泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

フェルメール展

2008-10-03 21:20:20 | 
 平日のはずなのに、とても混んでいました。日本は、確実に高齢化が進んでいる、というのも実感してしまいました。
 あまりに人が多いと気になって、また遠慮してしまって、一つの作品に没入できなくなるのが常ですが、フェルメールだけは違っていました。他の「デルフト」(オランダの地名。フェルメールもここで生まれた)の作家たちもよかったのですが、侵入のされ具合が飛び抜けていた。なぜなのでしょう?
 陰陽、それはレンブラントに学んだようですが、二つの極が、一人に含まれていることがよく見えた。特に手紙を書く女性。一つのことに集中するほど、明暗ははっきりしてくるのかもしれない。
 衣の襞。まるで心とはこういうものだ、と浮き上がらせているようでした。うねり、曲がり、盛り上がり、凹み、柔らかな質感、人を覆う膜。観ているだけなのに感触まで伝わってくる。
 酒を楽しむ男と女。おしゃべりまで聞こえてくるようでした。
 想像を刺激される構図。温かなふっくらとした手。「小路」を描いているのに人間が見えてくるという不思議。
 床に落とされた半端な手紙。彼女は何を書きたかったのか、読みたかったのか。一枚の絵の前に物語はあり、後にもつながっていく。絵を起点にして、僕らの物語が紡がれる。自身の今が照らし出される。
 彼は抜群の技術を、何のために使ったのでしょうか?
 描かれているのは、庶民であり、いつもの所に共存している人々です。
 描かれている人たちは、幸せなのではないでしょうか。300年をはるかに越え、絵の中の人々は、再び僕らの中に住み始める。
 フェルメールは、一作にとても時間をかけたようです。正確で、丁寧で、繊細で、優しい。どれも傑作です。そんな作品に触れるたびに、僕は自分が支えられているのを感じる。受け止められ、理解され、だからこそ描くことができている。そこには何も「特別」なことはない。ささいな日常、ささいな会話、それらが宝となって、人々に守られてきた。
 「対象」が残っているのではなく、その技術(文体)が受け継がれようとしている。作品によって生まれる気持ちが、何度も何度も湧き上がってきた。
 決して僕らの人生より先には行っていない。作品は、今あるもの、生きている人々、またフェルメール自身の人生への応答でした。そしてこの現実は、意外と美しかったりする。価値あるものだ、ということを伝えている。
 彼は、精一杯応えてくれている。絵として。その前に立ったとき、僕は励まされ、元気にならないわけにはいかない。
 カウンセラーの応答と同質のものが、一枚の絵にあることを知りました。
 言ってみれば、世界の再構築がそこにはあった。
 温かく、美しく、正確で、居心地がよくて。
 すべては生きるために。
 フェルメールの人気がわかりました。
 学ぶべきは、時代や人生に、全力で応答すること、それが作品であるということ。
 世界を、人を受け止め、理解し、構築し、見えるものにすること。
 彼は、絵を通じて、それができた。だからこそ、多くの人々に欲せられる。
 さあ、実践しましょう。力をもらいました。

上野・東京都美術館にて/12月14日まで

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