言語楼-B級「高等遊民」の戯言

日本語を中心に言葉の周辺を“ペンション族”が散策する。

続・初めて見た竹林(06/06/23)

2006-06-23 22:07:26 | 言葉の遊歩道

 生まれ故郷の釧路に「竹」がまったくないわけではない。笹竹の類なら子どもの頃から知っていた。ただ、一般的な竹のイメージから見ると余りにも細く小さいので、たとえば「破竹の勢い」という熟語を挙げると、何本もの竹を踏みつぶして突き進んでいくような印象を持っていた。ところが、辞書には「竹は一節を割ると後は一気に次々と割れていくところから」生まれた言い回し、とある。なるほど、笹竹ではなく、孟宗竹のような”本物”の竹を手に取り、実際に割ってみるとよく分かる。同様に「竹を割ったような性格」という言葉が文字通り「竹はまっすぐ割れることから、さっぱりとした気性」を意味することも合点がいく。

 しかし、「雨後の竹の子」は、竹の実物を見ただけでは今一つピンとこなかった。むろん、意味も用法も知っており、自分でも何回となく使ってきた言葉なのだが、得心がいったのは、水戸市郊外の友人宅の裏庭で竹の子採りをしてからだ。初めての体験だったので最初のうちは竹の子探しに熱中したが、何本もの竹の子が庭のあちこちにニョキニョキ顔を出すのには驚いた。掘っても掘っても、日が変わるとまた次々と生えてくるのだ。ましてや雨の降った後ならさもありなん、と実感した。
 
 一知半解のまま覚えていたのは「竹の子生活」という言葉だ。なにせそれまで筍なるものは缶詰製品しか知らなかったので、戦後間もない頃の貧しい暮らしぶりの比喩として、筍ぐらいしか食べられない状態を表現している言葉かな、と漠然と思っていた。しかし、ほんの少し頭を働かせれば、生の筍はともかく缶詰は、当時かなりの高級品で生活困窮者には縁遠いはずなのだから、間違いに気付いてしかるべきだった。それにしても「竹の子の皮を一枚ずつはぐように衣類などの持ち物を売って生活費に充てる生活」の喩えとは恥ずかしながら知らなかった。この言葉、近頃トンと聞かれないような気がする。

 以上、竹にちなんだ慣用語との個人的な関わりを二、三挙げてきたが、「竹」を題材にしたのは自分の無知さ加減を示す象徴的な例と思ったからだ。その由来どころか意味もよく知らずに使ってきた言葉や読み方を間違えていたことば、用法を曲解していたコトバは数限りない。そうした過去の失敗は、年齢を重ねるにつれて気づく事例が増えてくる。今になって知るのは恥ずかしい。しかし、知らないままでいるのはもっと恥ずかしい。
 

 《参考》1回目のブログ(06/06/15)で竹取物語のかぐや姫についてひと言触れたが、その二、三日後、読みさしの岩波新書(新赤版)「日本語の歴史」(山口仲美著)を開いたところ、偶然にも竹取物語の冒頭の一節が引用されているのを見て驚いた。古典文法の変化の一例として係り結び(ぞ、なむ、や、か、こそ)に言及した個所で、「その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける」を挙げていた。その続きを、他のテキストを参考に紹介すると「それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうてゐたり」 となる。この「人」こそがかぐや姫というわけだ。