感泣亭

愛の詩人 小山正孝を紹介すると共に、感泣亭に集う方々についての情報を提供するブログです。

感泣亭別会のお知らせ

2010年11月30日 | 

来年の話をすると鬼が笑うと言いますが、明日から十二月。2011年は、すぐそこです。

感泣亭は、小山正孝を顕彰することが大きな仕事ですが、それに留まりません。そこを出発点にして、小山に繋がる人たちの業績を明らかにしたいと願っています。

その第一弾として、次の感泣亭別会では、杉浦明平を取り上げます。

題して「杉浦明平の世界」 お話しして下さるのは、杉浦明平の研究家である若杉未知子さんです。

関心のある方はごー報下さい。

 感泣亭別会(冬会)   

日時 2011年1月22日(土)午後2時~5時

場所 感泣亭(東急東横線元住吉下車8分)

 


感泣亭秋報五

2010年11月23日 | 



感泣亭秋報五ができました。

渡邊啓史さんの大作「逃亡の行方-詩集「愛しあふ男女」のために」をはじめ、高橋博夫さん、近藤晴彦さんの論文や大坂宏子さん、森永かず子さん、里中智沙さんの詩、若杉美智子さんの「杉浦明平-小山正孝書簡集」からの昭和二十年代の小山正孝像の追求、南雲政之さんによる「小山正孝伝記」への試みなど多彩な内容です。

また、渡邊俊夫さんによる「立原道造偲ぶ会」当時のこと(続)も貴重な論考です。

興味のある方は、moyama@nifty.com まで。

送料とも一部500円でおわけします。


感泣亭例会

2010年11月22日 | 

第七回感泣亭例会は、去る14日、田園調布の喫茶店「葉山珈琲」を会場にして行われました。
出席者は、全部で25名。

小山正孝の詩集「愛しあふ男女」をテキストに充実した時を過ごすことができました。
渡邊啓史さんの提言、「愛しあふ男女」というタイトルの逆説、様々な立場からの読みが披露され、、この詩の深みが解明されていく面白さがありました。
また、参加者各人の行っている仕事が話され、和気藹々とした雰囲気でお互いの対話・交流をすることができました。

最後に、女優の梶三和子さんの「愛しあふ男女」の朗読で詩の世界に浸りながら会を閉じました。


愛しあふ男女13

2010年11月17日 | 日記

     愛しあふ男女 13



ガラス戸の外を音もなくすぎる足を


私はあたたかい室から見つめてゐる


一人のおそい歩みがすぎる


二人のそろつて大股の歩みがすぎる


 


ある人はからだをななめにして


男は女の顔をのぞきこむやうにして


私は一人でゐるのにかうしてたくさんの


人の心が私の中を通りすぎて行く


 


木枯に吹きちらされた木の葉が


戸の中へ入らうとしてふるへてゐる


茶色の葉脈がゆれてゐる 私にそれまでが


 


街の中で迷つた人の姿のやうに感じられる


ふと あれが私ではないかとさへ思つた


乱れてゆれてゐる ガラス戸にすひついて


 


 


愛しあふ男女12

2010年11月15日 | 
  愛しあふ男女 12

 

自然の中で光をあびて

二人の顔は白く光る

つつましく向きあひながら

二人の顔は白く光る

 

月目がすぎて光も消えて

お前の髪はばさりと抜ける

あでやかにほほゑみながら

お前のほほはくさりはじめる

 

行きませうね すすきの葉が

油ぎつてゆれてゐる道のあひだを

どこまでもすすきの葉にかくれるまで

 

生きてゐたからだのすべてが

風に吹かれて消えて行くやうに

どこまでもすすきの葉にかくれるまで


愛しあふ男女11

2010年11月12日 | 
   愛しあふ男女 11

 

最後の時がやつて来るのは

お前の方が早いだらうか

私の方が早いだらうか

だるくまぶたを閉ざす時は

 

空に太陽が照りかがやき

すぎて行くのはあへぐ声ばかり

それがお前のを私が聞き

私のあへぐのをお前が聞いて

 

ぐるぐる廻る思ひ出の火

あれはガスだつた 薪のやうに見せかけて

めらめらもえあがつてからみついた火

 

だるくなつたまぶたを閉ざさないやうにして

お前の指をくちびるの中に入れ

私はいつまでもしやぶりつづける

 

 


愛しあふ男女10

2010年11月10日 | 日記

      愛しあふ男女 10


 



誰が知つてゐると言へるだらう


お前の愛した人の数を


誰が知つてゐると言へるだらう


私の愛した人の数を


 


木の葉の影のあひだから青い空が見え


一つ一つが人の顔のやうだ


お前にはそれが私の愛した人に見える


私にはそれがお前の愛した人に見える


 


しかし このふるへるからだをどうしよう


私の手の光る刃を


お前の手にもにぎらせよう


木の葉の影のあひだから青い空が見え


一つ一つが人の顔のやうだ


私たちをひきとどめようとして手をのばしてゐる


愛しあふ男女9

2010年11月08日 | 
  愛しあふ男女 

赤くもえ立つ雲に向つて

たじろがないのは誰だらう

お前だらうか それとも 私だらうか

おそろしい気持を持つてゐるのは

 

両側のコンクリートの塀はせばまる

道だけが ぐんぐん高くなる

あるひは私たちは前に行くだけかもしれない

一人にはもう道がないかもしれない

 

二人が一人になればいい

しかしお前には私の外に男がゐたらう

私にはお前の外に女がゐた

 

時間がすぎれば夜になるだらう

つめたい青い星のきらめく下で

なほ ほそい道はつづいてゐるだらうか


西垣脩さんと詩人の魂

2010年11月07日 | 日記

詩人で、俳人でもある西垣脩さんに、


「詩を書くから詩人なのでない。詩人だから詩を書くのだ」


と言う言葉がありますね。と言う話を詩人の伊勢山峻さんにしたら、


西垣さんは、こんな事も書いていると次の文章を送って下さった。


「詩は詩人がかくものであるというパラドクスをあえて言わねばならぬ気がする。今日詩に必要なものは、詩ではなくて、詩人であるということだ。詩人がそれぞれの生活領域でその生き方をつらぬくこと、あらゆる社会でその詩人たる精神を発揮することが、人間を正すことであり、つまり詩を立てる道であるという、そういう時代になった。詩人だけが信用できるという奇妙な時代になった」


これは、詩人が決して立派だということではないと思う。が、真実を見る目をもって、それぞれに真摯に時代と向かい合うという意味ではないか。


今度、14日の感泣亭例会では、小山正孝の「愛しあふ男女」を取り上げる。この詩に社会的な問題は何も出ては来ないが、人間としての生き方、そしてまた、ソネットという形式への向かう姿勢などに、同じ詩人魂というようなものを感じないわけではない。


時代と向かい合ったときに、どのような方向に進むのか、そこに詩人の有り様が問われるということだけは、そして、それは詩人に限らないが・・・確かなことのように思う。


愛しあふ男女 8

2010年11月05日 | 
   愛しあふ男女 

小さい二つの心などは消されてしまふ

強い日の光は照りかへして白い矢のやうだ

どこかへ私たちは逃げなければならない

しづかなつめたい風が吹き音楽が聞える場所へ

 

ある時は虹色の雲がとどまり

夕暮が幕のやうに落ちてくるそのあとには

星が私たちを見つめるやうな

何事もおこらない場所へ逃げなければならない

 

私たちは すでに 方々から投げかけられてゐる

一歩 歩めば足の下の道ははげしい音をたて

階段からもたくさんの石がころがり落ちる

 

もんどり打つて落ちかかり来るはげしいもの

お前のやさしい手の中に私の手は支へられ

進めば日の光は白くするどい矢のやうだ