最近感じること(ブログ版)

粕井貫次の書き下ろし個人エッセイ

懐かしい名の芳本倉太郎

2012年06月26日 | 小話
一昨日、「いこま番傘」川柳会で宮田宜子さんから「川柳二七会の句誌634号
6月号)を頂きました。634は偶然にも東京スカイツリーの高さと同じです。
ところでその表紙裏に「二七誌掲載句抄」(二七誌昭和36年5月号より)の欄
があり、兼題「落語」岸本水府選で17句が掲載されていました。
 その中に川柳の作者の名が出ていましたが、そのお一人芳本倉太郎さんはよ
く私の家にも来られ、父粕井豊誠(画家)と趣味や遊びなどの友人だったことを
覚えています。
 父は郷土玩具、土鈴、箸置き、こけし人形、木版刷り浮世絵などを蒐集する
のが趣味でした。その仲間の会、面茶会、娯美会、八手会などによく出かけて
いたようです。芳本さんのことを父は「よしくら」さんと呼んでいました。
歳は父より10歳くらい若かったようです。お住まいは新町にあり、お訪ねし
たとき瀟洒な奥さんと綺麗な姪ごさんがおられました。9月の月見の季節に父
とよしくらさんに連れられ、今でもある平野町のガスビル屋上での観月会に行
き、江戸前にぎりをいただいた思出があります。私は確か小学校5年生くらい
のことです。戦時中は趣味や遊びは出来なくなりました。「よしくらはどうし
て食っているのかわからん」と父がよく言ってましたが、支那事変が長引き、
徴用令で男子は軍需工場などで働かねばならなくなりました。よしくらさんは
徴用逃れに京阪電鉄に勤められたようです。その頃電鉄会社では、自社の身分
証明のカードを見せれば他社の路線も顔パスで同行者も通れる慣習がありまし
た。父はよしくらさんとよくご一緒して顔パスであちこち遠くまで行ったよう
です。でも「改札でどうも気が引けて」といっていました。
 話はもとに戻りますが、掲載句の作家の中に、父がよく口にした人の名前が
ありました。桂 米朝、林家染丸、旭堂南陵など噺家の方々です。薩摩卯一と
ありますのは美々卯の経営者と思います。画家の藤原せいけんさんの名もあり
ました。父は川柳はやりませんでしたが、こうした方々の名をときどき言って
いましたので、とどこかの会で交流があったものとおもいます。
  春団治はでな羽織をはでにぬぎ         芳本 倉太郎
  落語家は税務署へきて話下手          藤原せいけん

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