古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

仁賢紀、難波小野が自死した記事にある「不敬」について

2020年04月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 仁賢紀に、先帝、顕宗天皇の皇后であった難波小野の自死した記述がある。

 二年の秋九月に、難波小野皇后(なにはのをののきさき)、宿(もと)より不敬(ゐやな)かりしを恐りて、自ら死(みう)せましぬ。弘計天皇(をけのすめらみこと)の時に、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)、宴(とよのあかり)に侍りて、瓜を取りて喫(く)はむとしたまふに、刀子(かたな)無し。弘計天皇、親ら刀子を執り、其の夫人(みめ)小野に命(おほ)せ伝へ進(たてまつ)らしめたまふ。夫人、前(みまへ)に就(ゆ)きて、立ちながら刀子を瓜盤(うりざら)に置く。是の日に、更に酒を酌むに、立ちながら皇太子を喚ぶ。斯の不敬かりしに縁りて、誅(つみ)せらるることを恐りて、自ら死せましぬ。(仁賢紀二年九月)

 この記事は、日本書紀において、「不敬」罪について取り扱われた唯一の例である。実際に問われたのではなく、自分で「不敬」ではないかと思って自死してしまっている。大系本日本書紀に、「億計・弘計両天皇は相譲の説話にも拘わらず、事実は政治的に対立したことの反映か。」((3)137頁)と注している。仮にそのように政治的対立があったとしても、難波小野皇后の振る舞いについて、紀が詳細を記した理由の説明にはなっていない。内容に立ち入らなくては疑問の解消につながらない。いずれにせよ、今日までのところ、その意義について熟考されていない。
 「不敬」について、訓み方としてはヰヤナシと定まっている。そのとおりであろう。ただし、ヰヤナシには「無(无)礼(禮)」字が多く用いられている。特に「不敬」と記した筆録者の工夫は、注意されて然るべきであろう(注1)

 悉(ことごとく)に父子(かぞこ)の無敬(ゐやな)き状(かたち)を覚りたまひて、赫然(おもほて)りて大きに怒(いか)りたまふ。(武烈前紀)(注2)
 天皇、是(ここ)に、蒲見別王の、先王(さきのきみ)に礼(ゐや)无(な)きことを悪みやまひて、乃ち兵卒(いくさ)を遣して誅(ころ)す。(仲哀紀元年閏十一月)
 時に皇后、意(こころ)の裏(うち)に、馬に乗れる者(ひと)の辞(ことば)の礼旡きことを結(おもひむす)びたまひて、即ち謂(かた)りて曰はく、「首(おびと)や、余(あれ)、忘れじ」とのたまふ。(允恭紀二年二月)
 四に曰はく、群卿(まへつきみたち)百寮(つかさつかさ)、礼(ゐやび)を以て本(もと)とせよ。其れ民(おほみたから)を治むるが本、要(かなら)ず礼に在り。上(かみ)礼なきときは、下(しも)斉(ととのほ)らず。下礼無きときは、必ず罪有り。是を以て、群臣礼有るときは、位の次(ついで)乱れず。百姓礼有るときは、国家(あめのした)自づからに治(をさま)る。(推古紀十二年四月、憲法十七条)

 不敬罪なるものが、古代ヤマト朝廷でどのように考えられていたのかは不詳である。手掛かりとしては、律令の規定とこの記事ばかりである。名例律の「八虐」に、「大不敬」があり、「六曰、大不敬。謂、毀大社、及盗大祀神御之物、乗輿服御物。盗及偽造神璽、内印。合和御薬、誤不如本方。及封題誤。若造御膳、誤犯食禁。御幸舟船、誤不牢固。指斥乗輿、情理切害。及対捍詔使、而無人臣之礼。」と定めている。思想大系本律令に、「敬は本来身をつつしむ意であり、尊属や長上などの親族に対する不敬もありうるわけであるから、特に君主に対するそれを公的な不敬という意味で大不敬と呼んだのであろう。」(490頁)と注している。すなわち、仁賢紀で示されている「不敬」は、「尊属や長上などの親族に対する不敬」のことを指しながら、それが特に新天皇に対することになって公的化したから、「恐誅自死」するに及んだということを物語化したのであろう。難波小野皇后は、弘計天皇の皇后である。弘計天皇はその後を継いだ億計天皇の弟に当たる。難波小野皇后(弘計天皇の夫人小野)の義兄が億計天皇(皇太子億計)で近親関係にあるから、「無礼」ではなく「不敬」と扱われていると考えられる。
 では、どういった態度、行動が「不敬」に当たるのか。新編全集本日本書紀に、「貴人に対し、立ったままで、物を手渡ししたり話したりするのは不敬とされる。」(②259頁頭注)と解されている。そういう行為を承けて、「縁斯不敬」と述べているから、「斯」は「立」という姿勢を取っていたことがいけないのであろうと推測されている。
 しかし、少しわからないところがある。同じ「立」でもしていることが違うからである。

①夫人、就前、立置刀子於瓜盤
②[夫人、]立喚皇太子

 ①では、夫人は、刀子を億計皇太子のところへ持って行って、そこで立ったまま盤に置いている。②で、夫人が喚ぶときは、その場で立っただけで声を上げている。億計皇太子の近くまで行って立ったままで呼んだわけではない。この両者が、二つながら同様に「不敬」であると捉える際、「立」という姿勢ばかりに求められている理由が解明されなければならない。早く書陵部本に、「立」にはタチナガラという傍訓が施されている。
小三合水角鞘御刀子(正倉院宝物、宮内庁正倉院HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010030&index=6)
 最初の「不敬」行為は、刀子にまつわるものである。ここに大いなるヒントは隠されている。刀子はナイフである。刃がついている。刃のことはナといい、片側についているものがカタナである。もっと大きなもので、あるいは両刃のものはツルギ(剣)、タチ(大刀)などと呼ばれる。人や物を斬って断つからタチという。タチにもナにもあるカラとは柄である。エともいう。二十巻本和名抄に、「器皿部第二十三 四声字苑に云はく、皿は武永反、器の惣名也、柄の音は篳病反、器物の茎柯也、和名は衣(え)、一に賀良(から)と云ふといふ。」、名義抄に、「柄 碑敬反、エ、一云、カラ、ツカ、カビ、トル、本柄、権柄、尿柄、柱柄、戈甚反」とある。エはヤ行のエ(ye)である。すなわち、「立ちながら」とは、柄=ye のことを謂わんとしている。同音のエ(ye)には、兄(姉)の意味がある。同母の子のうち年少者からみた同性の年長者のこと、すなわち弟からみた兄、妹からみた姉のこと、ないし、年上の人に対する呼び方である。難波小野皇后からみて億計天皇は義兄にして異性であるから、最初の用法には当たらない。難波小野皇后と億計天皇との年齢関係は不明であるが、弟の弘計天皇の妻なのだから年上の人に対する呼び方と考えて妥当であろう。すなわち、「[夫人、]立喚皇太子。」際に呼びかけた声は、「え(ye)」=兄であったとわかるのである。

 かつがつも 弥(いや)前(さき)立(だ)てる 姉(え)をし娶(ま)かむ(神武記、記16)

 連れ立って歩いている七人の乙女の先頭を行く年長者を、とりあえず妻にしようと天皇が歌っている。ぞんざいな言い方である。言外に、全部自分の妻にするつもりだが、最初に一番上の子を求めようと言っている。自分のもの的な高慢な要求だから、近親関係にないのにエと指称している。
 仁賢紀の難波小野皇后が義理の兄に向ってエと呼び掛けることも、失敬(注3)なことと感じられる。同母の兄弟姉妹の間柄であれば、親しみの感情をこめてエと呼ぶことは許されるであろう。しかし、義理の兄に対してエと呼ぶのは、親しき仲に礼儀ありの原則を逸脱しているどころか、節度を越えた近親関係への介入と見られても仕方あるまい。夫である億計天皇が存命中なら億計と弘計とは天皇の位を互譲するほど仲良しだから許されたかもしれないが、もはや依って立つ後ろ盾はいない。そこで、難波小野皇后はそのときは皇太后であるが、不敬であったと思い、誅(つみ)を咎められることを嫌がって自死してしまったということであろう。
 何もそこまでせずとも良いではないかと思われよう。しかし、そこには、無文字時代の上代の人々のなかで、言葉に拘束される風潮があった。彼ら、彼女らは、言葉に生きていた。言葉と事柄とは相即であるとする言霊信仰の下で暮らしていた。ヤマトコトバに忠実に生きていたのである。いま、エの話なのである。瓜の盤に刀子を、おそらくは相手に取りやすいように柄を逆さにしてではなく、自分の方に柄があるままに置いてしまっている。和名抄に、「盤 唐韻に云はく、盤〈薄官反、佐良(さら)〉は器の名也といふ。」とある。どうして瓜の盤の話になっているのか。瓜はナイフを使って半分に切り、熟れた中身を匙で掻いて食べる。食べ終わればそれは器皿の盤になる。形のゆがんだ瓢箪形のものなら、食膳具として柄のついた匙にも使われる。伸びているところを手でつかんで使う。その部分が柄である。すべてはエにまつわる話なのだと読める。
左:黒作大刀第13号のツカ(把は椋製、麻糸巻、黒漆塗、正倉院宝物、宮内庁正倉院HPhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010839&index=8)
、右:最大の円墳とされていたツカ(京浜にけ様「春のさきたま古墳群の丸墓山古墳」埼玉県行田市、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/さきたま古墳公園)
 大刀(タチ)や刀(ナ)の柄(カラ)、すなわち、エのことは、特にツカという。和名抄に、「𣠽 唐韻に云はく、𣠽〈音は覇、和名は太知乃豆加(たちのつか)〉は剣の柄也といふ。考工記に云はく、剣の茎(なかご)の人の握る所は鐔以上也といふ。今案ふるに即ち𣠽也とかむがふ。」とある。つかむところだからツカである。ツカと同音の言葉に、ツカ(塚)がある。新撰字鏡に、「壟 力勇力隴二反、上地□山高□也、塚也、豆加(つか)也」、和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営の二音〉は葬地也といふ。方言に云はく、墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並びに塚の名也といふ。」(注4)とある。築(つ)き盛り上げた墳墓のことである。ヤマトコトバに従えば、「立ちながら」=「大刀」+「刃」+「柄」=ツカ=「塚」なのだから、塚に葬られるべしという公式に当てはまってしまった。よって、ヤマトコトバに殉ずるという準じ方しかなかったようである。もちろん、それがいわゆる“史実”であったかについてはもはや検証の余地はない。
 以上、仁賢紀二年九月の、先の皇后、難波小野の自死逸話について検討した。ヤマトコトバの全盛時代なら、聞いたら誰もがすぐ理解できる話(咄・噺・譚)であったと結論づけられる。

(注)
(注1)白川1995.の「ゐやぶ〔礼(禮)・敬〕」の項に、「饗宴の儀礼を礼という。……敬はのち敬愛の意とな」(811頁)るとある。上代にどれほど意識されて用字が使い分けられていたかについては後考を俟ちたい。
(注2)紀に「無礼(无礼)」ではなく「不敬」とする例は、仁賢紀以外ではこの例に限られる。八虐に当たるという意味から、「無礼」とせずに「無敬」としたと考えられる。武烈前紀において、天皇になる前の太子の使いに逆らって平群真鳥大臣は官馬を出さず、その息子の鮪は、太子の結婚相手の影媛に手をつけていて、太子が影媛の袖をつかんでいたのを振り払わせている。大不敬には、「乗輿の服御の物を盗み、……及び詔使に対ひ捍むで、人臣の礼無きをいふ。」とある。
(注3)代表的な国語辞典である広辞苑に、失敬は、「①人に対して礼を失うこと。敬意を欠くこと。失礼。」、失礼は、「①礼儀を欠くこと。礼儀をわきまえないこと。不作法なこと。しつらい。」と説明されている。類義語でありながら、失敬には二者間の関係におけるもの、失礼には社会の全構成員の関係におけるものというニュアンスの違いが見て取れる。
(注4)和名抄にある「大言圡」(伊勢十巻本、前田本、高松宮本)は、「方言云」の誤りではないかとする狩谷棭斎説が有力で、ここでもそれに従った。

(引用文献)
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1977年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。

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