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念仏の教えが極楽浄土への往生という死後のものであるのに対し、法華経は現世利益を中心とするのが特徴で、聖徳太子以来、偉大な仏教者、為政者、そして一般庶民にまで広く信仰されてきた。(2)

2024-06-25 10:04:40 | 森羅万象

 

【五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)第8】 成仏の可能性を示す「衣裏繋珠の喩」

・五百弟子受記品では、すべての人々が仏性をもっているという事実が示される。

 

・衣裏繋珠の喩は衣の裏にある宝に気づかなければ、それは何の役にも立たないとの説話。つまりでは、自分のもつ成仏の可能性に気づきなさいと説かれているのだ。

 

【授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)第9】 有学・無学の区別なく与えられる成仏の保証

・授学無学人記品でも、これまでと同じく釈尊による授記が続く。ここでは有学・無学にかかわらず、みな平等に仏になれるという教えが説かれる。

 

・さらに「羅睺羅(らごら)は未来世でも無量億の仏の長子として生まれて仏道を求め、蹈七宝華如来(とうしっぽうけにょらい)という名の仏になる。学・無学の二千人は、みな宝相如来(ほうそうにょらい)という名の仏になる」と語った――

 こうして、すべての仏教徒に授記が行なわれ、三乗方便・一乗真実の教えは、この授学無学人記念をもって完了することになる。

 

【法師品(ほっしほん)第10】法華経の信仰をもち続けることの難しさを説く

・法華経の二経六段の区分けでは、前品の授学無学人記品までが迹門(しゃくもん)の本論にあたる正宗分で、この法師品から実践を説く流通分(るづうぶん)になる。

 それにともない、説法の対象も仏弟子から菩薩に変わる。菩薩に法華経を広めることの功徳を示し、布教の決意を促すのだ。

 

・法華経を布教すれば功徳を得られる。だが、信仰し続けるのは生やさしいことではない。法師品は、そうした内容を教えている。

 

【見宝塔品(けんほうとうほん)第11】天空の宝塔での説法のはじまり

・これまでの釈尊の説法は霊鷲山を舞台に行なわれていたが、この見宝塔品からは天空の宝塔に移る。

 ただし、内容は前品と同じようなもので、釈尊の入滅後に法華経を受持することがいかに難しいかが説かれる。

 

・これ以降は、天空の宝塔を中心に説法が繰り広げられることになる。

 

【提婆達多品(だいばだったほん)第12】極悪人や女性の成仏の根拠を示す

・法華経は、殺人を犯した極悪人でも、古来成仏できないとされてきた女性でも、必ず仏になれると説く画期的な教えだ。その根拠が示されているのが提婆達多品である。

 ――ある国の王が「大乗の教えを示してくれる者があれば、生涯その下僕になろう」といったところ、ある仙人が法華経を説いた。すると国王は千年間、仙人の奴隷として仕え、成仏できた。その国王こそ過去世の釈尊であり、仙人は今生の提婆達多だった。

 

・じつは、この提婆達多とはもともと釈尊のいとこだったのだが、出家後に釈尊と対立し、狂象をけしかけたり、大岩を落として釈尊殺害を謀り、さらには教団を乗っ取ろうとした人物である。

 しかし釈尊によれば、そんな提婆達多でも過去世では自分の師で、未来世では天道の世界で天王如来という名の仏になるという。これは「悪人成仏」の教えの根拠である。

 

・一方、「女人成仏」の教えの根拠となっている説話は次のようなものだ。

 ――海中にある龍宮で法華経を説いていた文殊菩薩が、「龍王の娘・龍女が菩提心を起こして成仏した」と語った。しかし、舎利弗はこれに疑念をもち、「女身は穢れており、仏になることはできないといわれている」と反論した。すると龍女は突然男に変わり<変成男子(へんじょうなんし)>、成仏してすばらしい仏の教えを説いて見せた――法華経成立当時の通念を破る、悪人成仏と女人成仏の教え。

 これは、この経典の救済力の大きさを物語る証左となっている。

 

【勧持品(かんじほん)第13】菩薩たちが命をかけて法華経の布教を誓う

・勧持品では、法華経を広めるにあたっての菩薩たちの誓いが示される。

 

・ここで菩薩たちが述べた「法華経を広めるためには身命をも惜しみません」という言葉は、法華経の信者としての覚悟を示した有名な句だが、じつはこれが日蓮宗の基本的布教姿勢になっている。

 つまり、相手の悪を指摘し屈服させ、正信に導き入れる折伏(しゃくぶく)の理論的支柱になっているのだ。

 

【安楽行品(あんらくぎょうほん)第14】釈尊が法華経の布教方法を説き示す

・安楽行品は、勧持品と対をなす。

 ここでは前品で法華経の布教を誓った菩薩たちのために、布教活動における四つの指針が示される。

 

・その後、釈尊は法華経を容易に説かず、一切の煩悩を振り切った者にだけ説くことをたとえた「髻中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩」を説き、法華経前半の迹門が終わる。

 

【従地涌出品(じゅうぢゆじゅつぽん)第15】地下から涌きあがる無数の菩薩の正体とは

・従地涌出品からは、法華経の本門がはじまる。

 釈尊が「久遠の本仏」であることがいよいよ明かされていくのだが、この品はそのプロローグとなっている

 ――多くのほかの国土から、釈尊の住む娑婆世界(この世)に来ていた八恒河沙(はちごうがしゃ)(恒河沙は数の単位、ガンジス川の砂のほど多くの意)を超える数の菩薩たちは、「釈尊入滅後の世界で法華経を広めることを許してほしい」と申し出る。

釈尊が「この世界にも多くの菩薩たちがいるから」と申し出を断わると、地面が激しく震動して、地下の虚空にとどまっていた幾千万億もの菩薩たちが姿をあわらした。

 そして釈尊が「これらの地涌の菩薩は、わたしが娑婆世界で悟りを得てから教えを導いた者たちだ」というと、弥勒菩薩は「釈迦が菩提樹の下で成道されてから四十年ほどしか経っていないのに、どうしてこんなに多くの菩薩を育てられたのか」と説明を求めた――

この弥勒菩薩の疑問に対する答えは、次の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16で明らかにされる。

 

【如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第16】釈尊の永遠性を説き示す

  • 仏としての釈尊と人間としての釈尊

如来寿量品には、法華経の本門におけるもっとも重要な教えであり、法華経の中心思想でもある「久遠の本仏」が説かれている。まず従地涌出品での弥勒菩薩の質問に答える形で、仏の命が永遠であることが明らかにされる。

 

・わたしが入滅して仮に肉親が消滅したとしても、そのもとにある「久遠の本仏」が繰り返しこの世に姿をあらわし、さまざまな方便を使って人々を救うだろう――

 

  • 釈尊は永遠の命をもつ仏

・さらに釈尊は「良医治子の喩」をもって、仏の寿命が久遠であること、人々に難遭(なんそう)の思いや恭敬の心を抱かせるために入滅を示すことを述べる。

 

そして釈尊は「自我偈(じがげ)」、あるいは「久遠偈(くおんげ)」として知られる如来寿量品末尾の偈文(げもん)(詩)において、自らが久遠の本仏であることを人々に語り聞かせる

 

・この如来寿量品によって、われわれは久遠の本仏に行かされていることを知り、この現実世界こそが仏の浄土であることを知るのである

 

【分別功徳品(ぶんべつくどくほん)第17】法華経の行者が得られる功徳の分類

・法華経本門の本論にあたる正宗分はこの分別功徳品の前半で終わり、後半からは実践を説く流通分に入る。 

この品の要点は、修行によって得られる功徳についてである。

 ――釈尊の教えの偉大さ、寿命の長さを聞いた聴衆は、歓喜して悟ろうとする心を起こす。釈尊は「わずかでも悟りの心を起こせば、その功徳ははかり知れない」と述べた――

 

【随喜功徳品(ずいきくどくほん)第18】法華経の行者に訪れる多大なる功徳

・随喜功徳品では、分別功徳品で説かれた「滅後の五品」のなかの①法華経を聞いて喜びの心を起こす段階について、さらに詳しく説かれている。

 

・「また、僧坊に詣でて一瞬でも法華経を聞き、読経し、人にも勧め、教え説く人の受ける福徳には限りがない」と――

 このように、法華経を聞いて喜びの心を起こす人には大きな功徳がもたらされる。法華経による恩恵は絶大なのだ。

 

【法師功徳品(ほっしくどくほん)第19】五品の修行で得られる知覚器官への功徳

・随喜功徳品に引き続き、法師功徳品でも法華経の功徳が説かれている。

 

・つまり、法華経を説き広める人の知覚器官には、人知を超えた力が備わることになる。

 

【常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん】第20】常不軽菩薩が明かす法華経の行者の福徳

・常不軽菩薩品では、法華経の行者を誹謗する者の罪報と信受する者の福徳が、常不軽菩薩の故事によって明らかにされる。

 

・――像法(ぞうほう)の時代(正しい教えが消滅する時代)に、常不軽という菩薩の比丘があらわれ、自分の出会うすべての四衆(ししゅ)(比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷)に対して礼拝し、「深くあなたたちを敬います。あなたたちはみな菩薩道を行じ、仏になることができるからです」といった。四衆たちは「仏になれる」などと予言する者は身のほど知らずもはなはだしいと怒り罵って常不軽を迫害した。しかし、常不軽は礼拝行をやめなかった。やがて常不軽は臨終のときを迎えたが、虚空に法華経の偈を聞き、六根の清浄の功徳を得て成仏することができた。釈尊の過去世は、じつはこの常不軽菩薩だったという――

 この常不軽菩薩を、日蓮は法華経の修行者の模範としている。

 

【如来神力品(にょらいじんりきほん)第21】地涌の菩薩に与えられた布教の使命

・従地涌出品第15では、法華経を説き広めるために地涌の菩薩たちが呼び起こされ、その後の五章では布教に関する教えが説かれた。

 そして、この如来神力品では釈尊が地涌の菩薩たちに対して、釈尊入滅後の世界で法華経を広めるよう付属(命令)するのである。

 

・そして釈尊は地涌の菩薩たちにこう告げる。「仏の神通力は、このようにはかり知れず不可思議なものだ。無限の時間を費やしても、仏の教えを解き明かすことはできない。しかし、すべての教え、すべての神通力、すべての秘された真実の意味、すべてのたとえようもなく奥深いことは、法華経に説かれている。だから、わたしの入滅後に一心に法華経を受持して、法華経の教えるように修行すべきである

 

【嘱累品(ぞくるいほん)第22】すべての菩薩に託された宣教の使命

・嘱累品では如来神力品と同じく付属の儀式が扱われる。ただし、如来神力品では地涌の菩薩たちに付属がなされた(別付属)のに対して、この品では広くすべての菩薩に付属がなされる(総付属)。

 

・釈尊の言葉を聞いた菩薩たちは、みな大きな喜びに満たされ、「釈尊の戒めのとおりに行います。どうか、ご安心ください」と述べ合った――

 最後、釈尊が多宝塔を出て扉が閉められると、仏たちはいっせいに還っていく。これ以降、虚空にあった説法の座は地上に戻されることになる。

 

【薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23】薬王菩薩が示す法華経実践のあり方

・釈尊に法華経を説き広めるよう命じられ、みなが喜びにわくなか、薬王菩薩本事品では薬王菩薩の過去世の修行が明かされ、法華経を受持することの功徳が説かれる。

  ――遠い過去世、日月浄明徳如来(にちがつじょうみょうとくにょらい)が一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅうじょうきけんぼさつ)らに法華経を説いた。菩薩は現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい)という境地に達し、如来と法華経を身をもって供養するためにさまざまな香料を飲み、香油を身体に塗って自らを燃やした。その光明は80億恒河沙(ごうがしゃ)の世界を照らし、千二百年ものあいだ燃え続けた。

 

・一切衆生喜見菩薩は、こうして多数の人々に菩提心を起こさせ、現一切色身三昧の境地に至らしめた。じつは、この菩薩が娑婆世界にいる薬王菩薩だというのである。

 

【妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)第24】34身に変化する妙音菩薩の救済活動

・薬王菩薩に引き続き、この妙音菩薩品では妙音菩薩が登場する。妙音菩薩とは、34身に姿を変えて法華経を説く菩薩で、その変化によって人々を救済しようとしている。

  ――釈尊が肉髻(にっけい)や眉間の白毫から光を放って照らした東方はるか遠方に、浄光荘厳(じょうこうしょうごん)という世界がある。妙音菩薩はその世界にいた。

 

・その後、法華経を聞くために娑婆世界にやってきた。その様子を見ていた華徳菩薩(けとくぼさつ)は、「妙音菩薩はどうしてこのような高い徳を身につけたのでしょうか」と釈尊に尋ねた。釈尊はそれに答えていう。「過去世、現一切世間という国に雲雷音王(うんらいおんのう)という仏がおり、妙音菩薩はその仏のために1万2千年のあいだ十万種類の美しい音楽を奏で、8万4千の宝の器を奏上した。その因縁の果報によって、神通力を得たのである」と――

 こうして妙音菩薩の救済活動を描くことにより、法華経の布教の付属が促される。

 

【観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん】第25】 33身をあらわす観音菩薩の秘力

・観世音菩薩普門品は『観音経』という経名でも知られており、独立した経典として扱われることもある。とりわけ「世尊偈(せそんげ)」と呼ばれる後半の詩頌(しじゅ)の部分は有名で、いまも多くの宗派や観音霊場巡りの巡礼者などに読誦されている。

 そもそも観音菩薩は梵天・帝釈天・毘沙門天・自在天など相手の状況に応じて33もの姿に身を変えて、教えを説く菩薩だ。観音菩薩の救済は人々を悟りの世界に導き、成仏させようとするものであり、法華経の基本精神そのものといえる。

 

・救いを求める人々の多くは、未来世の利益よりも現世での利益を望む。しかし、そうした利益を得るには心の修行を積むことが必要である。「観音菩薩の名を呼び、唱えよ」と説く観世音菩薩品は、その心の修行の必要性を示しているのだ。

 

【陀羅尼品(だらにほん)第26】法華経の説法者を守護する祈りの呪文

・陀羅尼品は、法華経を広める人々を守護する陀羅尼について説いている。陀羅尼とは、サンスクリット語のダーラニーの音写で、真言、総持、呪文といった意味をもつ。法華経の説法者を守護するために、菩薩や神々、羅刹女などによって説かれる。

 

この品に登場する羅刹女は、もともとインド神話では鬼神や食人鬼である。だが、釈尊によって仏教に帰依に導かれ、安産と育児の守護神になったという経緯があり、ここでは法華経の守護神となっている。

 日蓮も法華経の守護女神として羅刹女を信仰しており、弟子や信徒に対しても進行を奨励している。

 

【妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)第27】法華経との出会いの難しさを説く

・法華経と出会うことは、よくあるようで、そうそうあることではない。それを実感させるのが、この妙荘厳王本事品である。

 

仏に出会うことは三千年に一度咲く花を見るより稀で、法華経を聞くことはそれより難しいということだ。この品では、法華経に出会うにはときに親子が引導し合うことも必要だと説いている。

 

【普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28】仏滅後、法華経をどう会得するか

・いよいよ最終品の普賢菩薩勧発品である。

――普賢菩薩が霊鷲山にやってきて、釈尊に尋ねた。「釈尊の入滅後、いかにして法華経に出会うことができますか」と。釈尊は「次の四つを実践すれば法華経を会得することができる。すなわち①諸々の尊い仏たちに加護されていると自覚すること、②善行功徳を積むこと、③正しい人々と交わること、④一切衆生を救う心を起こすことだ」と答えた。

 

・そして釈尊が法華経を説き終わると、菩薩や声聞・縁覚をはじめとする聴衆たちはみなおおいに歓喜し、釈尊に礼拝して去っていった。こうして法華経は幕を閉じるのである。

 

 

(2022/6/15)

 

 

『知識ゼロからの 南無阿弥陀仏 入門』

ひろさちや 幻冬舎  2013/10/9

 

 

 

◉「南無阿弥陀仏」は「極楽浄土に生まれたい」という願い

◉極楽浄土の主宰者は阿弥陀さま。観音さまはサポーター

◉どんな人にも生まれたときから、阿弥陀さまがついている

◉極楽浄土から覗くこの世は、喜怒哀楽いっぱいの遊園地

◉人ごみのなかで観音さまを見分けるには……

 

第1講 極楽浄土はこの世とはあべこべの世界

「南無阿弥陀仏」は「極楽浄土に生まれたい」という願い

・しかしながら、本来の念仏はお化けなどとは無関係。南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀さま、どうか極楽浄土に生まれさせてください」という願いの言葉なのです。この世での寿命が尽きた後、阿弥陀仏のいる極楽浄土に往き、生まれるための願い。死んだ人の霊をしずめる呪文でもなければ、現世での、なにがしかの利益や功徳を叶えるものでもありません。

「南無阿弥陀仏」にはさまざまな意味が含まれますが、ひとまず阿弥陀さまへの願いを言葉にした信仰告白のようなものだと考えてください。

 

功徳を求める修行は成立しない

・「~したい」という願望のもとに念仏をとなえるのだとしたら、それは仏道修行に功徳を求めていることになります。しかし仏教では、功徳と引き換えに仏道修行をおこなうことはありません。面壁九年で有名な達磨大師は修行について「無功徳」つまり功徳はないと言い放っています

 じつは、仏道修行をさせていただけることそのものが大きな功徳なのです。

 

極楽浄土は阿弥陀さまの住む場所。天国、天界とも違う

・「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀さま、どうか極楽浄土に生まれさせてください」という意味だと言いましたが、極楽浄土とはどんなところか知っていますか? 天国と混同してしまう人がいます。死者が行くところという概念が似ているため、間違えやすいのでしょう。でも、天国とはキリスト教やユダヤ教、イスラム教で説かれる世界で、極楽浄土とは別物です。

 仏教の世界観では、生きとし生けるものは6つの迷いの世界(六道)を生まれ変わり巡ります。六道とは、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。すべて有限の世界です。六道を輪廻転生することを六道輪廻といいます。生前にいいことをすれば天道か人道、悪いことを修羅道以下に生まれます。天界は人道より上の世界で、何億年と生きることができますが、そこでの寿命が尽きれば、また六道輪廻が待っています。

 一方、仏界は仏が住む悟りの世界。真理に目覚め、悟った瞬間、六道の迷いの輪廻から脱出。生まれ変わりから解放された世界です。極楽浄土は、仏界にある阿弥陀仏が主宰する国だと考えてください。

 

輪廻転生はインドの民族宗教の思想

・輪廻転生とはもともとバラモン教(古代インドのヒンドゥー教)の思想です。ヒンドゥー教とはインドの民族宗教。仏教はインドで生まれた宗教ですから、大前提としてこの考えがあり、お釈迦さまは輪廻転生を利用して、教えを説きました。生前のおこないによって、生まれ変わる世界が決まる因果から解放され、抜け出すのが悟りの世界であり、阿弥陀さまのいる極楽浄土なのです。

 

仏教の仏はそれぞれ独自の仏国土を持つ

・悟りを開いて、輪廻転生から抜け出した仏さまを「如来」「仏」「仏陀」と呼びます。悟りとは、この宇宙の真理に目覚めることです。その真理の根底には「衆生(生きとし生けるもの)を幸せにしたい」という願いがあります。そして如来には、その願いを叶えるだけの能力が備わっています。

 真理にたどり着いた如来は阿弥陀さま(阿弥陀如来)だけではありません。仏教の開祖であるお釈迦さま(釈迦如来)も、病苦をとりのぞく薬師さま(薬師如来)も如来です。それぞれの仏が、独自の世界を主宰しています。

 

・私たちに仏教を広めた釈迦如来は、霊山(りょうぜん)浄土という世界を開いています。薬師如来は、遠く東のほうで浄瑠璃世界を開き、阿弥陀如来は、薬師如来の反対に位置する、はるか遠く西のほうで極楽世界という浄土を主宰しています

 各如来は各浄土で仏教の教え、宇宙の真理を説きます。如来の性格によって浄土の性質は少しずつ異なりますが、説かれる真理、衆生の救済という点は同じです。

 

極楽浄土の主宰者は阿弥陀さま。観音さまはサポーター

・阿弥陀さまの救済方法は、あらゆる人を理想郷に招待し、幸せにすること。おいで、おいでと極楽浄土に招くことで救おうとします

 同じ如来でも、お釈迦さまは少し違います。私たちを悟りの世界へと後押しする如来です。

 また、薬師さまは病苦など世界的な問題に悩む人を救う如来です。このように、如来ごとに異なる性質を持っています。

 阿弥陀さまの住む極楽浄土には、観音さまという菩薩がいます。いわば阿弥陀さまのサポーターです。本当は悟りを開き、如来になるだけの力があるのに、わざわざ私たちの世界に降りてきて、手助けをしてくれる仏さまです。

 

・(観音さま(観音菩薩)):衆生に救いの手を差し伸べてくれる仏。阿弥陀さまのように完全な仏になれるのに、極楽浄土から娑婆世界へ飛んでこられるよう、一歩手前の段階でとどまっている。観音菩薩(観世音菩薩。観自在菩薩)とも。

 

極楽浄土は阿弥陀さまの誓願が形となってあらわれた世界

・極楽浄土は、阿弥陀さまが法蔵菩薩という修行時代にたてた誓願(四十八願)がすべて実現した世界。つまり「生きとし生けるものが幸せでいられる世界」ということです。

 

・(法蔵菩薩):阿弥陀さまの前身。修行僧時代の阿弥陀さまで、法蔵(ダルマーカラ)という名を持つ。出家をして比丘(出家者)となったため、法蔵比丘とも呼ばれる。

 

私も、あなたも、みんな菩薩

・菩薩とは、いつか真理を悟り、目覚めた人(仏陀・如来・仏)になろうとするべく仏道修行をおこなう者を呼びます。悟りを得ようと心を起こし、発心した求道者はすべて菩薩なのです。この本を開いたあなたもまた、菩薩だということ。仏教者はまず「自分自身も菩薩である」という自覚を持つことが大切です。

 

生きとし生けるものが全員幸せでいられる世界とは?

・この世の娑婆世界では、生きとし生けるものすべてが幸福でいることは難しい。誰かが幸福になれば、誰かが不幸になる。幸か不幸かは立場や関係性によって変わってくる。

 

・私たちが一喜一憂している「幸福・不幸」というものは、関係性や立場によって、つねに変わってしまう、相対的なものだということが見えてきます。

 

いまの人間が暮らす世界とはあべこべで異質な場所

・極楽浄土は全員幸福になれるのですから、比較や差別はありません。この世とはあべこべで異質な場所。苦しみは生まれないのです。

 

第1講 まとめ

極楽浄土は、阿弥陀さまが衆生の幸せを願ってつくった世界。この世の幸福とは、相対的なものです。誰かが幸福になれば、誰かが不幸になる。しかし、阿弥陀さまが願った幸福は絶対的な幸福。この世での比較や差別は通用しない。優劣、貧富などで幸不幸は決まりません。私は私のまま、あなたはあなたのままで全員が幸せでいられる不思議な世界なのです。

 阿弥陀経というお経のなかに「具会一処」という言葉が出てきます。倶(とも)に一つの処で会う。私たちは亡くなると、必ず極楽浄土で、親しかった人たちと再会できるという意味です。この世を去るとき、この世の価値観から解き放たれ、極楽浄土でみんなと幸せに暮らすことができるのです。

 

第2講 阿弥陀さまは不思議パワーの持ち主

阿弥陀さまは大乗仏教の仏。衆生を救済する力を備えている

・仏教には、小乗と大乗というふたつの分類があります。日本を含め、各地に広まった仏教は大乗仏教。阿弥陀さまは、大乗仏教の仏さまです。

 小乗仏教というのは、厳しい戒律を守り、さまざまな苦しい修行をつづけることで悟りを得る仏教です。自分の力で戒律を完璧に守り、修行の成績も100点満点に達するような聖者のことを、阿羅漢と呼んでいます。

 しかし、現実の娑婆世界にはそんなことができる人は、ほとんどいません。小乗仏教の修行は、一部の選ばれた人しかおこなえないのです

 大乗仏教は、日々の生活のために戒律を守れない人、修行に勤しむことができない人、弱いふつうの人(凡夫)を救ってくれる仏教です。

 阿弥陀さまなどの如来は、大乗仏教の仏の世界で最上位に位置する仏さまです。


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