goo blog サービス終了のお知らせ 

川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「正人死去」

2012-12-16 06:43:56 | 友人たち

「あの日を忘れない!」新潟港追悼集会の終了後、夕焼けの福島潟の景観に魅了され、月岡温泉の露天風呂では時を忘れて友の話に耳を傾けました。30余年も歩みをともにしている人ですが知れば知るほどともだち冥利に尽きると感じます。

今朝は阿賀野川の船に乗って山水画のような風景を楽しみました。

 8時過ぎ帰着すると「日高正人」くんの訃報が届いていました。11月30日、死去。僕がHR担任をした最初の生徒50人の一人です。

闘病中でしたが僕にとってはまさか、の知らせです。この2週間誰からも知らせがなく、夫人からの「賀状欠礼」はがきで知る始末。なんということだろう。

 大島を訪ねるたびに世話になりました。中国から来た残留孤児二世たちを歓迎してくれたこともあります。

今日は選挙の日ですが、それどころではなくなったような気がしています。

 

 


日本人妻・残留邦人・追悼の辞

2012-12-15 20:56:04 | 韓国・北朝鮮

15日」(土) 8時ごろ無事新潟から帰ってきました。

「あの日を忘れない」新潟港追悼集会での鈴木倫子さんの追悼の辞を紹介します。 

 

追悼の辞  

もう、半世紀も昔のことです。「地上の楽園」と謳われていた北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国こそわが祖国と思い定め、
憧憬と希望に胸ふくらませた多くの在日朝鮮人が、日本人配偶者をも伴って、この新潟港を後にしていきました。

 思い返せば当時私は中学生でした。自分が住んでいる町には日本人だけでなく、朝鮮人や台湾人の家族も暮らしているの
だということは知っていました。でも、あのように鉦や太鼓で送り出されるようにして、華々しくこの国を後にしていった
人たちがいたということを、私はまったく知りませんでした。いいえ、新聞やラジオ、ニュース映画などで見聞はあったで
しょうが、ひとつも記憶がありません。

 大人になって本を読んだり、いろいろな人に出会ったりするなかで、「そういうことであったのか」と一つひとつ知ってい
ったわけですが、知るということと心の中に落ちていくというのは、全然別のことです。

 あまたの知識の断片が一つひとつ意味を持って心のなかに浸み込んできたのは、北朝鮮から脱出してきた家族と出会い、友
人として付き合ってもらえるようになって、北朝鮮がどんな国か、帰国した人たちがどんな処遇を受けたのか、具体的に知
るようになったからです。それが私のほんとのところです。人との出会いというのは、しみじみありがたいものだと思います。

 さて、今年の一月、ふと入ったバーの女主人が、八十歳ぐらいの人でしたが、北朝鮮の開城近くの町から家族で引き揚げた
時の体験を話してくれました。鼻をつままれてもわからないような真っ暗闇の山中で、小休止のとき、ぐっすり眠りこんで
しまったために、独り取り残されてしまった。でも、末娘がいないことに気づいた父親が探しに来て見つけてくれたおかげ
で助かった。そういう体験でした。

 「近所の十歳くらいの男の子が単身で一行の中にいたんだけど、その子はどこでどうなったのか、途中ではぐれてしまっ
てそれっきり、消息不明のままです。私も父親に見つけてもらえなかったら、どうなっていたものやら。そんなふうにして
あの国に取り残された人もきっと数多くいたでしょうね」と、残留邦人の可能性を話してくれました。

 幾人かの脱北者の方から「残留日本人だという人に会った」という話を聞いてもいましたが、まことに考えてみれば、そ
れはあって当たり前のことなのです。でも、私は帰国した中国残留邦人の友人たちからさまざまな話を聞いていながら、長
い間、北朝鮮にも残留邦人がいるはずだということに考えを及ぼすことができませんでした。

 2009年、北朝鮮への帰国第一船が新潟港を出港した12月14日、その日に、五十周年を記念して行った私たちの「あの日を忘
れない」追悼集会は回を重ねて第4回目となりました。

 今年は、日朝政府間交渉で遺骨収集ということではありますが、初めて残留邦人のことが議題に上りました。私たちのこ
の集会でも、元在日朝鮮人と日本人妻だけでなく、残留邦人も併せて追悼供養いたします。

 でも、私たちにとって本当は、一番大切なのは、死者や遺骨ではなく、現にまだ生存している人たちです。例年にない厳
しい寒さの中を北朝鮮で過ごさなければならない人たちは、どんなに辛いことでしょう。その想像を絶する暮らしのことを
思うと、何とも言いようがありません。せめて、日本への帰国を望む人たちすべてが、一日も早く帰ってこれるようにと願
うばかりです。

 「あの日を忘れない」これがこの集会のテーマですが、忘れようにも、記憶さえ持ち合わせてこなかった私のような人間
にとっては、自分に見えていなかった、見ようともしてこなかった人たちの、越し方や思いを一つひとつ、自分の心に手繰
り寄せていくことなのだと思います。

 そしてそれを自分の、さらにこの国の歴史の中に深く刻み込んでいくこと。それが「あの日を忘れない」ことであり、追
悼することなのだと思います。

  2012年12月14日    鈴木倫子


「あの日を忘れない」新潟追悼集会(第4回)

2012-12-14 06:19:15 | 韓国・北朝鮮

今日はこれから新潟に向かいます。新潟の人々と「追悼集会」を埠頭で行います。どういう天候になるのかちょっと心配です。予報は「雨」。

 1959年12月14日、ソ連の船に乗って新潟港を出港 した在日朝鮮人と日本人配偶者はその後、どうなったというのでしょう。朝鮮総連にこそ最大の責任があるのです。彼らは今なお王朝の忠実な下僕となって同胞に君臨しています。在日コリアンの責任も重大です。知らん顔をしている人が多すぎます。立ち上がって帰国同胞の日本への自由往来の実現などを要求すべきです。日本社会の差別をあげつらっていれば格好がつくような時代はもう終わったのです。

北朝鮮の金王朝は長距離弾道ミサイルの発射実験に成功して国威発揚を自賛しています。朝鮮総連の副議長も「歓呼の声をあげた」といいます。

 北の蛮行が安倍・石原らを鼓舞しています。「改憲・国軍・核武装」など勇ましい虚言がこだましています。

私たちは民主主義と人権の旗を掲げて独裁と闘う東アジアのすべての人々と手をつなぐ道をなんとしても切り拓かなければなりません。


 「あの日を忘れない」新潟追悼集会(第4回)

●開催日:12月14日(金)13時~14時

●場所:新潟市新潟港中央埠頭

●追悼法要・政府への要請文決議など
●主催:一般社団法人 移民政策研究所日本人妻等定住支援センター(代表:坂中英徳)
●協力:平和を願い行動する僧侶の会(代表:善光寺徳行坊若麻績敬史)

1959年12月14日に在日コリアンの「北朝鮮帰国」第一船が新潟港を出港しました。今日から見れば「壮大な拉致」ともいえる民族の大移動でした。多くの人の消息が不明です。強制収容所送りになった人も少なくありません。

 随伴した日本人妻の大半がもはや死亡したと考えられます。無念のうちになくなられた方々を追悼する法要を行います。そして北朝鮮に幽閉されているすべての日本人の救出への決意を表明します。

 


創価学会の友へ

2012-12-13 06:12:03 | 政治・社会

 昨日から我が家では「東京新聞」を購読することにした。販売店に申し込んだら4,5年ぶりになるという。このところの「東京新聞」の論調を支持し、激励するためのささやかな行動である。論調は穏やかで常識的だが、朝毎読産日などが大本営の垂れ流しに徹しているので、違いが目立つような気がする。3ヶ月の契約だが脱原発に踏み切れるかどうかなど、日本の未来を決する大切な時期である。新聞記者の魂が健在であることを示してほしい。

 TVが見えなくなってから我が家でのマスメディアといえばラジオ放送だけだった。朝夕、7時前後に天気予報とニュースを聞く。FMでは音楽専門。たまに図書館に行ったときには各紙に目を通した。癌研への行き帰りにも、たまに100円で買える新聞を購読した。これで何の不自由も感じない。

 世の動きはインターネットの無料配信で見える範囲でカバーしている。知友を含むブロガーたちの意見には可能な限り耳を傾けている。

今朝の「東京新聞」には「自民単独過半数の勢い」「衆院選終盤情勢」とある。公明・維新を加えれば衆院の3分の2を超えるかもしれない。そうなると「参院無視」も可能となる。脱原発どころか、「改憲」「核武装」までが政治の焦点になりかねない。そういう事態への警告が読み取れる。

 自民党の思惑通り、民主党への政権交代が無様な結果になった。「小沢=犯罪者」キャンペーンは司法的には失敗したが政治的には大勝利だ。この勢いに乗って後ろから鉄砲を撃ってまでして権力奪取に狂奔した仙石・菅・野田らの罪は万死に値する。僕はそう考えている。

 しかし、自民党・維新に大勝されてはかなわない。フクシマは忘れ去られていくだろう。言葉だけが勇ましい「愛国」がのさばっていく。確実に破滅への道を突き進むだろう。3分の2はなんとしても阻止しなければならない。

 創価学会の友人たちに訴える。

自民党の最強の支持勢力は創価学会である。「比例区は公明党、小選挙区は自民党」。法華経の信徒の組織が強力な団結力を生かして自民党を支えている。創価学会の支持を得られなくても当選可能な議員はほんのわずかである。有名な自民党議員が自嘲気味に言っていた。

 「生命へのまなざし」「自然との共生」-。池田さんの言葉や佳し。だが、いま、本当に「自民党」でいいのか。

僕の生徒には創価学会で育った人が少なくない。活動的で魅力的な人も多い。中には選挙活動に熱心な人もいて、時々、電話がかかってくる。

 協力できないことをいつも伝えているが、今度ばかりはあなた方に言いたい。公明党支持はともかく、「小選挙区は自民党」だけはよく考えなおしたほうがいいのではないか。

僕は宗教団体が特定の政党と一体化するのは恐ろしいことだと思っている。「信仰」とは己を捨て絶対者に身をゆだねることではないか。

「政治」は俗事であり、「絶対」はありえない。民主主義の手続きを尊重しながら「より正しい」道を模索していく過程といえる。一人ひとりの考え、判断が一番大事だ。

創価学会だけではないが創価学会=公明党がもっとも顕著な政教一致の道を歩んできた。友人たちが自覚して自らに恥じない政治行動をしてほしいと思う。

信者団体とはいっていないが共産党も似たようなものだ。「統一」だの「共同」だのといいながら299の小選挙区に候補者を立て、政治=選挙を宣教の手段にしている。そのような体質そのものが民主主義とは相容れないことに人々はとうの昔から気づいているのに、信者にはわからないらしい。

 参考記事「創価学会への通告書」●http://wrpandora.blog.shinobi.jp/Date/20121117/1/

 

 

 

 


どこかへ逝った「天涯孤独」の人へ

2012-12-12 09:06:26 | 友人たち

 12月11日(火)晴

 「川越だより」を発信したあと、入間川の土手に出、公園の散歩。男体山をはじめとした日光連山が雪化粧して迫ってくるような感じがする。東京方面の空もよく晴れて真っ青。「洪大杓が煙になっていく」と思った。

 なぐわし公園の風呂。日差しが暖かいので露天の椅子に足を投げ出して昼寝。

夕食時に「野辺の送り」に加わった妻から「洪大杓」にかかわる話を聞かせてもらう。

両親を早くに亡くしたあと、親代わりに育ててくれた兄さんも逝った。「天涯孤独」と聞いたものだが、三人の姉妹にお会いすることができた。姉さんはなんと川越住まい。洪大杓と付き合いの長い高柳教授に朝鮮語を習ったことがあるとか。姉弟は日ごろ疎遠に見えてもこんな風につながっていたのか。うれしい話だった。

 うまく機会が作れたら若い日の話をゆっくり聞かせてもらおう。甥や姪の方々の頼もしい姿もあったという。何が「天涯孤独」だ。

夜はパソコンで歌を聞いた。洪大杓が移動教室で「長崎の女」を歌ったのが印象深い。

 「長崎の女」●http://www.youtube.com/watch?v=RAYCgC3Ypxw

 今朝(12日)菜穂子からのメールに気づいた。移動教室で出会った洪大杓の印象をつづって、僕には心地いい文章だ。

洪大杓に届ける。


 

洪さんがお亡くなりになったこと、今日川越だよりで知りました。

移動教室にも参加されていたお酒の好きな方ですよね。

私が初めて参加させていただいたときでしたでしょうか、バスの座席が洪さんの前で
した。

帰りのカラオケタイムで確か1番手か2番手に、忌野清志郎の「雨上がりの夜空に」
を歌われて

「なんか変な歌(移動教室の雰囲気に合っていないような歌を)歌っちゃってごめん
なさいね」

なんておっしゃっていましたが、こういう歌が歌えるなんてカッコイイー!!と思い
ました。



1日目、2日目と昼食のときも偶然、洪さんの近くでした。

歌と同じくらい印象に残っているのは、2日目の昼食。

洪さんの向かい側に座っていろいろお話しをしながら食べました。

洪さんは倫子さんからの美味しいお酒を飲んでいました。

私はコンビニかどこかで、おにぎりとパックに入った胡瓜のお新香を買って行ったの


おつまみがあったほうがお酒も美味しいかな。。と思い、胡瓜のお新香を「おつまみ
にいかがですか」と伺うと「これはいいですね」とニコニコ。

パックの蓋をお皿代わりに半分コ。周りの方からのキムチ等も加わり

「これは最高ありがとう」とニコニコ笑顔。

「菜穂子さんは毎回必ず野菜を一緒に食べていてバランスがいいですね」と昨日のこ
とも。

「昨日もコンビニのおにぎりとお新香ですよ」と笑いました。

そのあとも、洪さんが思う啓介先生、高校担任時代の啓介先生の話や長野県のお勧め
温泉等の話しをして

楽しいひとときを過ごせました



またお会いできる日を楽しみにしていたのに残念です。

ショックでした。

でも、楽しい時間を過ごせたこと感謝します。忘れません。

ご冥福をお祈り致します。





洪さんお勧めの長野県の温泉(タオル・バスタオル持参)

・片岡館(諏訪市) 入浴料¥200(昔、洪さんが行った当時) → 現在¥50
0(2008年12月~)

・岡谷ロマネスク館(プール有り、水着持参) 入浴料¥500  → 岡谷ロマ
ネットのようです。



 


洪大杓「親として、在日として、一人の人間として」

2012-12-11 10:25:16 | 在日コリアン

 今日は9時から洪さんの葬式である。妻は朝早くでかけた。僕は川越ではるかに見送る。寒さに弱いためでもあるが「葬式」には消極的な僕の考えにも基づく。生きている間が大事、そう思うのである。

 久しぶりに洪さんが書いた文章に目を通した。「民族共生教育をめざす東京保護者の会」のニュース(2001年)に掲載された。

お経代わりに声に出して読んでみます。よかったら皆さんも僕と一緒にどうぞ。

 

親として、在日として、一人の人間として

 洪 大 杓(東京江戸川区在住)

  

子育ての喜びと苦しみ

 親として、子どもを育て上げるということは簡単といえば簡単、難しいといえばこれほど難しいことはない。子どもが生まれたからにはこれを扶育し、一定の教育を受けさせることは親として当然のことなのでそのこと自体には何の負担感や義務感といったこともない。

 子育ての過程にはいろいろと手間暇はかかるし、実際問題として経済負担などは大きいし、その他何くれとなく面倒なことが多いのであるが、それはそれ、子育ては苦労でもあり、喜びでもあって、子の成長を見守りつつ日々の生活を生きていくのは親業ならではの楽しみともいえるだろう。

 ところが子どもが小さく、かわいいかわいいといって育てていたうちはいいのだが、だんだん大きくなって理屈を言うようになってくるとなかなかそれまでのにこやかな親子関係とばかり言っていられない場面が出てくる。

 わが家には三人の娘がいるのだが、つい先日も何かのことで下の子(小学生)を叱ったところ、上の子(中学生)が「アッパ、そんな頭ごなしの叱り方はおかしいよ。ちゃんと普通に言えばわかるんだから」と文句を言うではないか。な、何を言うか。私は瞬間的に逆上した。今風にいえばブチキレそうになったわけだ。「お、親に向かって何を言う。黙れ、黙れ、黙れ」。なおも何か言おうとする長女を、とにかく黙れ、黙らんかで口を封じさせた。全身がわなわなするほどの激情を抑えるのがやっとだった。

  これが男の子であればその場ではり倒すところだが、女の子ではそうもいかず、腹立ち紛れにテーブルをひっくり返そうにも、つい後先考えて思いとどまってしまう在日二世の情けなさ。その点だけをとっても一世たちは偉かった!

  私は憤懣やるかたない思いを抱いたまま、それ以上だれにあたることもできず一人パソコンに向かったのである。現在、世の中にこれほどにパソコンが普及しているのは、家の内や外で発散する場所、もしくは居場所のないお父さんたちがいかに多いかを物語っているのではないかと私は自分の経験に照らして愚考するのである。

家族がすべて

 閑話休題、実は子どもたちに常日頃、「自分の意見を持て」と言い聞かせてきたのはかくいう私である。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で判断できる人間になれと教え諭してきた。最近の韓国・朝鮮、そして日本の有様を見れば自分自身で判断することの大切さはいうまでもないことだ。だがしかし、自分の意見を持てとは言ったが親に意見をしろとは言ってない。親の思うように子は育たないという苦いサンプルがここにある。

 さて、「自分の意見を持たなければならない」。これは私の信念でもある。私は中学校を終えた十五の歳から世間の波にもまれて一人で生きてこざるを得なかったため、自分で己の生き方を決めるということが習慣のようになっている。同世代の少年が親の庇護を受けて楽しい青春時代を送っているときに、私は地の底を這うような生活をして、なおかつ祖母へ仕送りをしなければならなかったのだ。

 私がそのような生活を強いられたのは、いうまでもなく貧困のせいだ。父が小学校一年のときに死亡し、翌年母親が死ぬと、家はたちまち行き詰まり、当時まだ十代だった兄二人が自分たちの青春や夢や希望、そういったものをすべて投げ捨てて残された家族を生き延びさせるために働いてくれた。少年だった私に何がわかるというのではなかったが、兄たちが必死に働く姿を見て、次は自分の番だ。働ける年齢になったらすぐに働いて兄たちの負担を軽くしてやらねばと心に刻んでいた。

 現在は祖母もなく、杖とも頼んだ兄二人も積年の無理がたたってか相次いで早死にし、残された私は自棄と失意、そして孤独と将来の見えない絶望の中ですさんだ生活に陥るしかなかった。そうした生活の中で、ふと考えることがある。いったいなんで俺はこんな苦労をしなければならないんだ。貧乏だからか? なぜ貧乏なんだ。在日だからか? 在日だとなぜ貧乏しなければならないんだ。そもそもなぜ俺は在日なんだ? 在日とはなんなんだ?

 堂々巡りの自問だったが、とかく在日というものを否定的にとらえがちだった当時の私がなぜ決定的に足を踏み外さず(これは比喩的表現で、実際はかなり踏み外して今でも向こうずねは傷痕だらけ)、在日を肯定的に受け止められるようになったかというと、祖母と兄二人の存在によるところが大きい。世間の無視と無理解、そして貧困により傷つきもだえる少年の私を無私の愛で包んでくれた祖母と(それは今から思えば朝鮮そのもののような存在だった)、そうした私たちを守ろうと敢然と世間に挑戦し、力のおよぶ限り闘ってくれた兄二人。在日を否定することはこのかけがえのない家族を否定することになってしまう。そしてこの家族を否定することは自分自身をも否定することになってしまう。今思えば、すでに世にはない私の家族が私のすべてだったのだ。

  さて、そういう地を這うようなすさんだ生活をしていた私だが、ところがある日、人並みに結婚というものをすることになった。相手はなんと日本のしっかりした中流家庭の娘さんで、どう考えても不釣り合いな取り合わせで、これを世間では逆玉などという。この不釣り合いな二人が結婚にまでこぎつけ、新家庭を営むに至るには当人たちにすれば涙ぐましい努力、当時を知る友人たちに言わせれば抱腹絶倒の物語があるのだが、それは別の機会に譲ることにしよう。

  私がここで言いたいことは、とうとう私にも新しい、守るべき家族ができたということである。家族というものに対する思いは当然それぞれにあるものではあろうが、私が「家族」に寄せる格別な思いというのはそのようなところからくるものなのである。

 ということで次はいよいよ子どもの教育問題に入ろう。

洪姓を継がせることの意味

 在日と日本人という少ないようで実際は実に多い私たちのようなケースでは、当然のことながら互いに「在日」というものをそれぞれがどう受け止め、認識していくかということが問題になる。そしてそれは子どもが生まれるとより顕著に具体的問題として突きつけられることになる。

 すなわち名前の問題である。戸籍の問題である。長じては就学の問題である。先々には就職、結婚とさまざまあろうが、私たち夫婦は、夫婦としてはお互いの個性と生きてきた歴史を互いに尊重しあおうと決めた。そしてその考え方の延長線上として、生まれてくる子どもは在日と日本人の子どもとして豊かに育てていこうと話し合った。

  結果、子どもたちには洪(ホン)姓を継がせ(このことでは法務局を相手に裁判で争うことになった)、国籍については長じて自分たちが主体的に判断できるようになったらそれぞれが判断すればいいということになった。

  もちろん三人の子どもが幼稚園、小学校、中学校と進学するたびに校長先生や担任の先生に会いに行き、洪(ホン)姓で通わせたいこと、卒業証書も含めあらゆる文書も洪(ホン)姓で記入してもらいたいことなどを確認しにいくなどの手間はあったが、それは子どもを学校に預ける親として当然なすべきことなので面倒というほどのことでもない。

  ここで大事なのは親が揺るがないことであろうと思っている。親が在日として生きる信念がなくて、どうして子に在日として生きよなどといえるだろうか。親が洪姓で生きる覚悟なくしてどうして子に洪として生きよなどといえるだろう。だが、揺るがないためには揺るがないだけの「認識」が必要となる。

  私の場合は破天荒な生活の中で、いわば体験的、直感的にそれを会得してきたのであるが、本来はその認識にいたるプロセスを合理的に構築したものが学問というものであろう。教育というものはだから非常に大事なものだと思っている。

国籍と「クニ」

 国籍についでだが、前述のごとく国籍は子どもたちがいずれそれぞれ判断すればいいと思っている。国籍があるがゆえに己があるのではない。何国人であっても己自身として生きてゆく生き方をつかむのが先であって、国籍などはそのときそのとき便利なものを選択していけばいいだけのことだ。まして国籍と民族を結びつけて考えようとするなど愚の骨頂である。そういう発想がどれほど在日を貧しいものにしてしまったか、歴史を見れば明白ではないか。

 そもそも、祖国と恃んだ国から棄民され、日本にあっては三流外国人と蔑まれて生きてこざるを得なかった在日がどのような「クニ」を頼ろうとするのか。在日の不幸は、在日としての方向性や将来へのビジョンをきちんと指し示せるリーダーを持てなかったことにあると思っている。さらにいえばそういうリーダーを持てなかったことも含めてそのような状況に押し込められてしまった政治状況で踏みつけられてきたのが在日であったといってもいい。

 親として子の幸せを願わないものはない。私も非力ではあるが、それでも力のおよぶ限り子の成長を見守ってやりたいと思っている。そして、子どもたちの将来のためにも私たちが今住んでいるこのクニの状況を少しでも、ほんのわずかでも改善していかなければならない。それは結果としてこのクニへの「貢献」につながるものであろう。それが在日の将来展望へつながるのではないか。

 在日として、また親として現在私はそのようなことを考えている。■(2001.3.7)

 

 


 洪さんの思いが無理なくつづられているように思う。この思いのようにこの10年を生きてきたのだろう。三人の娘さんたちはそれぞれ自立した。10月に会ったときに末嬢が今春、就職したことをことのほか喜んでいた。

 洪さんの最期の日に、三人の娘さんに会うことができた。それぞれが立派に成人して僕は心から喜んだ。「アッパに花嫁姿を見せてやりたかった」。二番目の娘さん。近く彼氏を父親に会わせることになっていたらしい。

 末の娘さんは「洪(ホン)」と名乗って就職した。このことで就職時期がやや遅れたと「アッパ」は言っていた。

 洪さんのような国際結婚の場合、韓国領事館に届ければ子は二重国籍となり、22歳までに国籍選択をすることになっている。日本の戸籍上は日本人の親の戸籍に登載されるので姓は母の姓になる。(やや面倒だが、生後、法的手続きをすれば外国人の親の姓を名乗って子どもだけの独立戸籍を作ることはできる)。

 上の娘さんたちはそれぞれの考えで母の姓で世の中に出、末嬢は「洪」。一人ひとりが考えて決めたことだからその生き方を尊重したいといっていた。法務局と争って戸籍上も「洪」を名乗らせようとしたぐらいの歴史のある人だから、内心はとてもうれしかったのではないか。

 洪さんの「クニ」「国籍」への思いは僕の考えと重なる。そのせいで「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の世話人として一緒に歩くことになった。在日コリアンは三世・四世の時代になったが国籍の「選択権」は今なお認められていない。

 在日コリアン組織の大半のリーダーたちの次世代に対する責任感の欠如が根底にあると僕は思っている。今なお「外国人」として生きる道をよしとし、コリア系日本人として生きる道を切り拓こうとはしないのである。

 病のため僕は任を離れ、洪さんは逝った。残念至極というほかはない。

 洪さんとは渡来系の人々がこの列島を制圧する前の縄文文化期についてもよく語りあった。有史以前の遠い遠い昔からの歴史の中に「在日コリアン」をおいて、どう生きるかを考えることができる人だった。

 大事な話し相手、大事な友人を喪ってさびしい。「洪大杓さん、さよなら」。

 

 


老義母・柳子さん

2012-12-10 09:00:51 | 父・家族・自分

12月9日(日)晴

 左肺全摘手術から7年が経ちました。寒い一日だったので日当たりのよいベッドで過ごしました。

 夕方、義弟が妻の母を連れてきてくれました。12月1日で94歳になりました。息子夫婦と同居して一年が過ぎました。ほっとしたのか、かなり老化が進みました。

 義弟は障害を持つ子どもと付き合う教員生活を3月に終えたばかりです。昨今は老母の介護に明け暮れる日々です。妻の世話になりながら安穏に暮らしている僕としては、ただただ感謝あるのみです。お母さんを世話する様子を見ているとさすがにプロだなあと思わせます。

 遠くに住むようになった娘と息子を順番に電話で呼び出して近況報告をしてもらいました。日本橋界隈で生まれ、震災後は吉祥寺、結婚してからは神田で生活した「江戸っ子」です。先日送った「佃煮」を喜んでくれました。

 1968年夏、私たちの結婚式に出るために大阪から木っ端のような室戸汽船に乗って夫婦で室戸岬まで来てくれました。もうすぐ45年になります。

【川越だより】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.12.09(日) 1309 PV 415 IP 1426 位  / 1797513ブログ
2012.12.08(土) 820 PV 331 IP 1867 位  / 1797151ブログ
2012.12.07(金) 778 PV 364 IP 2049 位  / 1796762ブログ
2012.12.06(木) 944 PV 438 IP 1527 位  / 1796275ブログ
2012.12.05(水) 965 PV 395 IP 1616 位  / 1795732ブログ
2012.12.04(火) 810 PV 365 IP 1827 位  / 1795219ブログ
2012.12.03(月) 1006 PV 377 IP 1703 位  / 1794727ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.12.02 ~ 2012.12.08 6218 PV 2584 IP 1809 位  / 1797151ブログ
2012.11.25 ~ 2012.12.01 9282 PV 5152 IP 617 位  / 1793894ブログ
2012.11.18 ~ 2012.11.24 5915 PV 2075 IP 2441 位  / 1790689ブログ
 

 

<form action="/admin/access_count/#access_total" method="post">
トータル閲覧数(PV) <input type="text" name="accesst/accesst_pv_user" value="1504901" /> PV
トータル訪問者数(IP) <input type="text" name="accesst/accesst_uu_user" value="374992" /> IP
</form>

 


こんな選挙違反を見逃していいのか

2012-12-09 07:54:51 | 政治・社会

12月8日(土)晴

 都知事選で石原都政の継承を託された猪瀬候補陣営が公然と選挙違反をやっているようです。 名刺のような違法なビラを配布し続けているのです。

猪瀬直樹支持者による選挙違反現場の決定的証拠画像。川淵元チェアマンは選対本部長を辞めたほうがいいhttp://etc8.blog83.fc2.com/blog-date-20121207.html

これだけ公然とやっている証拠があるのに警視庁は何もしないのでしょうか。

違法ビラについては僕にも直接的な体験があります。09年8月末の「政権交代」選挙の前日のことです。自民党の候補者の姉と称する人が我が家にもやってきて違法なビラを手渡していったのです。


 

正午ころのことです。玄関で「こんにちは」と声がするので出て行ってみたら中年の?女性が「●●の娘です。父をよろしくお願いします」といってビラなどを手渡され、足早に去っていきました。●●はこの選挙区の自民党の公認候補のフルネームです。一瞬の出来事であっけにとられました。
 もっらったものはビラ3種類と名刺でした。
 ①埼玉県選管の証書を貼った●●候補のビラ。
 ②「労働組合が日本を侵略する日 民主党にだまされるな!」などと大書した自民党のビラ。
 ③「民主党と労働組合の革命計画」などと大書した自民党のビラ。
 ④●●候補の名刺。表面下に女性のフルネームが印刷されている。

 これは公選法で禁止されている戸別訪問に該当するのではないかと判断して僕はすぐに二箇所に電話して事実を伝えました。。
 ①川越市選挙管理委員会 戸別訪問にあたり違法だとのことで候補者事務所に連絡するとの返事。
 ②川越警察署 選挙違反の疑いがあるとのことで後刻、刑事が来宅しビラなどをもって行きました。この際、別棟の郵便ポストにもビラ等が投げ入れてあるのを確認。ここにも名刺が入っていましたが表面下に印刷されている女性名は候補者と同姓で、渡されたものとは違います。
 明らかに選挙違反だが警察は選挙に干渉してはいけないのですぐに何らかの対応をするわけにはいかないといって帰っていきました。

 本当に娘さんかどうかはわかりませんがなんだかとても惨めな感じがします。今回の選挙ではこの候補の不利が伝えられており、自民党の年齢制限で比例区には名簿搭載されていません。必死なのはわかりますがこの候補の事務所はしていいことと悪いことの区別もつかないのでしょうか。こういう人が国会議員を永くやってきたのです。

 唖然とするのは置いていった自民党のビラの内容です。民主党が政権をとれば日教組の言うなりになり、「愛国心のない国をつくり、社会主義化しようとしています」などと臆面もなく書いてあります。事実に基づかない謀略ビラとでも言うほかはありません。
 いまどきこんなビラは逆効果かとも思いますが、時の政権党の選挙向けの公式ビラだと思うといささかぞうっとします。敗戦直後の「革命」がささやかれたころの謀略ビラかと思うほどです。こんなことを党を挙げてやっているとしたらなんとしてもこの党に鉄槌を下さなければなりません。この国の自由と民主主義の灯を守り抜くために。僕は麻生太郎を絶対に許さないぞと初めて思いました。

   出典●「川越だより」

無残、自民党の末路http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b31dffe4c91fd883d2ef378aa199c341

 


 

川越警察は結局何もしなかったようです。話を聞くだけ聞き、違法なビラ類を持っていったにもかかわらず、報告の一つもありません。

選挙の公正を維持する役割を放棄しているというほかはありません。

都知事選挙は真っ最中です。強大な権力を保守している陣営のやりたい放題を許容してはなりません。


 

昼前に本川越駅前にある小宮山泰子さんの選挙事務所を訪ねて選管の証書を貼ってあるビラを少々預かってきました。数日のうちに会う知人に直接渡します。選挙用はがきも10枚ほど預かってきました。知友の宛名を書いて事務所に届けます。ささやかに過ぎますが、僕ができるのはこのくらいです。今回ばかりはなんとしても小宮山さんにがんばってもらわなければなりません。「未来の党」という「脱原発」の政党が消滅したらお先真っ暗です。

 

 

 

 


わが友・洪大杓逝く

2012-12-08 09:35:13 | 友人たち

 12月7日(金)晴

 洪大杓(ほん・てぴょ)さんが17時52分死去したとお連れ合いから知らされました。覚悟していたとはいえ、募る悲しみ、寂しさをどうすることもできません。1950年7月生まれですから62歳、僕よりは9歳下の「弟」です。

 いつごろからか気が合うようになり、90年代・2000年代を一緒に歩いてきました。僕が癌研有明病院に通うようになってからは時に自転車で葛西のお宅を訪ねて人生の話を語り合いました。早くに両親を喪い、育ててくれた長兄にも早世されてさびしかった少青年期ですが、配偶者と三人の娘さんに恵まれ幸せそうでした。昔の写真や資料を引っ張り出してきて語ってくれたのが昨日のようです。

 最後にあったのは10月の末です。お連れ合いとの三陸慰霊のたびの様子を語ってくれました。12月14日の新潟の旅を約束して別れました。先日は切符が届いたと元気な声を聞いたばかりです。

 在日コリアン二世で僕と一緒に最後まで歩いてくれた数少ない人です。在日コリアン問題、北朝鮮問題はもちろんのことですが古事記や日本書紀の時代にまで話をともにできる人ですから妻にとっても大切な存在です。こだわりなく付き合える数少ない友人です。

 僕を「先生」呼ばわりしますが、あるときから「お前は俺の弟」だと宣言しました。敬称抜きで呼んで来ました。愚兄で申し訳ないが「弟」はそれなりに心を許していてくれるようでした。

 見舞い帰りの電車の中で「弟・重態」の知らせに祈りながらバスに揺られた夜を思い出しました。1955年10月31日のことです。半世紀の後に新しい「弟」を喪って僕は本当にさびしい。

 ●「洪さん死去」に関する友人たちの問い合わせは鈴木啓介までお願いします。 080-1278-4906


 

以下は昨朝書きかけだった日記です。 

 

12月6日(木)晴

東京見物に出かけることにしました。車は廃棄したので「電車と散歩」の一日を時々過ごすことにしたのです。来年から始める「きいちご散歩教室」の下見でもあります。

①佃島(つくだじま) 地下鉄有楽町線「月島」下車。ここは癌研有明病院の行き来によく寄ります。「田中屋」で当分の間の佃煮を買いました。義母にも送りました。日本橋界隈で育った義母には喜んでもらえるでしょう。

 江戸開府の頃、大阪西成の漁師たちがここに移住し、故郷の名をつけたといいます。友人の潔さんはその末裔だというから驚きです。戦後もかなりの時期までここにも漁師の生活があったと聞きました。

②豊洲・林さん夫妻宅

豊洲から水上バスに乗って浅草に行くことにします。時間があったので「きいちご移動教室」の常連・林さんのお宅に寄ってみました。あいにく林さんは外出中ですが奥さんの祐子さんが出迎えてくれました。

 まるで小さな歴史資料館に来たみたいです。部屋の壁にこんな風な歴史的な資料が展示されているのです。コーヒーのご馳走になりながら四つ年上の祐子さんの説明を聞きました。 

「田作霖」は祐子さんのお父さん。日本留学の予備校のようなところの卒業証書でしょう。

「閻錫山(えん・しゃくざん)」は高校の世界史の教科書に出てきた人です。辛亥革命に参加後、「山西督軍」「山西省長」となり、共産党の天下となるまで山西省を支配した軍閥の大親分です。

中華民国9年とは1920年(大正9年)のことです。

田さんは成城中(東京)七高(鹿児島)京都帝大・農学部を卒業後、故郷に帰り太原の大学教授になられたようです。七高在学中に出会った福元タマさんと結婚し、祐子さんが生まれたというわけです。

共産党の天下となった後の一家の生活は困難を極めました。「国民党」「親日派」のレッテル。82年にご両親は帰日、90年に相次いでなくなられたそうです。

 辛亥革命以来の東アジア近代史の只中にいる感じです。近くあらためて訪ねてご夫妻のお話をゆっくり聞かせてもらいます。中国共産党独裁下で「国民党」「親日派」のレッテルを貼って葬り去られた人々の営みは近代中国の近代化の核心となったはずです。

祐子さんのお父さん田作霖という方はどんな人だったのか。中国近代史が急に身近になってきたような感じです。

来年にはお母さんの故郷・鹿児島にもご一緒できるかもしれません。結婚するまで中洲小学校の先生だったといいます。

③浅草・浅草寺

12時45分、祐子さんに見送られて水上バスで浅草へ。久しぶりに観音さんにおまいりしました。

坂東33観音めぐりの始まり。今にして思えばこれは洪さんにヒントをもらったのかも知れません。お連れ合いの休日に観音めぐりをしていると聞いていたのです。

私たちのことですから「順番」はありません。日和見をしながら楽しみます。


衝撃の連続

2012-12-07 18:29:37 | 父・家族・自分

今朝、6日の日記を書いている途中で若い友人の緊急入院の知らせがありました。東京の病院に駆けつけて面会してきました。奇跡が起きることを祈るばかりです。

 帰り着いた途端に3・11以来の大揺れ。でも、我が家には何の被害もありません。この春・夏・秋と訪ねた東北の海岸部の人々の安寧を祈っています。福島原発4号機は大丈夫でしょうか?心配です。こんな地震列島で「原発再稼動」にこだわる人々を理解することは到底できません。

 衝撃の連続ですが僕は大丈夫です。


「石原ファミリーを倒さないことには何も変わらない」山本太郎さん

2012-12-06 05:38:42 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

 12月5日(水)曇晴

 2時過ぎから入間川の土手を歩いてきました。87歳になるという方に出会いました。1945年、最後の徴兵検査を「川高」で受けたそうです。敗戦直後から東上線で池袋・新宿に通い、焼け跡の片付けに従事した、日当は10円だった、とか。

 旧・芳野村の出身ですが月吉町に住み日々散歩は欠かさないとのことです。程よい体型で矍鑠とされています。


 

山本太郎さんが自民党の石原伸晃前幹事長に挑戦状を突きつけて立候補したといいます。先月、丸木美術館では「選挙には出ない」といっていました。政治状況を見て我慢ができなくなったのでしょう。

 核(原水爆・原発)をもてあそぶ発言を繰り返す石原父子がリーダーシップを発揮して、自民・維新の政権ができる可能性があります。

そうなれば「脱原発」どころか憲法改正・核武装を喋喋するところまで突き進みかねません。

山本さんの危機意識、行動力はただものではありません。一夜で300万円の供託金が集まったとか。「脱原発」市民勢力の力でなんとしても「石原」を追い落としたいものです。

 新党「今はひとり」●http://imahahitori.jimdo.com/

 

山本太郎氏杉並区内で第一声 広瀬隆氏が応援、一人じゃなくなった…東京8区

高円寺駅前で出陣式と第一声を行った東京8区の山本太郎氏。広瀬隆氏(右)も応援に駆けつけた

 第46回衆院選は4日、公示され、16日の投開票日に向け、12日間の選挙戦がいよいよスタート。各党の党首らは、全国各地で第一声を発した。

 脱原発などを掲げ、東京8区から立候補した俳優の山本太郎氏(38)は4日、東京・杉並区のJR高円寺駅前で出陣式を行った。

 黒いハンチング帽、蛍光色の上着というラフな格好で登場。なぜかリュックサックを背負ったままで、初の街頭演説に臨んだ。同選挙区からは、5選負けなしの前職で、自民党の石原伸晃前幹事長(55)も立候補。山本氏は「相手(石原氏)は直視できないほど、まぶしい“七光り”です。でも、石原ファミリーを倒さないことには、何も変わらない」と、石原氏の父・慎太郎氏(維新代表)も含め、あらためて挑戦状をたたきつけた。

 出陣式には反原発の著作がある作家・広瀬隆氏も駆けつけた。広瀬氏は「本当は役者の山本太郎が好きなんだけど、できる限りのことはさせてもらう」と応援を約束していた。

 一方、社民党は4日、山本氏の支持を決定。又市征治選対委員長は「今回の衆院選は脱原発が重要な争点であり、東京から脱原発の議席を獲得することは全国的にも大変重要だ」とのコメントを発表した。

 ◆東京8区 立候補者
円 より子(65)民主新
石原 伸晃(55)自民前
上保 匡勇(28)共産新
山本 太郎(38)無

出典●http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121205-OHT1T00029.htm


『忘れない 誓う一票』 「東京新聞」の論説を支持する 

2012-12-05 06:26:16 | 政治・社会

11月4日(火)曇晴

 昼から思いがけず晴れたので公園の林を散歩しました。久しぶりなので大事業のようです。それでも一周すると楽になって気持ちよくなります。

帰りにコンビニで「東京新聞」を買ってきました。僕の思いと重なる論説を読んで心強く感じました。そのとおりだ!


 

 写真: 東京新聞

「傍観の悲劇」胸に刻む  「東京新聞」東京本社論説主幹 山田哲夫

(略)

 大震災と福島原発事故は、政治への傍観や行政や専門家への「お任せ」が生存をも脅かす重大過失につながってしまうことを骨身にしみさせました。私たち一人ひとりが民主主義の主体的参加者、国や社会のあり方は考えても考えすぎることはない、と教えました。

 総選挙でまず問いたいのは原発、エネルギー政策。福島事故が一年九ヵ月後の今も収束から遠く、十六万人に避難生活を強いている現状や事故は二度と起こしてはならず、高レベル放射性廃棄物の十万年の汚染の制御不能性から、脱原発は論理的必然、倫理的な要請でもあります。

 それは私たちに内なる成長信仰やエネルギー多消費型生活の変更を迫るものです。受け入れの勇気があるかどうか、脱原発を掲げる各党、各候補の本気度を見定めつつ、同時に自らに問わなければなりません。

(以下・略)


 

 原発安全神話の醸成に加担してきた新聞やTVに重大な責任があることは言うまでもありません。政党で言えば何より自民党です。

「東京新聞」以外の新聞はどういう紙面を作っているのでしょう?自民党にいたっては言語道断です。何もなかったように開き直ってフクシマと向き合うことを避けています。

 プルサーマル推進のコマーシャルで稼いだ星野仙一さんはどうしているのでしょう?どんな顔をして「東北」楽天の監督を続けているのか?

 星野仙一「関電コマーシャル」●http://www.youtube.com/watch?v=f4qvRlE0YJU&feature=player_detailpage

フクシマからはじめての総選挙です。社会を見つめ、自分を見つめ、鎮魂と怒りの一票を投じたいと切に思います。

 

 


日本海・青海島 いつ行けるかなあ。

2012-12-04 12:29:21 | 出会いの旅

12月2日(月)

 寒い一日で閉じこもり。西伊予の海岸を走る国道387号を調べたり、まだ見ぬ長門の海岸に思いをはせたりして過ごしました。折りよく松山の将史兄さんから八幡浜のシラスなど海の幸が届きました。

(青海島)

Photo

山口県の旧・長門国(ながとのくに)はどういうわけかただの一度も訪ねたことがありません。萩はもちろん、青海島、下関、秋吉台などなど。僕にとっては「最後の秘境」です。青海島と仙崎は特に行ってみたいところです。「波の橋立」があるとか。暮れは寒すぎるかな。

【川越だより】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.12.03(月) 1006 PV 377 IP 1703 位  / 1794727ブログ
2012.12.02(日) 895 PV 314 IP 2210 位  / 1794260ブログ
2012.12.01(土) 1026 PV 402 IP 1648 位  / 1793894ブログ
2012.11.30(金) 1279 PV 449 IP 1198 位  / 1793516ブログ
2012.11.29(木) 1267 PV 682 IP 658 位  / 1793026ブログ
2012.11.28(水) 3538 PV 2630 IP 82 位  / 1792559ブログ
2012.11.27(火) 807 PV 376 IP 1992 位  / 1792039ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.11.25 ~ 2012.12.01 9282 PV 5152 IP 617 位  / 1793894ブログ
2012.11.18 ~ 2012.11.24 5915 PV 2075 IP 2441 位  / 1790689ブログ
2012.11.11 ~ 2012.11.17 7267 PV 2684 IP 1705 位  / 1787706ブログ
人気ブログランキングに参加

 

<form action="/admin/access_count/#access_total" method="post">
トータル閲覧数(PV) <input type="text" name="accesst/accesst_pv_user" value="1499275" /> PV
トータル訪問者数(IP) <input type="text" name="accesst/accesst_uu_user" value="372684" /> IP
</form>

宇都宮健児さん 愛媛県の海辺で艪をこぐ少年

2012-12-03 11:46:52 | 政治・社会

12月2日(日)晴曇雨

宇都宮健児さんの人生物語を読んだ。都知事候補になっている方だ。

「サラ金被害者の救済」「年越し派遣村」「日本弁護士連合会会長」などの断片的な知識しかなかった。共産党が強く推しているように見えるのでやや胡散臭い人かとさえ思っていた。

 愛媛県西宇和の漁村の生まれで、少年期に大分県で開拓生活を送ったと知って俄然興味が湧いてきた。

 僕は暮れが近くなると決まって愛媛県西南部の海岸風景を思い出す。みかん山と真っ青な海、霞む島影、そして落日。このあたりを訪ねたのは二度ばかりに過ぎないが懐かしさが伴うような風景である。

 僕がインターネットで読んだのは「魂の仕事人」という連載記事(2006年)だ。読んでよかった!5歳下で夭逝した弟と同じ年頃だが四国の反対側の海辺にこんな少年がいたのかと驚くばかりだ。

   

魂の仕事人「宇都宮健児弁護士」●http://www.jinzai-bank.net/careerlab/info.cfm/tm/032/

 宇都宮さんの故郷は今は西予市となっている旧西宇和郡明浜(あけはま)町田之浜である。宇和海に面した文字通りの僻村だ。僕の不確かな記憶の彼方にある西宇和の海辺に宇都宮少年の父を助けて艪をこぐ姿が浮かび上がってくる。


 私の父親は復員軍人、しかも傷痍軍人だったんです。若いときに兵隊に行って、10年くらい戦争に従事したんですが、途中で爆撃機の操縦士になってね。それで終戦直前にアメリカの戦闘機に打たれて、足を負傷したんです。野戦病院に入っているときに終戦になって命が助かるわけですけど、同僚のほとんどは特攻隊で死んでいます。

 で終戦後、田舎へ帰ってきた。田舎は愛媛県の小さな漁村でしてね。すごく畑の少ないところで、海岸は段々畑でね。そこで農家をやっていたんですね。でも父は7人兄弟の6番目だったから、田舎に帰ってきても畑がないわけですよ。だから他人の畑を借りて芋や麦を作ったりしてたんですね。

 それから夏なんかは、伝馬船、櫓(ろ)で漕ぐ船ですね、それに乗って釣りをしてました。夕方、浜を出て行くときに、近くの海で「モイカ」と呼んでたイカを釣ってね。それをエサにして朝方ハマチを釣るんです。ハマチを釣るときは流し釣りといって、僕が櫓で船を漕いで親父が釣ると。夕方から朝方までは沖に錨を降ろして船を固定して、アジやサバ、イサキ、タチウオなどを釣りました。夜中の12時頃までは一緒に付き合って、その後は船の中で寝てました。親父は朝まで釣る。釣った魚を売って家計の足しにしてたんですね。

IMG_6290ak.jpg

出典●http://ehimekennanyo.blog84.fc2.com/blog-entry-267.html


 

小学校3年生の時には一家を挙げて対岸の大分県の国東半島に渡って開墾に従事したというから、海で働いたのは7・8歳のときということになる。僕も海辺で育ったがこの年頃に祖父に連れられてウツボ篭を揚げに連れて行ってもらったぐらいの体験しかない。友人たちの中には宇都宮さんと同じように親を助けて働いた人がいたか?それでも5歳下では考え難い。

この人のその後の人生はすでにNHKなどで放映されているというからご存知の方が多いのかもしれない。僕のように何も知らない方は「魂の仕事人」を読んでみてください。

「東大法学部・日弁連会長」という学歴や社会的地位からはおよそ想像のつかないすばらしい人生を歩むことになった。その方が60近くになって言っておられる言葉が印象に残った。

「僕はそもそも働くことに意味なんてなくてもいいと思うんです。とにかく人に迷惑をかけないで、一生懸命働いて、自分が生活できて家族を養えられれば、それだけでとても立派なことなんですよ。プラス、少しでも社会の役に立つ、そういうことができれば上出来だと思うんですね。」

 幼少時から一生懸命に働く父の姿を見て育った人の「感謝の念」がその根柢にあるが、なんと優しさに満ちた言葉かと思った。

その人は「少しでも社会の役に立」とうとして反原発の選挙戦を闘っている。

 

 

 

 

 


「また、ね。」

2012-12-02 11:22:19 | ふるさと 土佐・室戸

12月1日(土)晴

 11時半~2時半 高校のクラス会。銀座麒麟に8人が集う。1960年、「南国土佐を後にして」上京以来52年がたった。僕のように闘病を余儀なくされている人が5人もいる。一人ひとりが近況を語った。12歳で出会った人もいる。2年後、また元気に会えたね、と集えるといいな。2回続けて僕が「幹事」だった。こんな小さな集まりの世話でも重荷に感じるようになった。終わってほっとした。

 4時過ぎに川越に帰着したので「さよなら原発・川越デモ」へ。最後の10mをあるくのに間に合った。リーダーが参加者は90人と報告していた。僕が91人目だったか。

 「未来の党」から衆議院選挙に立つ小宮山泰子さんのアッピールがあった。共産党・民主党・自民党などの候補と一議席を争う熾烈な選挙戦だ。僕は副代表になった森ゆう子さんに伍して国会でがんばったもらいたいと思っている。