KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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輝く!日本マラソン大賞2006vol.2~特別功労賞

2006年12月31日 | 日本マラソン大賞
今回で6回目にあたるこの「マラソン大賞」だが、今回初めて新たな賞を設けた。しかし、本来ならあって欲しくない賞である。

今年、2人の実業団指導者が若くして亡くなられた。

☆特別功労賞
高橋浩一
ジョセフ・オツオリ

高橋浩一は1962年生まれ。土浦日大高から旭化成入社。18回走ったマラソンの中で優勝は'89年の延岡西日本1度だけ。同じチームの上の年代には児玉泰介と谷口浩美が、下の世代には森下広一と川嶋伸次がいた。彼ら五輪代表ランナーや元・日本記録保持者の「谷間の世代」と呼んでは失礼だろうか。

'94年のロッテルダムマラソンで旭化成の朝比奈三代子が当時の日本最高記録で優勝した。その後の記者会見で彼女は高橋浩一との婚約を発表して、マラソン・ファンを驚かせた。マラソンに限らず、女性アスリートが指導者から
「恋愛はご法度」
と釘を刺されていて、結婚が競技生活の終焉を意味していた時代である。彼女の快挙を支えたのが、高橋の存在であったとともに、高橋自身が前年の10月にマラソンの自己ベスト(2時間10分55秒)をマークした力のいくらかも、朝比奈から受け取ったものだったことは想像できる。現在では、結婚後も一線で競技を続ける女性ランナーは決して珍しくはない。弘山晴美とともに、その先駆けとなったのがこの2人と言えるだろう。(朝比奈は結婚後は目立った実績を残せずに引退してしまったが。)

高橋についてはもう1つ印象的なエピソードがある。延岡を本拠地とする旭化成陸上部から「戦力外」を通告され、中部地方の事業所に転勤した経験を持っているのだ。そこで、勤務の後にロードを走り始めたところ、通りすぎる車からクラクションを鳴らされ、延岡がいかに恵まれた競技環境だったかを思い知ったのだという。延岡はダンプカーも、旭化成のランナーを見つけると速度を落とすのだそうである。

僕の友人で、若い頃に中部地方の実業団に所属していたランナーがいる。彼が当時の高橋のチームメイトと面識があったそうだが、彼がその人から聞いた話では、
「高橋さんは本当に、競技に対する姿勢が僕らとは全く違ってましたよ。さすが延岡にいた人だなと思いました。」
とのことだった。いつか延岡に再び戻りたいとの気持ちを強く持ち続けて、願いを果たしたのだった。

3月15日、胃がんで逝去。享年43歳。遺体を乗せた車は旭化成の練習コースやグラウンドの周囲を回り、グラウンドで陸上部員らがトラックの鐘を打ち鳴らして故人を見送ったという。

ジョセフ・オツオリの名前を知らない人も、「箱根駅伝を初めて走ったケニア人」と言えば、ブルーのランニング・シャツの褐色のランナーを思い出すだろう。'89年の箱根駅伝、箱根出場3度目の新興校、山梨学院大学の2区に登場し、8位でタスキを受け取り、トップに踊り出た彼の走りは1つの事件だった。これ以後、箱根駅伝という競技そのものを変えてしまったと言えるかもしれない。

ケニア人留学生の存在そのものが今もなお賛否両論となっている。ただ、オツオリ本人は生前のインタビューで自身が4年生の時の山学大の初優勝の時には自分は区間賞を取れなかったと語っていた。決して自分1人の力だけで優勝したのではないことを強調したかったのだろう。

彼の人柄を多くの関係者が褒めていたが、僕が彼を生で目にしたのは'99年の北海道マラソンにて。スタート前に、シューズに取りつける記録測定用のチップを指でつまんで不思議そうに眺めている様がおかしかった。レース後のパーティーで彼に、
「オツオリさん、どうでした?今日のレースは?」
とたずねると、苦笑いしながら、
「う~ん、ダメダメね。また来年来年。」
と答えてくれた。卒業後、「愛媛が生んだ最高のマラソン・ランナー」だった、谷村隼美が監督に就任していたトヨタ自動車陸上部に入ったものの、マラソンのベストは2時間16分33秒と意外に冴えなかった。この原因について、最近発売された箱根駅伝の関連本によると、ケニアに帰郷していた際に遭った交通事故の後遺症のせいだったと明かされていた。そうだったのか。今年の9月にケニアに帰郷していた際に交通事故で亡くなったというニュースについてコメントする、学生時代の恩師である上田誠仁監督が、
「車の運転には気をつけろと言っていたのに・・・。」
と顔を曇らせていたのはそういう事情もあったからだったのか。

トヨタ退社後、ケニアに帰国した彼が再来日し、重川材木店で「走る大工さん」として日本での競技生活を再開したのも、実はケニアで土地の売買をめぐって詐欺にあい、日本で貯めた金の多くを失ったからだとも、先述の雑誌では伝えられていた。「人の良さ」が裏目にも出ていたようだ。そう言えば、ケニアに帰国する直前に収録した、テレビの企画でお笑い芸人たちを相手に鬼ごっこをする姿が死後に放映されていた。そんな仕事も引き受けていたのも、家族を養うためだったのだと思うと悲しくなった。

8月30日、ケニアで交通事故死。享年37歳。彼の死をネットで知ったのとほぼ同時に、日本の学生ランナーがヨーロッパ遠征で5000mで好記録をマークしたニュースを知った。
その1人、東海大の佐藤悠基の高校時代の指導者は、箱根でオツオリからごぼう抜きされたランナーの1人である両角速だったし、もう1人、竹澤健介を指導する早稲田大の監督は、オツオリの後輩、真也加ステファンのライバルだった渡辺康幸である。単なる偶然かもしれないが、学生時代に箱根で、ケニア人留学生の走りを目の当たりに見たランナーが指導者となり、トラックで世界の舞台で戦える長距離ランナーを育てている、というのも、オツオリの遺産かもしれない。

(文中敬称略)


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