goo blog サービス終了のお知らせ 

川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

宇都宮健児さん 愛媛県の海辺で艪をこぐ少年

2012-12-03 11:46:52 | 政治・社会

12月2日(日)晴曇雨

宇都宮健児さんの人生物語を読んだ。都知事候補になっている方だ。

「サラ金被害者の救済」「年越し派遣村」「日本弁護士連合会会長」などの断片的な知識しかなかった。共産党が強く推しているように見えるのでやや胡散臭い人かとさえ思っていた。

 愛媛県西宇和の漁村の生まれで、少年期に大分県で開拓生活を送ったと知って俄然興味が湧いてきた。

 僕は暮れが近くなると決まって愛媛県西南部の海岸風景を思い出す。みかん山と真っ青な海、霞む島影、そして落日。このあたりを訪ねたのは二度ばかりに過ぎないが懐かしさが伴うような風景である。

 僕がインターネットで読んだのは「魂の仕事人」という連載記事(2006年)だ。読んでよかった!5歳下で夭逝した弟と同じ年頃だが四国の反対側の海辺にこんな少年がいたのかと驚くばかりだ。

   

魂の仕事人「宇都宮健児弁護士」●http://www.jinzai-bank.net/careerlab/info.cfm/tm/032/

 宇都宮さんの故郷は今は西予市となっている旧西宇和郡明浜(あけはま)町田之浜である。宇和海に面した文字通りの僻村だ。僕の不確かな記憶の彼方にある西宇和の海辺に宇都宮少年の父を助けて艪をこぐ姿が浮かび上がってくる。


 私の父親は復員軍人、しかも傷痍軍人だったんです。若いときに兵隊に行って、10年くらい戦争に従事したんですが、途中で爆撃機の操縦士になってね。それで終戦直前にアメリカの戦闘機に打たれて、足を負傷したんです。野戦病院に入っているときに終戦になって命が助かるわけですけど、同僚のほとんどは特攻隊で死んでいます。

 で終戦後、田舎へ帰ってきた。田舎は愛媛県の小さな漁村でしてね。すごく畑の少ないところで、海岸は段々畑でね。そこで農家をやっていたんですね。でも父は7人兄弟の6番目だったから、田舎に帰ってきても畑がないわけですよ。だから他人の畑を借りて芋や麦を作ったりしてたんですね。

 それから夏なんかは、伝馬船、櫓(ろ)で漕ぐ船ですね、それに乗って釣りをしてました。夕方、浜を出て行くときに、近くの海で「モイカ」と呼んでたイカを釣ってね。それをエサにして朝方ハマチを釣るんです。ハマチを釣るときは流し釣りといって、僕が櫓で船を漕いで親父が釣ると。夕方から朝方までは沖に錨を降ろして船を固定して、アジやサバ、イサキ、タチウオなどを釣りました。夜中の12時頃までは一緒に付き合って、その後は船の中で寝てました。親父は朝まで釣る。釣った魚を売って家計の足しにしてたんですね。

IMG_6290ak.jpg

出典●http://ehimekennanyo.blog84.fc2.com/blog-entry-267.html


 

小学校3年生の時には一家を挙げて対岸の大分県の国東半島に渡って開墾に従事したというから、海で働いたのは7・8歳のときということになる。僕も海辺で育ったがこの年頃に祖父に連れられてウツボ篭を揚げに連れて行ってもらったぐらいの体験しかない。友人たちの中には宇都宮さんと同じように親を助けて働いた人がいたか?それでも5歳下では考え難い。

この人のその後の人生はすでにNHKなどで放映されているというからご存知の方が多いのかもしれない。僕のように何も知らない方は「魂の仕事人」を読んでみてください。

「東大法学部・日弁連会長」という学歴や社会的地位からはおよそ想像のつかないすばらしい人生を歩むことになった。その方が60近くになって言っておられる言葉が印象に残った。

「僕はそもそも働くことに意味なんてなくてもいいと思うんです。とにかく人に迷惑をかけないで、一生懸命働いて、自分が生活できて家族を養えられれば、それだけでとても立派なことなんですよ。プラス、少しでも社会の役に立つ、そういうことができれば上出来だと思うんですね。」

 幼少時から一生懸命に働く父の姿を見て育った人の「感謝の念」がその根柢にあるが、なんと優しさに満ちた言葉かと思った。

その人は「少しでも社会の役に立」とうとして反原発の選挙戦を闘っている。