古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

敏達紀二年、送使である吉備海部直難波の「謾語」について

2020年04月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 敏達紀に高麗(高句麗)の使者との交渉で、送使の役を果たすべき吉備海部直難波が、復命して嘘、偽りを述べている。それを聞いた天皇は、すぐにそれがでたらめだと気づいて拘禁し、労役させている。本稿ではその「謾語」について検討しながら、一連の経緯について考察する。

 二年の夏五月の丙寅の朔にして戊辰に、高麗(こま)の使人(つかひ)、越海(こしのうみ)の岸(ほとり)に泊る。船破(わ)れて溺れ死ぬる者衆(おほ)し。朝庭(みかど)、頻(しきり)に路(みち)に迷(まど)ふことを猜(うたが)ひたまひて、饗(あへ)たまはずして放還(かへしつかは)す。仍りて吉備海部直難波(きびのあまのあたひなには)に勅して、高麗の使を送らしむ。
 秋七月の乙丑の朔に、越海の岸にして、難波と高麗の使等と相議(はか)りて、送使(おくるつかひ)難波の船の人大嶋首磐日(おほしまのおびといはひ)・狭丘首間狭(さをかのおびとませ)を以て、高麗の使の船に乗らしめ、高麗の二人を以て、送使の船に乗らしむ。如此(かく)互(たがひ)に乗らしめて、姧(かだみ)の志(こころ)に備ふ。倶時(もろとも)に発船(ふなだち)して、数里許(あまたさとばかり)に至る。送使難波、乃ち波浪(なみ)に恐畏(おそ)りて、高麗の二人を執(とら)へて、海に擲(な)げ入る。
 八月の甲午の朔にして丁未に、送使難波、還り来て復命(かへりこと)して曰さく、「海の裏(うち)に鯨魚(くぢら)大きなる有りて、船と檝櫂(かぢさを)とを遮(た)へ囓(く)ふ。難波等、魚(いを)の船呑まむことを恐りて、入海(まか)ること得ず」とまをす。天皇聞(きこしめ)して、其の謾語(いつはりこと)を識(し)る。官(つかさ)に駈使(つか)ひて、国に放還(ゆるしつかは)さず。
 三年の夏五月の庚申の朔にして甲子に、高麗の使人、越海の岸に泊れり。
 秋七月の己未の朔にして戊寅に、高麗使人、京(みやこ)に入りて奏(まを)して曰さく、「臣(やつこ)等、去年(いにしとし)送使に相逐(したが)ひて、国に罷り帰る。臣等、先に臣が蕃(くに)に至る。臣が蕃、即ち使人の礼(ゐや)に准(なぞら)へて、大嶋首磐日等を礼(ゐやま)ひ饗(あへ)たまふ。高麗国の王(きみ)、別(こと)に厚き礼を以て礼ふ。既にして、送使の船、今に至るまで到らず。故(かれ)、更(また)謹みて使人并(あはせ)て磐日等を遣(まだ)して、臣(やつかれ)が使の来らざる意(こころ)を請問(うけたまは)らしむ」とまをす。天皇聞して、即ち難波が罪を数(せ)めて曰はく、「朝庭を欺誑(あざむ)きまつれり、一つなり。隣の使を溺(おぼほ)らし殺せり、二つなり。茲(こ)の大きなる罪を以ては、放還すこと合(かな)はず」とのたまふ。以て其罪を断(さだ)む。(敏達紀二年五月~三年七月)

 天皇は、吉備海部直難波の復命を「謾語(いつはりこと)」であると認識し、国元へ帰すことなく監視下において労役させている。どうしてそれが偽りを述べていると考えたのか。それは、吉備海部直難波の言っていることに矛盾を見出したからである。海に大きな鯨魚がいて、船とその檝櫂を待ち受けていて食べてしまうことがあった。だから、船が呑まれないかと恐れて出航しなかった。そういう言い分である。その内容自体に怪しむところは実はない。鯨魚の大きなのがいてそういうことをすることがあることは、聞いたことはないが可能性として皆無であるとは言えない。しかし、それは「謾語」であると確かにわかる。なぜなら、吉備海部直難波は「送使(おくるつかひ)」だからである。
船を呑む鯨(ディズニーランド(アナハイム)、4トラベルhttps://4travel.jp/travelogue/11423506をトリミング)
 五年の春正月の己卯の朔にして甲辰に、大唐(もろこし)の客(まらうと)高表仁等、国に帰りぬ。送使(おくるつかひ)吉士雄摩呂・黒摩呂等、対馬に到りて還りぬ。(舒明紀五年正月)
 秋九月に、大唐の学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従ひて京(みやこ)に入(まゐ)る。(舒明紀十一年九月)
 又、覩貨羅の人、乾豆波斯達阿、本土(もとのくに)に帰らむと欲ひて、送使を求(ね)ぎ請(まを)して曰(まを)さく、「願はくは後に大国(やまと)に朝(つかへまつ)らむ。所以(このゆゑ)に、妻(め)を留めて表(しるし)とす」とまをす。乃ち数十人と、西海之路(にしのうみつぢ)に入りぬ。(斉明紀六年七月)

 「送使」は道案内人である。地理に不案内の人、特に海路に詳しくない人のために先導して連れて行ってあげる。岩礁の在り処など、その地域での航海に慣れていなければわかるものではない。舒明五年条では、唐の賓客は列島周辺の交通がわからないから、対馬まではヤマト朝廷の道案内人が連れて行ってあげている。舒明十一年条では、唐の僧は新羅の道案内人に連れて来てもらっている。斉明六年条では、トカラ列島の人は帰りたいのだがどう帰っていいのかわからないから、自分の妻を人質に置いておいて道案内人を請求している。舒明五年条でわかるとおり、送使は送って終わりではなく、自分たちが帰って来なければならない。大海を渡る場合、送使の船が先導し、賓客の船はその後に続いていく。任務が終わったら送使の船は帰ってくる。
 したがって、高麗の客人を送るべき送使の吉備海部直難波が説明していることは、作り話である、でたらめであると知れるのである。仮に大きな鯨魚が船を呑み込むという事実があったのであれば、先導するべき吉備海部直難波の乗った船が呑み込まれているはずであり、還って来て復命していること自体があり得ない。出航できなかったのは後をついていく高麗の人の乗った船でなければならないから、もし鯨魚が船を呑み込んだとしたら、高麗の人が奏上して来ることになる。高麗の人は送使の船とは関係なく本国に帰ったのかもしれないが、そうなると吉備海部直難波は送使の役割を果たしていないことになる。職務怠慢である。いずれにせよ、矛盾を抱えた弁論を展開していることになり、吉備海部直難波の言っていることは「謾語(いつはりこと)」であるとわかるのである。鯨の生態とは関係ないところで論理が破綻している。
 翌年、高麗の使者が来て言ったことから全貌が明らかになった。送使の吉備海部直難波の雇った船乗り、大嶋首磐日、狭丘首間狭とともに去年高麗に帰った。送使の礼に準じて彼らを接遇し、高麗の国王はそれ以上に厚遇したけれど、送使の隊長である吉備海部直難波の乗った船は来ず、高麗の2人も帰ってきていない。高麗としては礼をもって礼を返そうと、今、使を遣わせて大嶋首磐日、狭丘首間狭を送り届けるけれど、どうして送使の船は来なかったのか教えてほしいというのである。天皇としても都合が悪い。蕃国と捉えている高麗が礼を重んじているのに、大国であるべきヤマトが礼を失している。省みて天皇は、吉備海部直難波の罪状を断じている。「欺-誑朝廷、一也。溺-殺隣使、二也。以茲大罪、不放還。以断其罪。」である。とかげの尻尾切りで事態を終わらせている。
 当初、「朝庭、猜頻迷一レ路、不饗放還。」としていた。「頻迷路」とは、以前にもそのようなことがあったからである。3年前のことである。

 夏四月の甲申の朔にして乙酉に、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に幸す。越人(こしのひと)江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)、京(みやこ)に詣(まう)でて奏(まを)して曰(まを)さく、「高麗の使人(つかひ)、風浪(かぜなみ)に辛苦(たしな)みて、迷(まと)ひて浦津(とまり)を失へり。水に任(まま)に漂流(ただよ)ひて、忽(たちまち)に岸(ほとり)に到り着く。郡司(こほりのみやつこ)隠匿(かく)せり。故、臣(やつかれ)顕し奏す」とまをす。詔して曰はく、「朕(われ)、帝業(あまつひつぎ)を承(う)けて若干年(そこばく)なり。高麗、路(みち)に迷ひて、始めて越の岸に到れり。漂ひ溺(おぼほ)るるに苦(くるし)ぶと雖も、尚性命(いのち)を全(また)くす。豈徽猷(よきのり)広く被(かがふ)らしめて、至徳(いたれるいきほひ)巍々(ひさかりにおほき)に、仁化(うつくしびのみち)傍(あまね)く通はせて、洪恩(おほきなるめぐみ)蕩々(ひろくとほき)に非ざるものならむや。有司(つかさ)、山背国の相楽郡(さがらかのこほり)にして、館(むろつみ)を起てて浄み治(はら)ひて、厚く相資(たす)け養へ」とのたまふ。(欽明紀三十一年四月)

 「高麗使人、辛-苦風浪、迷失浦津。任水漂流、忽到-着岸。」という事実が報告されている。沖合から確認して入港すればよいところ、嵐に見舞われて漂流して岸に座礁した。「津」は船の泊まるためのところ、整備された船着場である。「浦津」は、海の水際が陸地に入り込んだ「浦」にある安定した船着場を意味する。古代においては、ラグーンが船の壊れない船着場として利用されていた (注1)。それを古訓にトマリと訓んでいる。潮の満ち干を見極めて、ラグーンのなかへ進めばよいものを、海に剥き出しになっている「岸」に船を横着けさせてしまうのである。東尋坊のような断崖絶壁では上陸困難だから、さほどではないところに着岸したのであろう。それを古訓にホトリと訓んでいる (注2)。一度そういうことがあり、その「高麗使人」は敏達元年七月に帰っている。
「浦津」イメージ(石村智『よみがえる古代の港―古地形を復元する―』吉川弘文館、2017年、カバー、カーリルhttps://calil.jp/book/4642058559をトリミング)
 一度難に遭っていて、安全に帰っているのだから場所も航路もわかっているであろう。そうたびたび着岸するというのは不思議に感じ、何か意図があるのではないかと「猜頻迷一レ路」したのである。そして、饗宴せずに帰還するように命じている。航海術を持たない別の乗組員によって渡航されているとなると、本当に高麗国の使節なのか確認できず、亡命難民なのかも知れず、検疫上も安易に受け入れるわけにはいかないからである。ここで「路」とあるのは海路のことであり、朝鮮半島とヤマトとの「路」は、筑紫~対馬ルートであると措定されていたのではないか。安全保障上も、朝鮮半島や中国との外交使節は、筑紫に来ることを求めていたと考えられる (注3)。それ以外の一般民であっても、半島から程近い筑紫へ来航すると想定されていたと考えられる。実際、高麗からの渡来人も、筑紫経由で定住していたことが記されている (注4)

 二十六年の夏五月に、高麗人(こまのひと)頭霧唎耶陛(づむりやへ)等、筑紫に投化(まうき)て、山背国に置(はべ)り。今の畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖(とほつおや)なり。(欽明紀二十六年五月)

 正規ルートだから問題はないということであろう。それに対して、欽明三十一年や敏達二年、三年のように、越国へ来るというのはそれまでになかったルートだから、1度目は漂着ということで理解したが、2度目は筑紫へ来いとの言いつけを守らずに越国へ再訪したことをいぶかしがったのである。朝鮮半島の東岸の北部から出航すると、対馬海流の影響もあって越国へ流れ着くことは致し方がないことは、昨今の木造船漂着の事情からみてもわかることである。しかも、半島情勢として南部の新羅と北部の高句麗とは対立していた。沿岸沿いに地乗り航法では進めないから、日本海を一気に渡ってくる作戦しかないのであったろう。後に渤海からの船が同じく北陸地方へ来ている。
 以上、欽明二十六年(565)、三十一年(570)、敏達二年(573)、三年(574)の高麗から渡航してきた人たちの記事について検討した。

(注1)拙稿「熟田津の歌」参照。
(注2)「迷失浦津。任水漂流、忽到着岸」の事実を、郡司が隠匿していた理由としては、「浦津」の案内標識、例えば、常夜灯などが不足したことを咎められると思ったからであろうか。
(注3)2020年の新型コロナウイルス感染症の検疫体制強化のために、それがうまく機能していたかどうかは別にして、国際線の旅客機が到着する空港を成田と関空の2か所に限ったようなことである。外交、通商、警固、防疫のために、古代の筑紫、大宰府は機能していたと考えられる。
(注4)高句麗と倭との公的な交渉としては、日本書紀に継体十年(516)のこととして、百済使が高句麗使を同行して倭国との外交交渉を行ったとする記述、「戊寅に、百済、灼莫古将軍・日本(やまと)の斯那奴阿比多を遣(まだ)して、高麗の使安定等に副へて、来朝(まうき)て好(よしび)を結ぶ。」(継体紀十年九月)がある。歴史学には疑問視する向きもあるが、正当であるとする解釈もある。書いてあるという点では事実であり、「謾語」ではない。それこそどこへ来たかは書いてないが、書いてないのは書く必要がないこと、すなわち、当たり前のことだったからであり、朝鮮半島の南西部の百済から船に乗れば、筑紫に来航したに違いないと認められる。

この記事についてブログを書く
« 乙巳の変の三者問答について... | トップ | 仁賢紀、難波小野が自死した... »