泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

縦糸と横糸

2022-07-25 22:50:13 | フォトエッセイ
 写真とは関係ないかもしれませんが、最近思っていることを少し。
 新しい小説の着想を得てから、もうすぐ1年。この間、ひたすら「想造」をしていました。
「想造」は、小説家の松岡圭祐さんの造語。「小説家になって億を稼ごう」(新潮新書)に出てきます。
 12人の登場人物をネットからお顔をお借りし、プリントアウトして名前とプロフィールを記入して壁に貼る。
 3つの舞台もネットから拝借し、壁に貼る。
 あとはひたすら「想造」。要するに頭で物語を作り出すこと。
 人物から何が聞こえてくるか。人物に何を投影しているか。
 この人はどこからきて何をしているのか。誰が主人公で、視点は誰か。
 いつ物語は始まり、いつ終わるのか。どのように?
 重要な場面は繰り返し浮かんでくる。そして細部まで見えてくる。
 逆に、ただの思いつきは、時間と共に自ずと消えていく。
 12人のうち、1人だけが最後までうまく動かなかったのですが、突如として重要人物となった瞬間がありました。
 そこから一気に「想造」は進み、物語の道筋は定まった。
 ここでやっと文章を使う。
 5W1Hで、40字3行で物語をまとめる。5Wとは、Who/When/Where/what/whyで、1Hは、How。誰が、いつ、どこで、何を、どうして、どのように。
 そうしてできた40字3行を、40字10行と20行と10行に分解。最初の2行目が20行になる。物語の中盤なので厚く。
 他にも注意点はありますが、ざっとこんな工程を今、辿っています。
 で、まだ途中ですが、3行が40行となったら、その文章の合間に描きたいものをどんどん書き足していく。不足なく書き込んで、やっと下書きの完成となります。
 この一年、よく待ったなという気持ちと、いよいよ本番だというわくわくと。そして思うのは、小説は縦糸と横糸でできているという学び。
 今まで、ペンさばき(?)や華麗な文章力(?)を見せたいばかりに、小説の構成がおろそかになっていた。小説には構成もあると気づいたのも前作の仕上げと提出があったからこそなのですが。
 で、縦糸。縦糸は、建築で言ったら建物を支える柱たち。大黒柱でもあり鉄骨でもある。小説で言ったら、あらすじ。ビジョン。
 縦糸には視点も関係している。視点が定まらなかったのがこれまででもありました。小説を書いてみればわかると思いますが、意外と視点を固定するのは難しいです。視点が定まれば、あるいは語り手が決まれば、自ずと始点と終点も定まってくる。なぜ、語り出し、どういう道筋を辿って終わるのか。
 マラソンで培った経験も生きてくる。コースをあらかじめ頭に入れ、イメージトレーニングをすると、本番では冷静に走れ、結果最高の成績を収めることもできる。それを体験できたのが前回の仙台でした。
 小説は描写だけじゃなかった。当たり前のことなんだろうけど、やってみなければ私にはわからなかった。描写は横糸。
 納得できる安定した筋や語り手といった縦糸があって、初めて人物描写やセリフといった横糸が立つ。
 思えば、昨年の暑くなった頃から、ランニングとセットで腕立て伏せ、腹筋、背筋、垂直跳び、懸垂を始め、今でもやっていますが、これもまた縦方向のトレーニングでした。横方向の移動は、マラソンやカウンセリングなどで鍛えられていました。が、縦方向は盲点だったというか。
 というか、ジャンプしたかった。実際、垂直跳びはジャンプでしかないのですが。
 しがないカエルが、風に触れる柳の葉に飛びつこうとするみたいに。
 つかみたいものが確かにある。そこにどうしても行きたい。掴み取りたい。
 私の、切実な気持ちの身体表現でもあったのかもしれません。
 縦方向というのは、日常生活であまり意識しないことかもしれません。
 が、だからこそ、意識して可動域が広がると、より生きやすくなるのかもしれません。
 圧力にも負けず、何かと横のつながりが重要視される社会で、うまく頭を引っ込めて避けることもできるから。逆に飛んで避けることも。次の島に渡ることも。

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