダースの犬とか小公女セーラとかも見たことがありません。

私が子どものころ、テレビのチャンネル権は当然両親にあって、さらに何故か母はアニメや漫画を極端に毛嫌いする人でした。なので、小学生の頃はりぼんやなかよしなどの少女漫画雑誌を家で読んだとこがありません。

アニメを見られるのは母が仕事から帰ってくるまでの間だったので、子供のころの私が見たアニメの記憶は夕方に再放送されてた「妖怪人間ベム」とか…ちょっと渋めなアニメでした

ふと思い出したことがあります。

小学生の時、両親と親戚の家に行くことがありました。(この親戚もこれまた色々諸事情がある家です

親戚同士の難しい話をしに行くということで、途中スーパーかコンビニに立ち寄った母は私に「なんでもいいから本を買ってあげる。」と言いました。書店ではなく、スーパーかコンビニの書籍コーナーですから、児童書などは置いていませんでした。私はダメもとで「なかよし」を手に取り、「これはダメ?」と聞きました。しかし返事は意外にもOKで、この時はじめて少女漫画雑誌を買ってもらいました。親戚の家で大人たちが話している傍らでミラクルガールズを読んだ記憶が鮮明に残っています。

しかし、月刊誌ですから続きがあります。当時私は学年に応じてお小遣いをもらっていました。(4年生なら月400円。5年生なら月500円といった感じに。)次号の漫画が読みたくて、その数週間後、そろばん塾の帰りにお小遣いで「なかよし」を買って帰りました。

それを見た母が一言。

「なんでそんなもの買ってくるの!?くだらないからお店に返してきなさい!!」

どうしても続きが読みたいこと、自分のお小遣いで買うから許してほしい…と懇願しましたが却下されました。

あの頃の私は母の言うことが絶対!だったので買った「なかよし」をお店に返し行きました。

しかし漫画、アニメを極端にNGにされたせいか反動がやってきます。(つづく)

 

 

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私の両親①

2020-11-10 23:49:18 | 毒親のこと

「あんた(私)がいるから離婚できなかった。」

 

子どものころから数えきれないほど母から聞かされた言葉です。

夫婦喧嘩の絶えない両親でした。

仕事は真面目に働くけど、酒飲みの父。

仕事はするけど、浪費家で内弁慶で何でも脳直で話す母。

両親に共通するのは「仕事運のなさ」と「宵越しの銭はもたない気質」だったと思います。2人とも何度も職が変わったし、変わるたびに我が家の生活レベルは右肩下がりになっていきました。

父の「仕事運のなさ」は主にリストラ

母の「仕事運のなさ」は主に人間関係

よく母から職場の悪口を聞かされていました。

“私がこんなに尽くしてあげたのに裏切られた”系の話が大半でした。

夫婦喧嘩が始まると、天変地異でも起きたかのように家の中は荒れに荒れ、怒鳴り声、ガラスの割れる音、物が壊れる音…

小学生だった頃は只々怖くて布団に潜り込んで時が過ぎるのを待ち、中高生時代は仲裁に入ったり、外に逃げ出したり。

喧嘩が終わると母はお決まりのセリフのように「あんた(私)がいるから離婚できなかった。」と私に言います。そして、昔の夫婦喧嘩の内容を再びほじくり返し、父方の親戚の悪口をほじくり返し…「お母さんはこんなに不幸なのよ!!」と娘の私に熱弁し、時には遠方にすむ祖母に電話をかけて泣きついていました。

ちょっと話が変わりますが母はもうひとつ度々私にいう言葉がありました。

「お母さんさぁ、学校行事大嫌いなんだよね。」です。でもPTAの仕事はなーーーーんにもやっていませんでした。

やってないくせに「学校行事大嫌い」

当時、何度も何度もこの言葉を聞かされた私は「私のせいでお母さんが苦しんでる」と考えるようになりました。