感泣亭

愛の詩人 小山正孝を紹介すると共に、感泣亭に集う方々についての情報を提供するブログです。

杉浦明平との往復書簡

2010年04月30日 | 日記

愛知県田原市の田原市博物館で、この7月から杉浦明平さんの展覧会が行われると言う。


その展示の中で明平さんと小山正孝の往復書簡を展示したいというお話をいただいた。


杉浦明平研究家の若杉美智子さんの仲立ちで、田原市博物館の鈴木さんと昨日お会いした。


杉浦さんは、渥美だが、現在は渥美は田原市に合併されている。


トヨタのレクサスの工場があり、それが市の財政も支えているとも聞いた。


田原市博物館は、郷土の英雄でもある渡辺崋山を中核とした博物館であるらしい。


明平さんにも「渡辺崋山」というすごい本がある。


明平さんと正孝の往復書簡は、全部で100通ほどもある。


若杉さんが、すべての書簡・葉書をワープロにおこされた。


見せて頂いた。大変な分量だ。


中に、正孝の結婚式の案内状もあった。


また、小山正一(潭水-正孝の父)の葬儀についての会葬文も。


往復書簡を読むと、二人の息遣いが感じられ、その生きた時代がよみがえってくる。


展覧会は、7月10日~8月22日までであるという。


ぜひ、訪れてみたいものだ。


中村真一郎の会

2010年04月24日 | 日記

今日、明治大学で「中村真一郎の会」が行われた。


今年で5年目である。


総会では、丸谷才一氏が会長に再選され、あいさつに立った。


中村真一郎の文学の意味について語った。


難しいところもあるが、上質の日本文化の伝統をきちんと保つべきだ。


というお話と受け取った。


その事こそ文化なのだと思う。



生前の中村真一郎の実像を写したNHKの番組がビデオで流された。


映像は、生きた中村真一郎という人間をあますところ無く映し出し、実に面白かった。


会で配布された「中村真一郎研究」の第5号。


元中村真一郎の住み込みの秘書を務められた木村佐一氏の


「豪徳寺二丁目猫屋敷(4)」にも中村の日常や考え方がよく示されており興味深い。


粟津則雄氏の講演の後、懇親会が行われた。


山崎剛太郎氏は、所用で先に帰られたがお年とは思えない。


大学の出口までお送りしたが、


「一人で大丈夫」


と元気に手を振って出て行かれた。


人に頼らないこの気持ちが元気さの源泉なのかもしれない。


軽井沢から見えられた作家の塩川治子さんや小諸から見えられた大久保保さん


などのお話を伺った。


大久保さんからは、堀多恵さんの葬儀の際のプリントのコピーと新聞のコピーをいただいた。


女優で俳人の松岡みどりさんからも、「映画の中の日本文学」のパンフと毎日新聞に掲載されたみどりさんの句のコピーもいただいた。


佐岐えりぬさんの妹さんの本多美佐子さんとtwitter俳句や感泣亭句会の話をして、いるうちに、会も終わりに近づいた。


この会の事務局は、水声社に置かれており、社長の鈴木宏さんの力に依るところが大きい。



「中村真一郎研究」を手に入れたい方は、直接水声社3818-6040まで連絡して欲しい。


1000円+税である。


 


 


堀多恵子さんご逝去

2010年04月18日 | 日記



堀辰雄夫人、堀多恵子さんが亡くなった。 96歳。

私は、6年前一度だけ堀多恵子さんとお会いしたことがある。

軽井沢高原文庫の会の後、ご自宅を訪問した。

脚をお悪くしていたが、矍鑠として正孝の昔の話などを聞かせてくれた。

著書の「堀辰雄の周辺」にも正孝の事が述べられている。

ご冥福をお祈りしたい。

葬儀は20日正午、長野県軽井沢町追分51の37の日本基督教団軽井沢追分教会。

遺族代表は娘婿の菊地俊二(きくち・しゅんじ)さん。


詩・山居乱信を読む その1

2010年04月17日 | 日記

感泣亭別会のために、詩集「山居乱信」を読んでいる。


私は、このブログを運営しているが、実は詩の読み方がわからない。


小山正孝は、詩に不思議な題の付け方をする。


同じ題名の詩が並ぶのだ。


普通ならば、 その1、その2のように番号ぐらいつける。


付けなければ整理することも出来なくなってしまう。


が、彼は付けない。


詩集「山居乱信」には、17篇の詩が収録されている。


そのうちの5編が「山居乱信」の名付けられた詩なのだ。


一篇を除いて、


「僕の家は破れ屋だが


 窓ガラスは透明にみがいてある」


という書き出しで始まる。


そして、途中に回想が入る二重構造になっている。


この程度のことはわかる。


五篇の時間的な順序がある。


西日が差し込む →夕刊がくる→夕刻から雪が降り始める


→外が暗くなってでんとうがつく→月の光が差し込んでくる


時間的な順序がある。


実際は、最初の「西日が差し込む」の詩が最後に作られている。


発表されたのは、潮流社版の第四次「四季」 (昭和42.12) ~ 17号 (昭和50) 


が潰えた後の「文学館」である。


正孝は、詩集にするときに時間順に並べ替えた。


それは当初から意図だったかもしれないが・・・


過去の様々な波乱をうちに含みながらの平穏な生活。


逆に平穏な生活に隠された過去の様々な波乱


破綻をどうにか避けてきた人生。


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   山居乱信


 1

僕の家は破れ家だが

窓ガラスは透明にみがいてある

夕刻から雪がふりはじめた

「そろそろ電気をつけませうか」

家の者が聞く

片手を振つて僕は

「しばらくかうしてゐよう」

と答へた


 2

僕は椅子にもたれて

机の上のテープレコーダーの方に手を伸ばしてボタンを押した

しぱらくの時間

「何も音がしないわ」

「いいんだ」

夏の夕日 波の音

風の音をテーブは現はしはじめた

僕は録音した時のことを思ひ浮かべた

かすかな砂の上の足音

少しひきずるやうな足音

それは短かい時間流されてゐたが

擦過音がして 今度は別の海の波の音

はげしく砂が吹きつける

ドドーン ドドーン

「あの時ずいぶん荒れてゐたのね」

家の者が言ふ

「ほら犬の吠き声も入つてゐるだらう」

岩石の多い浜だつたので

波がひく時 水は青く深く沈んだ

僕はテープを止めた

窓の外の雪は ずいぶんはげしい

垂直に落ちるのは夫々が白い糸

もつれるやうにぶつかつて雪は一本の線

もし もう少しテープをつづけたら大変だ

また静かなはじめの海岸の録音が出て来て

すすり泣く女の声がきこえるのだ


 3

僕は椅子にもたれて

机の上のテープレコダーの方に手を伸ばしてボタンを押した

静かな音楽が流れはじめた

「この曲はいつおいれになりました」

「いつだつたかなあ 相当前だな」

ぷつんと切れてしづかになつた

急に けたたましい蝉の声が室内になりひびいた

みーん みーん

不思議な顔をしてゐる家の者をさげすむやうにして 僕

 は耳をすました

僕は一人で砂利道を歩いてゐた 砂利を踏む僕の足音が

 入つてゐる

僕が聞くと 僕にはかすかなもつれるやうなもう一つの

 足音がきこえてくるのだ

「ずいぶん啼くものね」

窓の外の雪は ずいぶんはげしい

垂直に落ちるのは夫々が白い糸

もつれるやうにぶつかつて雪は一本の線

あの時の唇の色

豊かな緑の木立

室内に満ち満ちてゐる蝉の声

捲き戻してもう一度きくことにしよう


 4

今は 道に立つだけでその家でどのチヤンネルを見てい

 るのかがわかるといふ

僕には僕の破れ家に面した道に誰かが一人立ちつくして

 ゐるのがわかる

雪を浴びながら 瞳を凝らしてこちらを見つめてゐるこ

 とがわかる

さあ 電気をつけようではないか


 ホームページ 感泣亭 詩人・小山正孝の世界


 


 


タウン誌 日本橋

2010年04月14日 | 日記


 


立原道造の会の渡邉俊夫さんからタウン誌「日本橋」<WBR>をいただいた。
渡邉さんは、<WBR>つい最近まで中央区の教育委員を務めらてれた方だが、<WBR>立原道造の出身校である久松小学校の校友会を仕切ってきた方であ<WBR>る。
渡邉さんのお骨折りで、周年行事と併せて、立原道造展が行われ、<WBR>平成19年の開校135年には、<WBR>立原道造顕彰説明版が設置された。
今号の「日本橋」には、久松小学校の歴史について詳しく語った渡邊さんのお話が収録されている。


この渡邊俊夫と小山正孝の接点は、麦書房のの堀内達夫さんが中核となった「立原道造を偲ぶ会」であった。このいきさつの一部については、感泣亭秋報四に渡邊さんが書かれている。


「風の音」第13号

2010年04月10日 | 日記


杉浦明平の研究家である若杉美智子さんから「風の音」の13号をいただいた。


「風の音」は、若杉さんの個人雑誌である。


わずか15ページの小さな雑誌だが、ご挨拶から、図書館の話のコラムまで、実にバラエティに富み、総合誌の趣すら感じられる。


その中核にあるのは、「文学逍遥-雑誌『未成年』とその同人たち-」の連載だ。


これは、彼女が雑誌「海風」に連載している「草には草の花が咲く-杉浦明平伝」と対をなしている。


研究は、微に入り細に入りかゆいところに手が届くまで検証されており、当時の面影を彷彿とさせる。


今号では、『未成年』が終焉せざるを得なくなるその事情について、立原と寺田の対立や兼井連について述べられている。


「風の音」の中には、「食」や「旅」のコラムもある。


これが、また愉快だ。


「食」では、長寿食を、「旅」は、流氷を見に行く 砕氷船ガリンコ号の話。


思わず笑ってしまう。


読んでみたい方は、moyama@nifty.com までご連絡下さい。


お送りします。(無料)


山居乱信 その2

2010年04月07日 | 日記

昨年、「暮らしの手帖」が正孝のこの「山居乱信」に目をつけ、「朗読の時間」にとりあげた。


その続きが、この「山居乱信」の詩である。


 


  山居乱信 


 1


僕の家は破れ家だが


窓ガラスは透明にみがいてある


夕刻から雪がふりはじめた


「そろそろ電気をつけませうか」


家の者が聞く


片手を振つて僕は


「しばらくかうしてゐよう」


と答へた 


 2


僕は椅子にもたれて


机の上のテープレコーダーの方に手を伸ばしてポタンを押した


しぱらくの時間


「何も音がしないわ」


「いいんだ」


夏の夕日 波の音


風の音をテーブは現はしはじめた


僕は録音した時のことを思ひ浮かべた


かすかな砂の上の足音


少しひきずるやうな足音


それは短かい時間流されてゐたが


擦過音がして 今度は別の海の波の音


はげしく砂が吹きつける


ドドーン ドドーン


「あの時ずいぶん荒れてゐたのね」


家の者が言ふ


 「ほら犬の吠き声も入つてゐるだらう」


岩石の多い浜だつたので


波がひく時 水は青く深く沈んだ


僕はテープを止めた


窓の外の雪は ずいぶんはげしい


垂直に落ちるのは夫々が白い糸


もつれるやうにぶつかつて雪は一本の線


もし もう少しテープをつづけたら大変だ


また静かなはじめの海岸の録音が出て来て


すすり泣く女の声がきこえるのだ 


 3


僕は椅子にもたれて


机の上のテープレコダーの方に手を伸ばしてボタンを押した


静かな音楽が流れはじめた


 「この曲はいつおいれになりました」


 「いつだつたかなあ 相当前だな」


ぷつんと切れてしづかになつた


急に けたたましい蝉の声が室内になりひびいた


みーん みーん


不思議な顔をしてゐる家の者をさげすむやうにして 僕


 は耳をすました


僕は一人で砂利道を歩いてゐた 砂利を踏む僕の足音が


 入つてゐる


僕が聞くと 僕にはかすかなもつれるやうなもう一つの


 足音がきこえてくるのだ


「ずいぶん啼くものね」


窓の外の雪は ずいぶんはげしい


垂直に落ちるのは夫々が白い糸


もつれるやうにぶつかつて雪は一本の線


あの時の唇の色


豊かな緑の木立


室内に満ち満ちてゐる蝉の声


捲き戻してもう一度きくことにしよう 


 4


今は 道に立つだけでその家でどのチヤンネルを見てい


 るのかがわかるといふ


僕には僕の破れ家に面した道に誰かが一人立ちつくして


 ゐるのがわかる


雪を浴びながら 瞳を凝らしてこちらを見つめてゐるこ


 とがわかる


さあ 電気をつけようではないか


 


中村真一郎の会

2010年04月06日 | 日記

会の事務局から次のような案内状が届いた。



 


感泣亭例会は7年目、真一郎の会も5回目になる。


中村真一郎と小山正孝は盟友だったと言ってもよいだろう。


年譜によれば、真一郎と正孝は昭和14年8月に連れ立って、当時の「山の樹」の会に出席し、9月には、同人に加わっている。


今年の会の記念講演は、粟津則雄氏。演題は、 「『蠣崎波響の生涯』」をめぐって」 である。


蠣崎波響は、松前藩の家老で画家でもある。彼のことが世に広く知られたのは、中村真一郎の「、「『蠣崎波響』の生涯」によってであった。


問い合わせは、事務局(電話 5689-8410 水声社 )まで。


17日に感泣亭別会

2010年04月05日 | 日記

小山正孝については、ホームページ感泣亭を見てほしい。



このブログは、小山正孝と感泣亭の活動についてのあれこれを日記風に語ろうというものだ。


感泣亭についての連絡が何かあれば、小山正見 moyama@nifty.com へいただきたい。


感泣亭の名前は、丸山薫賞となった正孝の 「十二月感泣集」という詩集によるが、彼自身が自らの書斎を「感泣亭」と呼んでいたことに由来する。


さて、感泣亭は毎年一度11月の第二日曜日に 小山正孝を語る「感泣亭例会」を開催している。また、春、夏、冬の3回、正孝の書斎で感泣亭別会という集いを行い、正孝の詩を読むと互いの文学的な活動を交流しあっている。


今度の感泣亭別会(春会)は、4月17日に行われる。


 感泣亭別会   日時   4月17日(日)午後2時~午後5時


            場所  感泣亭(東急東横線 元住吉下車)


           テーマ  詩「山居乱信」について


            関心のある方は、moyama@nifty.com に連絡願いたい。


 詩・「山居乱信」をここにあげておく。


実は、「山居乱信」という同名の詩が5編あり、詩集「山居乱信」に収録されている。


(1986年5月10日発行)。この詩は、その冒頭にかかげられたものである。


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山居乱信


 


 1


僕の家は破れ家だが


窓ガラスは透明にみがいてある


西日が射しこんで来てゐた


僕は家の者にともなくつぶやいた


「外は風が強く吹いてゐるみたいだね」


無言なので ふりかへると


光が家の者の頬を染めてゐた


 


2


室の壁には鏡がはめこんであつて


両側から僕たちの姿を無限に映し出してゐた


うすみどりの衣服の裾がはつきりと折れて見える


鼓動が乱れてしづけさの中では異常に高まつて感じられた


(ここは野原ではないから 僕たちは虫ではない)


「虫だつたらどんなによかったらう」


複眼だから 多数の草の葉


たくさんの君の姿 数かぎりない心の屈折


長い足と羽で跳躍して


自分たちにもわからない場所に行つてしまふことも出来るし


(虫の声が聞えて来る)


「僕たちは虫ではないものね」


いまは ただしづかに目を閉じてゐることにしよう


 


 3


障子を細目にあけると


前面に 山と空のあはひはさだかではないが


通つてきた坂道が辿れる


「何をごらんになつてゐるの」


蛍光燈の行列が遠く白く斜めに高まつてゐる


橋を渡つた時には互ひにすねてもみあつた


僕のポケツトから万年筆が飛び跳ねた


闇の中でさかんにゆれてゐる若葉その上に落ちて行つた


頭上の蛍光燈は氷菓子のやうに白く水つぽかつた


「ここから見ると蛍光燈が針の行列のやうに見えるわ」


互ひのこころも平安になることが出来た


自動車のテールランプがどんどん下つて行く


見届けることをしないで障子を閉めた


「僕は万年筆を失つたけれど君を得た」


あの時あれは小刀のやうに谷間に落ちて行つた


 


 4


「日がみじかくなつて来たといふのでせうか」


家の者が言つた


煙草を手にしながらしばらくのあひだ僕は答へなかつた


あるかなきかわからなくなつた日射し


机や 灰皿や


僕の眼は色々な物体を追つてゐた


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 では、また。