某方の某ブログを読ませていただいて・・・
思い出したお話を下記に・・・。
泉谷閑示著 『「普通がいい」という病』の中の
「五本のバナナ」というお話(先生がお作りになられたお話みたい・・)
「五本のバナナ」
バナナが大好きな旅行者が、ある貧しく暑い国を旅しています。
その国には、道端に物乞いがたくさんいます。
旅行者は、物乞いに施しをしようと考えます。
彼はちょうど大好物のバナナを五本持っていました。
普段の彼は、三本食べると満腹して満足します。
そこで彼は、自分で食べるのは二本で我慢することにし、
残りの三本を気の毒な物乞いにあげました。
しかしこの物乞いはバナナが大嫌いで、一言のお礼も言わず、
彼の目の前で、地べたにバナナを捨てたのでした。
・・・で、ここで本編に戻るのです。先生の切り口はこうだ・・(↓)
・・・さて、バナナをあげた旅行者は、いったいどんな気持ちになったでしょうか。
自分は我慢して施したのに、感謝もなく恩知らずな物乞いに腹が立ち、
怒り心頭でしょう。
しかし、もし自分が三本のバナナを食べて、残りの二本は
どうせ腐ってしまうのだからと 物乞いに差し出していたらどうでしょうか。
そもそも自分でも食べきれずに捨てたはずなのですから、
それほど腹も立たないでしょう。
この一本の違いが、「愛」と「欲望」の違いを生むのです。
我慢してあげた一本は、感謝と言う見返りを期待してしまっている、
「偽善のバナナ」になるのです。
我慢した一本に何が込められているかといえば、それは同情心です。
しかし、その奥に「感謝して欲しい」「善い人と思われたい」
「善いことをしたという自己満足が欲しい」などが潜んでいる。
それは善い行いのように見えて、やはり「欲望」です。
一方、「たまたま余ったので、捨てる代わりにご自由にお役立てください」
という場合には、仏教でいうところの「喜捨」
喜んで捨てるという行為になります。
表面だけ善人のように整えても駄目で、等身大でなければ不純なものに変わる。
ですから、「愛」のために私たちができる第一歩は、逆説的ですが、
“まず自分をきちんと満たしてやること”なのです。
ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、
必ずいくらかは余るようにできている。
この余ったものを使ったときには、「愛」の行為になるのです。
・・・この本を読んだ直後、なかなかに感動して
このページの端っこを折ってました♪
すっかり忘れてたけど・・・思い出したよ♪ありがとさんです!!
・・しかし、腐ってもいいから・・・
手元に置いときたいって日々思う私は・・・まだまだいけませんなっ!(笑)!
思い出したお話を下記に・・・。
泉谷閑示著 『「普通がいい」という病』の中の
「五本のバナナ」というお話(先生がお作りになられたお話みたい・・)
「五本のバナナ」
バナナが大好きな旅行者が、ある貧しく暑い国を旅しています。
その国には、道端に物乞いがたくさんいます。
旅行者は、物乞いに施しをしようと考えます。
彼はちょうど大好物のバナナを五本持っていました。
普段の彼は、三本食べると満腹して満足します。
そこで彼は、自分で食べるのは二本で我慢することにし、
残りの三本を気の毒な物乞いにあげました。
しかしこの物乞いはバナナが大嫌いで、一言のお礼も言わず、
彼の目の前で、地べたにバナナを捨てたのでした。
・・・で、ここで本編に戻るのです。先生の切り口はこうだ・・(↓)
・・・さて、バナナをあげた旅行者は、いったいどんな気持ちになったでしょうか。
自分は我慢して施したのに、感謝もなく恩知らずな物乞いに腹が立ち、
怒り心頭でしょう。
しかし、もし自分が三本のバナナを食べて、残りの二本は
どうせ腐ってしまうのだからと 物乞いに差し出していたらどうでしょうか。
そもそも自分でも食べきれずに捨てたはずなのですから、
それほど腹も立たないでしょう。
この一本の違いが、「愛」と「欲望」の違いを生むのです。
我慢してあげた一本は、感謝と言う見返りを期待してしまっている、
「偽善のバナナ」になるのです。
我慢した一本に何が込められているかといえば、それは同情心です。
しかし、その奥に「感謝して欲しい」「善い人と思われたい」
「善いことをしたという自己満足が欲しい」などが潜んでいる。
それは善い行いのように見えて、やはり「欲望」です。
一方、「たまたま余ったので、捨てる代わりにご自由にお役立てください」
という場合には、仏教でいうところの「喜捨」
喜んで捨てるという行為になります。
表面だけ善人のように整えても駄目で、等身大でなければ不純なものに変わる。
ですから、「愛」のために私たちができる第一歩は、逆説的ですが、
“まず自分をきちんと満たしてやること”なのです。
ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、
必ずいくらかは余るようにできている。
この余ったものを使ったときには、「愛」の行為になるのです。
・・・この本を読んだ直後、なかなかに感動して
このページの端っこを折ってました♪
すっかり忘れてたけど・・・思い出したよ♪ありがとさんです!!
・・しかし、腐ってもいいから・・・
手元に置いときたいって日々思う私は・・・まだまだいけませんなっ!(笑)!
>ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るようにできている。
>この余ったものを使ったときには、「愛」の行為になるのです。
まさにまさに。
幸せな人は足るを知る人です。いくらあっても満たされない人は愛のお裾分けなんかできません。徳を積むことがないから愛の溢れる暮らしはできない、当然のことです。
貰えるものに文句言うなんて信じられない!とか思ってしまいがちですが、先だっての大震災でもそうでしたね。何でも、あげれば喜んでもらえるというわけじゃない・・貰っても大迷惑ということもあるんですよね。
出家者は、モノを持たない暮らしを心掛けます。持ってるものは全部人様からのお布施があって生かして頂けているからです。モノを持つと執着しますしね。
でもやっぱり、暮らせないとダメなわけですよ。どこまでいっても、生活が成り立っていなければ仏様の教えをひろめることもできない。自分にとって最低限、なくちゃいけないものはなくちゃダメなのです。
二つあったら無い者にひとつ分け与えよ、って感じですかね。あっこれはキリストさんの教えだったなww
だんだん趣旨外れのコメントになってきましたw ご容赦くださいw
まあ、バナナはこの先生のたとえ話ですね・・・。
>二つあったら無い者にひとつ分け与えよ、って感じですかね。あっこれはキリストさんの教えだったなww
そうそう!!宗教によっていろいろ違うんでしょうが、根本は同じかもしれません。
私なんか全然詳しくないんですが
マザーテレサさんなんて、まさに心にバナナがいっぱい・・の方だったんじゃないでしょうか?
心になにかがいっぱいあると・・・満たされてる人って・・・
凄い事が出来ちゃったりするんでしょうね!
満たすまでが難しい!(笑)
バナナが・・・・
あったりなかったりその日によって違うじゃないですか・・・私たちって・・(笑)
だから・・・ね~♪
素敵な音楽を聞いたりなんかしちゃうと・・・
時々バナナで満たされて・・・
時々優しくできたりなんかするという・・♪
そしてここから・・・『ひとりごと』ワールドなんですよ・・・♪うふふ♪
↑・・・ここへ話がループしてくるでしょ!!
だから・・・好きなのよ~~!彼の歌!!
思考のらせん階段の一番上のドアの向こうに
必ずいる感じが・・・大好きなんです!!
私も・・・だんだん主旨外れだ!(笑)
(言ってる例えがよくわからない!!だったらすいません!!)