感泣亭

愛の詩人 小山正孝を紹介すると共に、感泣亭に集う方々についての情報を提供するブログです。

石画記

2010年06月26日 | 
7月3日の感泣亭別会では、詩集「風毛と雨血」に収められている「假山記」をとりあげることになっているが、ここでは、同じ詩集に収められている「石画記」を紹介する。


石画記

僕は人を殺すつもりだ。毎朝、さういふことを考へて目をさます。自分がまだその事を果さないのは、怠惰な自分であるからだ。また今日一日を怠惰な自分ですごすのだな、と自分に言ひきかせてシヤツを着て、やつと、床の上に立ちあがるのだ。全く、僕は怠惰な人間である。コーヒーを飲んで、ジヤズを聞いて、夜をむかへる。

いつか、古本屋で本を見てゐたら、一人の老人がやつて来て、十数冊のエロ雑誌を売らうとしてゐた。

「かういふものがそばにあるといけないんでね」

と言つて、口の中をもぐもぐさせてゐた。あれは入れ歯を口の中で外したり入れたりしてゐたのだ。口さきをしぼるやうにして値ぶみを待つてゐた。僕は、自分が、ああいふ風にはなりたくないと思つた。あと数年もすれば、ああいふ風になりかねない。ただ、一つだけ希望がある。それは、例の石画だ。

僕は結局はのたれ死をするのだらうが、もしかして、うまくいくと、あの石画が僕のバックボーンを支へてくれるかもしれない。いや、あるひは、僕の怠惰がなほつて、計画通りに殺つてしまふかな。さうなれば大したものだ。僕の人生は変るだらう。光輝に満ち、生き甲斐のある戦闘的な、花のやうな生涯を送ることになるだらう。

何故殺したのか。どうやつて殺したのか。現在はどんな心境か。悔いは無いのか。神を信じるか。平凡な人間としては経験し得ないであらう暗黒がおそひかかると同時に、それをはねのけて僕は生きようとするであらう。僕が殺すつもりの人間こそ、僕に僕の生を見出さしめるであらう。

石画は、モザイコのことだが、中国に流入し、そこで「絹寿五百年紙寿千年」をこえ、風景画の真韻をつたへるものとして愛された。僕はその中国の石画を見たことはない。僕のいふ「例の石画」は、ビルの地下の喫茶店にかかげられてゐるもので、中国の石画を指してゐるのではない。もし、阮元の「石画記」の石画だと思つて、題につられて読みすすんできた方とは、この辺で袂を別つよりいたし方ない。僕も、「石画記」は好きなのだ。それに、僕の持つてゐるその本は、「昭和四十三年一月琳琅閣古書目録227阮元自筆鈔本石画記五巻『頤性老人阮元』記及印記有富岡鉄斎旧蔵長文識語 四冊 六五、○○○」(これはどなたの手に入るのだらうか) といふ程のものではないが、蝸牛庵の印のあるもので、貧書生たる僕はそれなりに大事にしてゐる。茂吉の歌にもあるので、この本については、茂吉との対話の際にも言及されたものであらう。僕はさう信じてゐる。

僕の例の石画は大きいものだ。大理石の一寸角の石を、高サ六尺、幅十尺、に積んで、壁に密着させてある。周囲はアルミの枠でしつかりとかこんである。石色は白、茶、鼠、黒、赤、緑。上方に風の流れの如きものあり、右方の片隅に太陽。太陽の下は緑色の草原。左方に竪琴をかなでる裸体の女性が、約四尺の高サで描かれてゐる。女性は、岩に腰をかけ、後方に黒髪をなびかせ、ややうつむいて、左手で竪琴を支へ持ち、右手で、いまや弦をかきならし、音は風に逆らふものの如く、強くひびきはじめようとしてゐる。僕は石画を見上げながら、いつも、その女性の表情の変化によつて、僕の心の状態をも変化させてしまふのだ。

「今日は、やさしかった」

僕は床に入って、さうつぶやく。その日はその女性が、うつむいた目で、僕の方に向いてかすかに笑ひかけてくれたのだ。

「今日は、叱られたな」

申しおくれたが、僕は五十歳はもう大分前にすぎてゐて、自分では、ひいき目に、初老だ、と思つてゐる人間である。今日は、叱られたな、といふのは、僕が女性のお尻のあたりの大理石に、一寸、手をのばして触れてみた日になんか、寝入り際に、さうつぶやくのだ。

黒い大理石の破片の集合が楽器をかたどり、近づいてよく見ると、弦の一本一本、角型の大理石の上に傷つけてひいてある。はじめて彼女にあつた時、感動してゐる僕の前で、彼女はいろいろな表情をした。僕は、石の女が、どうして、あんなに豊かな表情の変化を示すのか不思議だつた。なんのことはない。大分離れた反対側の天井の所にスポツトがあつて、色ガラスがいくつかついた丸いものがその前でゆつくり廻つてゐた。そこから射す光が石画を照し、色の変化につれて、彼女の表情も変化して見えるのだつた。

白い光の時、つめたい表清をした。赤の時には豊満な肉体を示すと同時に、笑ひかけるのだ。青い光の時には、ただよふ天女のやうに、ある瞬間、動きをとめて、じつと僕の目を見つめてゐるのだ。

「石画記」に出てゐる石画は、わりに小さいもので、高サ、幅、二尺が限度である。たまにはそれより大きいものもあるが、小さいものの方が多い。「華嶽秋晴図」に、「僧巨然雨脚図」に、「暁色月色図」に、色々な光をあてるやうなことをしたものであらうか。石画をたてかけて眺めるだけでなく、光をゆらせたり、ちがつた色の光をあてることで、美しい石の反射から風景の思ひもかけない変化をたのしんだりしたものであらうか。僕はきつと、したと思ふ。すると、石画の持主は 貧書生のやきもちまじりの想像の話ばかりで恐縮だがi膝の上の桃のやうなものの頬のほてりにも、変幻かぎりなき光をあて、石画の中の風景と見比べながら。ああ、その上、肉体的なもののあたたかみの変化。手をのばして、美しい色の石の感触をもたのしんで、罪悪感もなく、夜をすごしたことであらう。

僕はまだ何もしてゐない。人を殺してもゐない。それなのに、人を殺してしまひさうな自分の追ひつめられた日常から、口惜しまぎれに、かへつて、僕の生の存在はそこにこそ花ひらくであらう、などと述べたりした。

ある日突然に、その女が、せめて、一夜、僕の為に石画から抜け出て、僕の膝の上であの音をかなでてくれないものかなと願ふ。勇気が出るかもしれない。怠惰な自分は、心を改めて、科挙のために、自分を鞭うつことをするかもしれない。

中国の石画をゆつくりと眺める機会を、いつか持てる日もあらう。この方がやや確率は高さうだ。

 


ギャラリー譚詩舎が新たに出発

2010年06月18日 | お知らせ
昨年秋まで、清里で活動を続けていた譚詩舎は、この春から場所を軽井沢にかえ、新しい出発をしました。
追分に、清里と同じすてきな文学的な空間が誕生しました。

譚詩舎から便りの一部を紹介します。
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 昨年秋より冬眠しておりましたギャラリー譚詩舎は、この度、春の目覚めとともに八ヶ岳の麓の町、山梨県清里から、浅間山の麓、軽井沢町信濃追分の地に移転致しました。これまでの3年間、ギャラリー譚詩舎への皆様の温かいご支援とご理解を、深く感謝申し上げます。今年より譚詩舎はギャラリー部分を閉鎖し、詩を中心の文学空間として、新しい出発を致します。内部は、まだ十分に整っておりませんが、躍動の夏を前にして、追分からのはじめてご挨拶とさせていただきます。お近くにお越しの際はどうぞお立ち寄り下さい。なお昨年に引き続いての譚詩舎秋の文学サロンは、今年だけ池袋芸術劇場会議室にて行います。また詳しいご案内をさせていただきます。ご興味ある方、またご協力いただける方はご一報いただければ幸いに存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

  譚詩舎 
tanshisha@xx.em-net.ne.jp

病中有閑 - 暁夢朧朧

2010年06月13日 | 

比留間一成さんの詩である。比留間さんは、詩誌「青衣」の詩人であり、現在は日本詩人クラブの会長を務めている。
また、比留間さんは、感泣亭例会の呼びかけ人代表でもある。昨年から少し体調を崩されたが、いたって意気軒昂。
この詩は、比留間さんの面目躍如といった趣がある。


譚 詩

 病中有閑 - 暁夢朧朧
      比留間一成

二〇〇九年九月 老人健診にて
上行結腸癌第二期と宣告を受く

西欧の詩人曰く
我身から発したものは愛せ と
ガン子と名付け 毎夕
彼女の好物の酒を酌む
一杯一杯復一杯

十一月 精密検査 癌一コポリープ十六コ手術を迫られる
日毎愛情の深まる彼女との別れは辛い
 ガン子よ 共に火の中に入ろう

彼女がいうに
 もったいないおことば
 私は一刻でも長くご存命を願って
 快い日日を過ごしてまいりました
 あなたのために
 この辺で身を退かせていただきます

空ゆく鳥よ泣け 勇者も鎧の袖を濡らす

手術後 写真を見せられる
桜色の中に真紅の薔薇が一輪微笑む

   ○
あいさつは最も大切なことからか
農耕民族は日日の天候を
病院では若い看護師にっこりと
"おはようございます
おなヽ出ましたか"

    ○
6時起床 8時朝食 12時昼食 !8時夕食
22時就寝 寝姿もよく
学校は落第生だが 病院では酒飲みたさの
優等生 退院希求

    ○
就寝のベルと同時に消灯
夢には母きみと祖母かつが交互に来る
 女房は病人のために大変!
 面会時3時となれば 2時に家を出る
 6時に病院を出て7時帰宅 洗濯物もとりこめない 夢にまで来い
というのは酷
それで母たちは代りにくるとおっしゃる
 あなたは関東大震災のときお腹の中で
 三ヶ月 神田から知り合いを訪ね 北千住まで避難
いつ何が起るか世情不安 父は刀を差し 母は三歳の姉の手を引き
短刀を祖母は"鉢割り"を下げて でしたね
 あなたが外界を気にするのはそのためですから 見舞いに出るの
です
もう八五歳 あなたより年上 大丈夫です
今度は祖母が出てくる
 大丈夫なもんか 外へ出るとすぐ泣いて帰ってきた
ひどいものです "泣いて帰るような子は家に入れません"と玄
関の戸に鍵を
廊下の隅の祖父の漢詩の草稿を開いたり閉じたりしていると勉強家
だと飴をくださった
 昔から弱虫だから あの位の酒で癌なんて
 しっかり飲まないからです
 死に際が心配でね 男らしくいくか
紋服を持て でしょ 何度もききましたよ
 聞いたからって 出来るものか
病床の祖父は死期を悟ると紋服を持たせ着替え袴を広げて身に
付けたさまにし 端座して逝ったと 死期の悟り方を教えて下さい
それに紋服は戦後お米にかわりましたよ
祖母はあきれた顔を
して消えた

ご心配ご無用 端然と盃を持って逝きます