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浦島太郎は日本の20数ヶ所の地域で、土地のさまざまな事物と結びついた伝説として、信じられる形で伝承されている。(1)

2019-10-07 16:15:30 | 森羅万象


『ジオパークと伝説』
花部英雄  三弥井書店 2018/7/5



<山陰海岸ジオパークの世界>
・山陰海岸ジオパークとは、日本海形成に伴ってできた多様な地形・地質と風土の中で展開されている人々の暮らしを楽しむ大地の公園です。

・「山陰海岸ジオパーク」は、日本海沿岸一帯に伝わる大陸文化伝来の地として、丹後の「浦島伝説」、但馬の「天日槍(あめのひぼこ)伝説」、因幡の「白兎伝説」など「神話」や「伝説」が多く残されている地域です。

・さて、ジオパークについて申し上げますと、世界ユネスコジオパークは2015年11月17日、第38回ユネスコ総会において正式なプログラムとなりました。2017年5月現在、世界35カ国、127地域に世界ユネスコジオパークがあり、そのうち8地域が日本にあり、山陰海岸ジオパークはその一つです。
 「ジオパーク」とは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「「大地の公園」を意味し、地球を学び、まるごと楽しむ場所のことをいいます。そこは、地域の地史や地質現象がよくわかる地質遺産を多く含むだけでなく、考古学的・生態学的もしくは文化的な価値もあるサイト(見どころ)を含む、明瞭に境界を定められた地域であることが定められています。

<ジオパークと伝説>
<ジオパークとは何か>
・世界的に重要な文化遺産や自然遺産を保護するための条約が、1972年にユネスコで採択された。日本では法隆寺地域の仏教建造物や広島平和記念碑などの文化遺産、屋久島や白神山地などの自然遺産が早く登録されている。それとは別に、2004年にユネスコは、科学的に貴重で景観にもすぐれている地質資源を含む公園を、世界ジオパークネットワークによる審査を経て「世界ジオパーク」として認定している。

<海・川と伝説>
<浦島伝説の記録を読む――丹後・但馬をめぐって――>
<昔話「浦島太郎」と伝説>
・助けた亀に連れられて竜宮へ行った浦島太郎が、開けてはならない玉手箱を開けて老人となるという昔話は誰もが知る話であろう。日本人の常識ともいえる昔話「浦島太郎」は、明治43年の国定教科書にもとづいていると言われる。

・昔、丹後の水の江に浦島太郎という漁夫がいて、ある日、亀児(かめのこ)がいじめられていたのを買い取って海に放してやった。翌日、亀児が現れ、浦島を竜宮城へ連れて行く。竜宮城でごちそうや宴会など楽しい時間を過ごす。しかし、父母のことを思い出し、乙姫に告げると玉手箱を差し出し、開けてはならないという。亀児と元の浜辺に戻り、家に入ると見知らぬ人がいて、浦島太郎の話は七百年前の話だという。茫然とした浦島は、浜辺で玉手箱を開けてしまうと、紫の煙が立ち上り、皺だらけの老爺になってしまう。

・巌谷小波の浦島太郎は、江戸初期に刊行された御伽草子「浦島太郎」をもとに作品化されたとするが、これが小波の手を経て、国定教科書に採用され、いわゆる標準的な「浦島太郎」ができあがるのである。
 しかし、浦島太郎は日本の20数ヶ所の地域で、土地のさまざまな事物と結びついた伝説として、信じられる形で伝承されている。山陰海岸ジオパーク域内の京都府京丹後市網野町の浦嶋もその一つである。

<史書、地誌等に見られる浦島太郎>
・浦島太郎の伝説のある網野町は、明治37年に隣村の浅茂川村と合併してできた町である。

・その網野(あみの)町の浦島伝承の中心は「網野神社」である。神社の祭神は、「日古坐王(ひこいますおう)、住吉大神、水江浦嶋子神」の三柱である。

・浦嶋子を祭神とする神社には、他にも海の近くの浅茂川地区の「嶋児神社」がある。

・浦嶋子の釣った大亀が乙女に化し、一緒に蓬莱山に行ったという簡単な内容である。古代日本の正史とされる『日本書紀』の浦嶋子の記事が、近代にいたるまで正統な浦島の物語の基本に位置づけられていく。
 続いて、事の詳細に触れたのが「丹後国風土記」逸文である。それには「日下部(くさかべ)の首(おびと)らが先祖、名を筒川の嶋子」とあり、浦島が日下部首氏の始祖になっている。嶋子が「五色の亀」を釣り上げると、たちまち「婦人」になり、そのあと蓬莱山に出かける部分は『日本書紀』と同じである。しかし、蓬莱山の仙宮で3年の間遊楽にふけるが、故郷の父母を想い出し、玉匣(たまくしげ・箱)をもらって筒川に戻ると、すでに3百年が過ぎており、玉匣を開いて老人になってしまう。
 次に近世初期の御伽草子「浦島太郎」によると、浦島には「太郎」という名前が付けられる。これは「子」という意味が時代とともに「子ども」を表すものとされ、「浦島の子」という意味で、男児の代表的な名である「太郎」と名づけられたのだとされる。

・ところで、ここまでの記録ではすべて、浦島の出生地を丹後半島の頭部の与謝の地としている。与謝郡伊根町には浦島を祭神とする「浦嶋神社」が鎮座しており、『日本書紀』以下はここを浦島の舞台としているのである。したがって半島西部の京都丹後市網野町の浦島は、古代の記録に登場しない。網野町の浦島について記された最も古い記録は、管見の限りでは鴨長明の『無名抄』(1210)である。

<丹後半島の東と西の浦島伝説>
・近世期の網野町の浦島伝説に言及されている早い資料に、『神社啓蒙』(1667年の序がある)がある。

<網野町の「嶋児神社」と「網野神社」>
・以上の地誌や随筆類の記録のほかにも、地元には独自の記録が残されている。網野神社の代々の神主をしてきた森家に、日下部氏や浦島と関わる系図が所蔵されている。三本あるうちの最古のものとされる1869年作成のものを、内見することができた。それによると、当社の縁起にある、嶋子が海神の都から持ち帰った七種の宝があるという。

<ポスト浦島の行方>
・浦島の話は古くから歴史や物語、伝説等の形で記録され、また、さまざまに愛好され変容を遂げてきた。

・殊に、江戸の中期以後の宗教や領地支配の政策等が、伝説の再構成に深くかかわっていたことを、資料から読み取ってきた。具体的には、来迎寺という仏教勢力が、浦島の神を包摂する形で取り込み、またそこには、地域の有力者の領地支配や権威志向の意図が組み込まれて再編成されているということになる。

・ところで、その浦島の里に、最近「七姫」が新たに登場してきた。これは、京丹後市で伝承されている話の女性七人「乙姫、小野小町、川上摩須郎女、細川ガラシャ、羽衣天女、間人(はしうど)皇后、静御前」を取り上げ、相互に取り結ぶ試みといえる。その仕掛けは京丹後市観光協会が主体となって、パンフレットを作成し、市をあげて取り組んでいる。これを歴史の改竄と杓子定規に解釈するのは大人げない。歴史に耐えられないものは、いずれ闇に葬られていくしかないと泰然と構えて、その行方を見ていく態度も必要であろう。

<浦島伝説と日本海――網野町の「浦嶋子」を中心に――>
・現在、網野町の浅茂川の海沿いには嶋子を祀る「嶋児神社」があり、海の向こうに嶋子が乙姫と会ったという福島が見える。

・嶋子の伝説は、ご承知のように古代の『万葉集』『日本書紀』『風土記』等に記録される有名な話である。『日本書紀』では、5世紀後半の雄略22年に「蓬莱山」に到るとあるが、戻ったことについては記されていない。

・嶋子伝説は恵みをもたらす海への信仰を基盤にした話であることが理解される。海の彼方に「常世」と呼ばれる理想郷があり、毎年季節を定めてそこから神が来臨するという信仰については、早く国文学者の折口信夫が提唱した。毎年、常世から時を定めて子孫の地を訪れる神々を「まれびと」と称し、その来訪が繰り返されてきたことを明らかにした。その来訪神と寄り物とはどこか共通する部分があるが、浦嶋子もそうした来訪する神々の系譜に位置づけることができないであろうか。

<水害と伝説――まぼろしの「灘千軒」をさぐる――>
<円山川の水害>
・兵庫県北部、朝来市の山中から湧き出す水は川となり、養父市、豊岡市を縦断し日本海に注ぐ、これが円山川である。但馬に暮らす人々は、円山川を水源や輸送路として利用した。この恩恵によって、但馬での生活が営まれていた。
 ところが円山川は、頻繁に水害を引き起こした。

・助け松も灘千軒も、単なる知識の域を出ないようである。このように、かつてこれらの伝説は、水害の多い土地の歴史的事実として捉えられていた。しかし現在では、あくまで物語として語られているようである。

<治水対策の歴史>
・伝説では、円山川は人や町を押し流す脅威としての存在である。それでは現在に至るまでに、円山川はどのように変化したのだろうか。
 江戸以前、円山川が毎年のように氾濫していたことは前述のとおりである。当時の人々は水害に対し、堤防を築くなどの手段を講じた。しかし簡素な堤防であったためか、何度も決壊している。本格的な工事が行われるのは明治以降のことである。

・現在でも排水ポンプ場の建設や遊水地の整備など、円山川の河川改修は進められている。

<現在でも続く水害>
・今なお但馬では水害が多い。近年では平成16年(2004)10月の台風23号で、豊岡では最高10,000軒に被害が出た。だからといって円山川の治水対策は決して無意味ではない。
 日本で台風を正確に観測するようになったのは昭和26年(1951)であるとされ、これ以降の但馬の水害記録でも、「暴風雨」を「台風〇号」として記録している。その被害の内訳を見ると“大雨による洪水”がほとんどである。

・毎年のように水害が起こっていた円山川流域であるが、現在では家が流出するような大洪水は起こらない。それは大正時代から続く治水工事のたまものである。今なお水害が多いとはいえ、伝説の中の大洪水はもはや現実味がなく、過去のものとなっているのである。

<産みだす自然、破壊する自然>
・灘の町の跡地とされる場所は、現在では周囲に道路しかない川べりの土手となっている。周辺を歩いても、過去の面影を伺い知れるものは何もない。栄華を誇った人間の暮らしも、自然の手にかかれば跡形もなく消え去ってしまうのである。

<異類・異人と伝説>
・わたしたちの暮らす世界とは別の世界、異界のものたちが登場する伝説がある。こうした話は現実離れしたものとして受け取られるかもしれない。しかし、それぞれの土地で伝説が根付く土壌がなくては、今に至るまで語り継がれることはなかったであろう。

<久美浜湾の「ウシオニ」――気象現象にみる怪異――>
・「うしおに」という妖怪がいる。漢字を当てれば「牛鬼」となり、牛や鬼の姿形を先行したイメージの妖怪が想像される。たとえば、古くインド仏教に由来する仏教の「牛頭馬頭(ごずめず)」は、頭が牛や馬の形をして身体は人の姿をした地獄の獄卒の一つとして、わが国には平安時代に仏教信仰とともに輸入された。
 その物語的な展開としては、12世紀始めの『法華経験記』に、但馬の山寺で修行僧が「牛頭鬼」に食われるという話が見える。一緒にいた法華経受持者の若い僧は必死の祈願によって、毘沙門天が牛頭鬼を三段に切り殺して助かったという。時代は下って南北朝時代の『太平記』巻三二には、頼光の弟子の渡辺綱が名刀の鬼切で化物の腕を斬り落とすという話が載る。化物は老女に化けて腕を取り返しに来るが、その時の姿は「長さ二丈ばかりなる牛鬼」であったという。いわゆる渡辺綱の鬼退治伝説であるが、敵対する相手は牛鬼である。この渡辺綱の腕斬りに近い民間の牛鬼の話が、島根県飯石郡吉田村に伝わっている。

・芦谷川の板橋谷大曲上の牛鬼滝には、一眼の牛鬼という怪物が住んでいた。むかし、道の上に鈩(ろ)があった頃、深夜、天秤吹きをする番子(鞴(ふいご)に風を送る人。三人一組で行なう)を天井から覗いて捕まることがたびたびあった。ある強力な一人の番子は、仇を討とうと大きな鈩を終日研ぎ澄まし、夜を待ちつつ天秤を踏んでいた。するといつものように怪物が手を出して番子を奪おうとすると、鈩を打ち込み首尾良く怪物の片手を斬り落とした。それから、怪物は毎夜、淵から「片手ゴセ片手ゴセ」と叫んだという。
              (『島根県飯石郡吉田村誌資料第一集』)
「片手ゴセ」は、片手を返せの意であろうか。

・大本敬久によると牛鬼伝承は西日本に多く、淵や海など水辺に出現して退治されるか、あるいは退散していくものに大きく分かれるという。

・ところで、民間伝承をもとに図像化されたと思われる牛鬼が、江戸後期の出版物に現れる。その先鞭といえる鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「牛鬼」は、水辺の叢生に毛むくじゃらの姿で登場する。佐脇嵩之の『百怪図巻』には、頭が鬼の形で体は牛、肢体の先には鎌の刃のような鋭い爪が光った不気味な姿で描かれる。これらは都市住民の恐怖感に訴える存在として、出版文化の世界でもてはやされたのであろう。

・なお、形ある牛鬼には、こうした文芸や絵図以外に、民間の祭礼に登場する牛鬼の山車もある。その代表とも言える愛媛県の宇和島の牛鬼は、「カブ」と呼ばれる鬼や牛のような頭に長い布の首がついている。夏から秋に四国では悪魔退散の願いを込めて、この山車を引く行事が各地で行なわれている。

<現象としての「ウシオニ」>
・牛鬼には今まで取り上げてきた形があるものに対し、姿や形を明確に示さないものもある。形のある「牛鬼」と区別するために、ここでは平仮名で「ウシオニ」と表記する。怪異には現象である「コト」と、妖怪である「モノ」との区別があると京極夏彦は説いているが、それに従えばウシオニは怪奇な現象をさす「コト」といえる。

・江戸の博識な文化人は自身の教養や知識体系にもとづいて事件や現象を分析し解釈を加えるが、「ウシオニ」という現象の十分な科学的根拠を持ち合わせず、怪奇現象といった理解を示す程度である。さらに、こうした紀行や随筆の記事をもとに、画家作家たちは独自の想像をめぐらしながら、通俗的な妖怪の商品化にいそしみ巷間を賑わしていく。京極夏彦のいう「コトのモノ化」といった大衆社会の通俗的な妖怪理解が普及していく図式といえるかもしれない。

<久美浜湾の「ウシオニ」>
・ところで、山陰海岸ジオパーク域内の京都府京丹後市の久美浜湾にも、ウシオニにまつわる伝承がある。

・そぼ降る雨や雪降る夜に、久美浜湾で操業していると、笠から色鮮やかな玉の雫が落ちてくるという。これは、前述した山陰や越後の事例で、笠や蓑からしたたり落ちる「蛍火」とも共通する。ところが違うのは、周囲は雨や雪に遮られて見えないため、操舵の方角を誤り、終夜ぐるぐる回るだけでどうしても岸に着けない。また、陸上においても方向を失ってしまうことがあるという点である。これは「うしほに」に取り憑かれたためであるという。怪異を物語風に伝える知識人の取り上げ方とは違い、漁労生活の実感のもとに述べられている。
 この郡誌から約10年後に刊行された『続熊野郡伝説史』(1935)では、前の引用部分に続いて「あるいは鼬(いたち)が舟に乗り込んで出て人を迷わすのだという伝説もある」と合理的な説明を加えている。筆者が現地で尋ねた聞書きでは、「ウシオニ」という名前は知らないが、「雪で目印となる山が見えなくなり、久美浜湾内でいつまでたっても岸につかず、ぐるぐるとしてしまう」ことがあり、まるで「きつねにつままれた」ようだと、湊宮に住む漁師の方が話してくれた。

・昭和49年に発行された『季刊民話』(民話と文学の会)創刊号にも、こんな話が載せられている。

黒鯛釣りの名人、格さんが、湾内の大明神岬から百メートルほど南へよった所に夜釣りをしていると、向い岸の方から「おーい格さん来いや、ボタ餅食わせるぞ、来いや」と呼ぶ者がある。ボタ餅の好きな格さんは、よろこんで舟を向こうの岸に着けたが誰も居ない。するとこんどは元の大明神岬の方から「格さん来いや」と叫ぶ者がある。そこでまた舟を声のする方向に着け陸にあがって、声の後を追って行くが、行っても行っても声は遠くなるばかり、仕方がないのであきらめて舟に帰って見ると、今まで釣った鯛は一尾もなく、餌の蛹まで一つも残っていない。がっかりして帰路につき舟をこぎ出したが、折りからの濃いもやのためか、海路に迷って、こいでもこいでもわが家の舟小屋に達しない。とうとう夜明けごろやっと舟小屋にたどりついたが、一晩中のつかれで、そこに倒れてしまった。村人たちは「そりゃ『うしおに』につけられただ」と言ったが、この久美浜湾に働く漁師たちの間には「うしおに」につけられた経験の人が多いといいます。

・名を呼ばれた格さんが、岸に上がり声の後を追うが、その間にも魚も取られてしまう。声を掛けるのが「うしおに」らしく、実態は見せないが人格的な存在として語られている点は、先述の郡誌と異なっている。しかし、その後の「濃いもや」の立ち込める悪天候の夜に、「海路に迷って」舟を漕ぎ続けても舟小屋に辿り着けず、「夜明けごろやっと舟小屋にたどりついた」という点は一致する。ウシオニに声を掛けられる前半部分が新たに追加されたと解釈することができる。
 こうした話がどのようにして形成されたのであろうか。漁師たちのこのような怪異を伝承する背景に何があるのかが、次の課題といえる。

<大蛇伝説と血の池――京丹後市の丹池(あかいけ)――>
<京丹後市「丹家」大蛇伝説>
・京都府京丹後市網野町俵野に、「丹池(あかいけ)」と呼ばれる池がある。

・鴻池の娘が丹後へと嫁入りの途中、大蛇となり丹池に棲み着いた。その大蛇は農作物を荒らすなど悪事を働くので、有田集落の三五郎によって退治された。流れた血が池を赤く染め、それ以来「あか池」と呼ばれるようになり、丹波の国名の由来にもなった、

<大蛇変身譚と大蛇退治譚>
・実は、娘が池に嫁入りする話は、昔話「蛇聟入」の「夜叉ヶ池」型と分類されるものである。そのタイプが、ここでは嫁入りしたことの証しとする「かつぎ棒」との繋がりを求め、伝説化した形で伝わっているのである。前半部が独立する形の丹池の話が、京丹後市の広い範囲で語られているという事実は、これが古くから伝承されていたことを示すもので、大蛇退治の伝説は後から付加されたものと考えることができる。

<海と山の白兎伝説――白兎海岸と八頭町福本の白兎神社――>
・『白兎伝説』と聞くと、どのような話を思い浮かべるだろうか。おそらく日本人が真っ先に思いつく話は、『古事記』の「因幡の白兎」ではないだろうか。白兎が登場し、ワニとのコミカルなかけひきが印象に残る話である。日本神話の中でも、小学生の国語教科書にも掲載されるなど、有名な話の一つといえる。

・海を渡ろうとしてワニを騙し毛を剥ぎ取られた白兎を、大国主命がアドバイスをして助けてあげたところ、白兎は大国主命は八上姫に夫に選ばれると予言する話である。この伝説の場所は、鳥取県鳥取市白兎の白兎海岸とされる。白兎が大国主命と八上姫が結ばれると予言したことから、白兎海岸の近くに鎮座する白兎神社が縁結びの地とされ、今は有名な観光スポットになっている。大国主命と白兎の石像や、大国主命と八上姫が手を取り合う砂像のモニュメントがある。

<山の白兎伝説>
・石破氏は、もともと高草郡には地域に伝承される白兎神が祀られていたが、国学者によって『古事記』にある因幡の白兎を祀る神社に編成替えされていったと推測しているが、同じような神社は他にもある。鳥取県八頭郡八頭町福本に鎮座する「白兎神社」がそれである。福本の白兎神社は因美線郡家駅を降り、徒歩で十分ほどの所にあり、周囲には田んぼが広がり、葉の茂る巨木に囲まれたところに鎮座している。背後には山の尾根が東西に続いているのどかな場所である。
 鳥取県白兎の白兎神社同様、創建年は分かっていない。



『あの星はなにに見える?』   地球のカタチ
出雲晶子 白水社  2008/5



<『星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。』>
・平安時代の清少納言の随筆『枕草子』の星の段の冒頭にでてくるのですが、プレアデス星団、すばる(昴)です。昴も中国か伝わった星座で、黄道二八宿(中国版の黄道星座のようなもの)の一つです。

・では日本の昴のお話はというと、日本は星の神話が少ないことで有名で、ほんのちょっぴりしかありません。昴は、八世紀ごろ書かれた丹後国風土記という書物の中の、水江浦島子の物語にちょっぴり登場します。水江浦島子とは、浦島太郎のことです。風土記の話は、童話に書き直された浦島太郎とは少し違うストーリーです。
 
・若いイケメン漁師の水江浦島子(みずのえうらしまのこ)(以下、島子)は、ある日五色の亀を釣り上げます。驚いて捕えずにおいておくと、亀は美しい女性「亀姫」になり、「私といっしょになって」と言われ、島子は受け入れてしまいます。亀姫が手をかざすと、あっという間に島子は、海中の白砂の楽園「蓬莱山」に到着。そしてここで、島子を歓迎して、8人の女の子、畢(ひつ)(おうし座のヒアデス星団のこと)と、7人の女の子、昴がでてきて、「亀姫の夫になる人だわ」と言うのです。昴と畢の登場はこのシーンだけですので、ストーリーに関係ないチョイ役なのですが、それでも星が全然でてこない日本の古代文献中ではインパクト大です。
 
・さて、水江浦島子の物語の続きですが、3年がたち、島子は亀姫の夫として楽しく暮らした蓬莱山を去り、村へ帰る決意をします。しかし、帰ってきた島子を待ち受けていたものは、たいへんな悲劇でした。人の世は300年も過ぎており、母も家もとうになく、故郷の村人はだれも島子を知りません。最後に玉手箱をうっかり開けてしまうと、島子自身にも時がふりかかり、灰となって散ってしまうのです。このように、おとぎ話の原作は、かわいそうな話が多いものです。でもそれほど、昔は普通に生きていくことが楽ではなかったのでしょう。世界のどこでも。

・昴(プレアデス)の伝説は世界各地にありますが、畢(ヒアデス)の伝説は、めったに見つかりません。

・ヒアデスを1つの何か、それもプレアデスとのペア星団としてみる伝承は、世界中でもギリシア神話と丹後風土記くらいです。

<シリウス>
・おおいぬ座の一等星、シリウスを知らない人は少ないことでしょう。そしてたぶん、全天一明るい恒星という肩書も。星がよく見える冬の夜空に、青白く輝く姿は、高潔な雰囲気で、星々の王にふさわしい感じがします。

・日本のとなりの古代文明、中国では、シリウスは、紀元前1世紀の『史記』をはじめ、古くから「天狼」という名前で書物に登場しています。

・シリウスが、災いの星ではなかった国もあります。
 古代エジプト文明では、シリウスは女神イシスを表わす星とされています(イシスはギリシア語の呼び名で、古代エジプト語ではアセトというそうです)。エジプト神話は、複数の神々が、相続争いをしたり、仲なおりをさせようと努力したりする、人間的なたくさんの物語からできています。最も崇拝された神も、初期王朝のホルス神、古王国のラー神、中王国のアメン・ラー神、新王国からクレオパトラで終わるプトレマイオス朝のオシリス神と、次々と代替わりしていきます。

・しかし女神イシスは、オシリスの妻にしてホルスの母であり、いつの時代も不動の人気を博していたようです。エジプトを征服したローマ人にも気に入られ、ヨーロッパでもイシスの神殿が作られました。イシスの星、シリウスは、ナイル川の増水がおこる頃に太陽とともに昇り、豊かな土壌をもたらす星として、王や神官からも民衆からも好かれていました。

・中東の国イランは、歴史の中ではペルシアという名前で登場します。古代のペルシアの神話(ゾロアスター教の神話)の中で、シリウスは雨を降らせる恵みの神として登場します。ペルシア神話では、シリウスはティシャトリヤ星という名前です。ティシャトリヤ星は、仲間のアルデバランや北斗七星、昴とともに、日照りをおこす悪い神々と戦うのです。ヨーロッパの犬星伝説とは反対ですね。ペルシアは不思議なところで、東のインド、西のメソポタミアと、ときどき正反対の伝承をもっています。

・紀元前のインドで、古いインドのバラモン教の聖典「ヴェーダ」ができたのと同じ頃、ペルシアでも独自の宗教であるゾロアスター教の経典「アヴェスター」が作られました。地域は隣りあっており、成立年代も似ているためか、「ヴェーダ」と「アヴェスター」に登場するたくさんの神々は、共通しているものが多いのです。ただ、決定的に違ったのは、インドで善の神デーブァが、ペルシアでは悪神になっており、インドでは悪役のアスラ神が、ペルシアでは善の神アフラマズダになっていることです。



『女神イシスの降臨』
古代エジプト神話の謎に迫る
大川隆法   幸福の科学出版   2011/8/9



<女神イシスの正体は、琴座、ベガ星出身の神秘の女神であり、古代エジプトの実在の歴史上の初代の王とも呼ばれているホルス王の母でもある>
・また、「オシリスの復活信仰はイエスの復活信仰の原型であり、古代エジプトに流れる、この神秘思想がキリスト教に流れてきた」という考えもありますし、「転生輪廻の思想も、このあたりから始まっていて、それが仏教に入っている可能性もある」という考えもあります。

・ハトホルとこのイシスとを、ほとんど同一視するような見方もあります。

<夫であるオシリスの腹違いの妹だったイシス>
<オシリスとイシスの子ホルスはエジプトの覇権を確立した>
<天照大神(あまてらすおおみかみ)とイシスの深い縁>
・天照大神は日本担当、イシスはエジプト担当として下りた。

・天照大神とイシスは「ベガの女王」。

・プレアデスは“顕教”ベガは“密教”を担当している。

・ケンタウルス座α星人の中には、映画「猿の惑星」に出てくる、猿が人間になったような外見の者もいる。




『不思議な世界の歩き方』  (超能力者・霊能力者に学ぶ)
(布施泰和)(成甲書房)   2005/8/9



<プレアデス異星人との交流>
・浦島太郎の話が作られた室町時代よりもはるか前の奈良時代、丹後(たんご)の国の風土記に浦島説話の原典がある。

・浦島が海で釣りをしていたのは、同じだが、そこに現れたのは、五色に輝く亀だった。その亀に一人の美しい女性が乗っており、浦島に「天上の仙家の人なり、風雲の彼方より来た」と名乗った。浦島はその美女に眠らされたかと思うと、あっという間に大きな島に着いた。そこは、玉を敷いたような光り輝く大地で、すばる(プレアデス星団)や雨降り星(アルデバラン)と名乗る人々に出迎えられ、輝く宮殿に入った、となっている。

・もう、こうなると浦島は、“輝く亀”、すなわち“空飛ぶ円盤”に乗って、宇宙へ行ったという説が、後の室町時代となって、「助けた亀に連れられて龍宮城へ行った」と、当時の人にも理解されるように穏やかに解釈された、と考えた方が自然なんです。ほかにも竹取物語とか、ETとの交流説話を思わせる古典はかなり多い。



『47都道府県 妖怪伝承百科』
香川雅信、飯倉義之、小松和彦、常光徹  丸善出版  2017/9/29



<牛鬼>
・牛鬼は残忍・獰猛で、その姿は牛面鬼身とも鬼面牛身ともいうが、光市牛島の牛鬼伝承において、その姿は明確ではない。天文年間(16世紀前半)に牛鬼が現れ、人々を苦しめたので、島民は島から逃げ出してしまった。

・愛媛県で有名な牛鬼といい登場人物といい、一衣帯水である四国とのつながりを暗示していよう。

<牛鬼>
・高松市北西部の連峰・五色台の峰の一つ、青峰に棲み人畜を害していたという怪物。

・根香寺には、そのときに退治された牛鬼の角とよばれるものと、牛のような頭部にコウモリのような飛膜状の翼をもつ牛鬼の姿を描いた掛軸が伝わっている。

<牛鬼>
・宇和島市を中心とする南予地方の神社祭礼には「牛鬼」という全国的に類例のない練物が登場する。青竹で牛の胴体のように編み、赤布やシュロで全身を覆い、長い首の先に振り子(和紙)製の頭を付ける。その形相は牛とも鬼ともつかないものである。

・なお、祭礼とは別に「牛鬼」という妖怪に関する伝承もある。牛鬼の棲むとされる場所は、淵や滝、海など水に関するところが多い。宇和島市や西予市、久万高原町に「牛鬼」が棲んでいた淵や滝があり、地元の田畑を荒らしていたが鉄砲で撃たれて退治され、淵や滝に逃げ込んだという共通した話が残る。

<牛鬼>
・畔田翆山は辞書『古名録』の「うしおに」の項で、古典の『枕草子』や『太平記』などの書物にみられる「牛鬼」は中国の「山魈(さんしょう)」と同じものだとしたうえで、熊野の言い伝えでは、「牛鬼」は毎年12月20日に山を下って海へ出ると記している。この怪物は足跡が一本足だとされており、彼は一本足の山の神に「牛鬼」の名をあてたようだ。

<牛鬼>
・また同町姫路には、首から上が牛で下が鬼の形をした牛鬼という化け物がいて、田畑を荒らし牛馬を食い殺していたが、福田左近という人物に退治されたという。

<牛鬼と濡れ女>
・主に石見地方に伝承される海の怪。牛鬼は海中に棲み、大きな一つ目の牛の姿で夜間、夜釣りの釣り人に赤子を抱かせた後、今度は牛鬼が海から出てきて釣り人を追いかけて突き殺すという。



『世界不思議大全  増補版』
泉保也     Gakken   2012/8



<ステファン・デナルデ>
・オランダ人実業家。1967年7月、オランダ南西部ウースタ―シェルトの沖合をヨットで航行中、海面に浮かんでいた異星人の宇宙船(水上艇)に乗り上げて異星人と遭遇し、乗船を許された。

・身長150センチほどの異星人はヒューマノイド型ではなく、顔の真ん中に窪みがあり、手は鉤状で、全身が薄褐色の毛で覆われ、獣じみて見えた。
 会話はテレパシーでなされた。彼らの母星は、地球から10光年彼方にある惑星イアルガで、自転速度は地球よりも遅く、重力は地球の約3倍。窒素やアンモニアからなる大気は濃密で、大気圏の雲が視界をさえぎっており、太陽光は見えない。

・そのイアルガ星へ、小型の円盤から高空に滞空する大型円盤に乗り継いで案内された。イアルガ星は海が大部分を占め、陸地は島だけで、それらは鉄橋で結ばれていた。石油タンクのような形状をした集合住宅が立ち並び、ひとつの建物の直径は約300メートル、高さは約135メートルで、約1万人が居住できる。
 ほかに自動機械化された農園、恒星間飛行用の大型円盤の建造工場なども見学してから、再び円盤に乗って地球へ帰還した。



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