東習志野永遠のサッカー小僧

こちらはただのサッカー馬鹿が気まぐれでアップする勝手気ままなページです

私のサッカー歴(その3)

2009年12月05日 | 私のサッカー歴
本日は、過去2回意外と好評だった「私のサッカー歴」シリーズの
最終章を書かせていただきます。



私は今、凄く後悔しているのですが、本当に中学時代はプレー的には、
消極的な選手でゲームメーカーという花形のポジションの割には、
目立つ事が嫌で確実性はあったかもしれませんが、受け身的なプレーが
多かったと思います。


結局、中学のサッカー引退まではその感じでいってしまいました。

その反動なのかわかりませんが、夏の引退後の受験勉強シーズンは、毎日
近くのグラウンドで「高校に進んだらプレースタイルを必ず変えるぞ」と
本当に良く練習していました。


多分、私のサッカー史で一番成長した半年間だったと思います。

そのサッカーを皆とやりたくてもやれない半年が3年間で一番充実していた
気がします。


やはり、勉強も仕事も何でも基本は本人の『やる気』というのが遅かれ
気付いた時期でした。


一人の練習中も頭の中では常に高校サッカーのテーマ曲
『振り向くな君は美しい♪』が流れ国立競技場でプレーする姿を勝手に
想像し、テンションを上げてました。(はずかしい)


そのモチベーションのまま、当時の先生の推薦であった「千葉E高等学校」に
無事、入学致しました。


当時のE高校は前年に千葉県の私学大会で優勝しており推薦制度もあり、
サッカーには力を入れている学校でした。


私の中では高校生活=サッカーだったので入学式等は全然興味がなく春休みから
始まる練習がワクワクしてました。


だったのですが…。


ここから先はもうあまり話したくはないのです。


本当に…。





結論から言いますと、入学後の5月頃、原因不明の腰痛で歩く事も辛い
状況になってしまったのです。

接触プレー等の原因があった訳でもなく、今でも何がなんだかわかりません。


当時6箇所の病院にも通い、希望の光を求めたのですが、ダメでした。


最初の頃は、練習見学をしていたのですが、悔しくて悔しくて見ているのも
辛くなりその年の11月頃、正式に退部してしまいました。


久しぶりにその当時の事を思い出してみましたが今でも胸が苦しくなります。

期待してくれた中学の先生、親、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。


社会人になった頃は、そのシーンを吹っ切れたつもりでしたがやはり私の
人生の中ではそこが一番の分岐点だったと断言出来ます。


高校であの元日本代表・鹿島アントラーズのN・A君とチームメートとして
出会ったのですが、自分がプレー出来なくなってしまったので
遊び以外のサッカーのいい想い出はありません。


でも彼はやはり当時から凄かったです。20歳の頃、津田沼の終電で偶然
再会し、食事したのが最後です。

長い現役生活、お疲れ様でした。




という事で私のサッカー歴は正確に言うと華々しい中学校時代で終わって
いるのです。


結局、原因不明の腰痛も高校卒業前には、いつの間にか完治しており
勿論、今では、ピンピンです。


高校在学中、卒業後も『サッカー』という言葉には過敏に反応してしまう
ようになり当時すごくピリピリしてました。


あの頃を思い出すと、凄く切なくなりますが、やはり時間、経験が解決というか
今では、当たり前にサッカーの素晴らしさを再認識しフットサル、子供の
サッカーに携わっています。


私の現役サッカー選手としての時間は短かったかもしれませんが、それ以降の
サッカー(今現在)生活も本当に充実しています。


子供達には身体が健康な限り、サッカーは続けて欲しいと思います。

うまくなるだけではなく、友達との友情、上下関係、根性等、サッカーが
教えてくれる、残してくれる事はたくさんあります。


将来、私と同じような事を気付いてくれると嬉しいです。




以上、この『その3』を話すまでは何となく憂鬱でしたがこれからも
色々な形でサッカーを続け近い将来『その4』を書ける日を
自分でも楽しみにしています。









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