言語楼-B級「高等遊民」の戯言

日本語を中心に言葉の周辺を“ペンション族”が散策する。

続・「すべからく」は「全て」ではない(06/11/20)

2006-11-20 16:25:22 | 辞典
    「すべからく」という語を使う場合は原則として「べし(べき)」で受ける、と頭から思いこんでいたので、金田一春彦氏の『日本語教室』(ちくま学芸文庫)の中で次の行(くだり)を目にした時は非常に驚いた。

     「このようなことは日本文を扱うあらゆる方面で起こることで、日本語はすべからく、短文で綴れ、ということになる」

     「このようなこと」とは、長い文は適当な個所でまず一旦切ったほうがよい、という文脈の後に続く言葉だ。しかし、「すべからく」の後ろに「べし(べき)」がない。金田一春彦氏といえば、何冊もの辞書の編纂も手がけている国語学の泰斗である。日本語に関する専門書はもちろんのこと、啓蒙書の著作も数多いが、ひょっとして「弘法にも筆の誤り」か、とも思い、前後を何回も読み返したり、いくつかの辞書・参考書にあたってみたりした。

     昔、高校時代に受けた漢文の授業では、漢文訓読の際、二度読みする漢字を「再読文字」というと教えられた。よく知られているのは「未(いまだ~ず)」、「将(まさに~とす)」などだが、もちろん「須(すべからく~べし)」も再読文字の一つである《注》。

     例えば、日本最初の和英辞典とされるJ.C.ヘボンの『和英林語集成』第3版の復刻版(講談社学術文庫)でも、「SUBEKARAKU スベカラク 須」の項目で、“Well or proper to do, ought, necessary, requisite ”と英文で語義が示され、続いて「Subekaraku kokoro wo kore ni mochiyu beshi」と日本語の例文が“ヘボン式ローマ字”で挙げられている。「すべからく」の後は「べし」だ。再読文字の原則にきちんと則っている。

     金田一氏の上記の文は「べし」も「べき」もない。外形的にはおかしい。しかし、何事も原則通りにはいかない。まして言語は変化するものであり、例外も多い。

     日本最大の国語辞書『日本国語大辞典』第2版(小学館)の「すべからく」の項は、37行にわたって詳述されているが、その中の語誌欄に、

「須」を訓読する際に生じた語。中古(平安時代)初期には単に「べし」とだけ読まれる例が多かったので用例が少ないが、中期以後盛んに用いられるようになった。「べし」のほか、「む」や命令表現で再読する例もみられる。

とある。「べし」のほかに命令表現で再読する例もあるというのだ。「綴れ」はまさに命令表現。となれば、金田一氏の上記の文はなんの問題もない。一知半解の不明を恥じるばかりだ。

     ちなみに、『日本国語大辞典』第1版の編集委員には、金田一春彦氏が名を連ねており、編集顧問として氏の父・金田一京助の名があった。


《注》 『社会人のための漢詩漢文小百科』(大修館)は、「漢字一字で、国語の副詞的な意味と助動詞または動詞的な意味とを兼ね備えている文字」と解説した上で、「はじめに副詞的に読んでおいて、さらに下から返って助動詞または動詞的に読む」と説明している。


「すべからく」は「全て」ではない(06/11/10)

2006-11-10 21:55:50 | 辞典
    文筆を業としているような人でもうっかり間違えて使う言葉の一つに「すべからく」がある。漢字では「須らく」あるいは「須く」と表記する。元々は漢文訓読から生まれた用法で「すべからく~すべし」と使う。「当然(あるいは、為すべきこととして)~しなければならない」という意味だ。「学生はすべからく勉強すべきである」といった具合に用いられる。

    ところが、この「すべからく」を「すべて」のという意味の高級な、あるいは高尚な表現と思いこんで誤用している例が目立つ。よく引き合いに出される「学生は……」という上記の例文のように、「すべて」の意味でもごく自然に通じるケースが多いからだろう。実際、両様にとれる文脈も少なくない。だからというわけではないが、私自身も若い頃、「すべて」の意味で使ったことがあるような気がするが、「すべからく」には「すべて」の意味はまったくない。

    言葉についての造詣が深い呉智英氏や高島俊男氏は、それぞれの著作の中で高名な学者・評論家の実名を挙げて「すべからく」の誤用例を指摘しているが、私が自分で見つけた、誤用ではないかと思われる例を一つだけ挙げてみよう。

    それは、直木賞受賞者というより当代きっての流行作家・渡辺淳一氏の『創作の現場から』(集英社)のこんな一節だ。「はっきりいって小説家に限らず表現者たるものはすべからく、時代に合わせたいと思っているものです」。

    「すべからく」は下に「べし」や「べきだ」を伴って“義務”や“当然”、“必要”を表すのが普通の語法なのに、渡辺氏のこの文には、「すべからく」に呼応する「べし」や「べきだ」という語もないので、「表現者たるものすべて」の“願望”を示しているものと思われる。文体が「です、ます調」だから、あるいは口述筆記をして編集者が誤ったのかもしれないが、本のオビに「小説をどう書いてきたか。小説はどう書けばよいか。」とあるのは皮肉だ。

    「すべからく」という語を国語辞典はどう扱っているか。ここ数年の間に刊行された新しい辞書の中には、誤用について注意を喚起しているものも出てきた。『明鏡国語辞典』(大修館)の場合、「語法」欄に
「落ち武者たちはすべからく討ち死にした」など、「すべて」の意に解するのは誤り。
と解説している。

     また、先月下旬に発売されたばかりの『大辞林』第3版(三省堂)も、言葉の由来と語釈《注》の後に、第2版にはなかった次のような注記を添えている。
(近年「各ランナーはすべからく完走した」などと「すべて」の意で用いる場合があるが、誤り)

      前回、前々回で紹介したように辞書にも時に間違いはあるが、それでもなお、文章を書く者の最低限の心構えとしてすべからく座右に辞書を備えておくべし、と今改めて思う。


《注》[漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)の約。下に「べし」が来ることが多い]ぜひともしなければならないという意を表す。当然。「学生はすべからく勉強すべし」(古くは「すべからくは」の形でも用いられた]

《補足》「すべからく」の語の文法的な解析について『日本国語大辞典』第2版(小学館)は次のように記述している。
     [サ変動詞「す」に、推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる]
     
     

続・辞書の「誤謬」(06/10/30)

2006-10-30 16:38:30 | 辞典
    英語には「リンカーン大統領は何代目か」と直截簡明に「何代目か」を尋ねる言い回しはない、という。本の題名は忘れたが、英語のネイティブスピーカーで日本語にも堪能な外国人の著作にそんな内容が書いてあるのを読んだことがある。そう言えば高島俊男氏の『お言葉ですが……』シリーズ⑤(文春文庫)に、同じテーマを軽妙な筆致で扱っていたのを思い出し、数種類の和英辞典にあたってみた。

    その一つ、ソニーの電子辞書《注1》に搭載の『新和英中辞典』第4版(研究社)には、「リンカーン大統領は何代目のアメリカの大統領ですか――16代目です」という文例の日本語の後に“How many presidents were there before Lincoln?”という英語が載っている。「リンカーンの前には何人の大統領がいたか」というのだからいかにも回りくどく、とうてい“直截簡明”とは言い難いが、質問の意味は通る。しかし、ここで取り上げたのは、質問の仕方についてではない。辞典の答えに「誤謬」があったからである。

    例文にある答えの英文は、なんと“Sixteen”、つまり「16人」だ。しかし、これではリンカーンは16代目ではなく17代目の大統領になってしまう。質問の英文に対する答えとしては“Fifteen”でなければならないところだ。

    おそらく日本語の「16」につい引きずられて勘違いしたのだろう。さすがにその後改訂された『新和英中辞典』第5版(2002年9月発行)では、同じ例文の答えの英語の個所は“Fifteen”に直っていた。

    間違いにはあたらないが、本来載せるべき言葉をうっかり欠落したまま刊行された例もある。私の座右の辞書『明鏡国語辞典』(大修館、2002年12月1日初版)には、ほとんどの辞書が見出し項目に立てている「他山の石」という成句が見あたらない。この言葉は、あの『新明解』の主幹を務めた山田忠雄氏が『私の語誌 1』(三省堂)という単行本の中で60㌻近くも割いて多数の用例を詳しく分析したほどの必須語である。「日本語の“達人”になる」を謳い文句にしている『明鏡』が意図的に落とす語とは考えられない。

    案の定と言うべきか、2003年12月1日付け発行の『明鏡国語辞典 携帯版』には新たに「他山の石」の項目が立てられた。出典も含め4行にわたる語義が添えられている。この携帯版、親版より大きさが一回り小ぶりになっただけでページ数はまったく同じなので、2,3の語の語釈を虫食い削りしてスペースを作り出し、押し込んだのだ。ほかのページへ影響が及ばないようある1ページだけの中で処理されており、苦心のほどがうかがわれる。

    何度読み返しても意味がつかめず、首をひねるケースもある。例えば、当ブログ06/10/10号の【辞書の個性】で取り上げた「右」の語義について、『日本国語大辞典』(小学館)は「正面を南に向けたときの西側にあたる側。人体を座標軸にしていう。人体で通常、心臓のある方と反対の側。また、東西に二分したときの西方」と説明している。

    私がひっかかったのは後段の「東西に二分したときの西方」という部分である。東西に二分したのなら、右は「西方」ではなく、「東方」にあたる、としか思えないのだが、今年1月に刊行された『精選版 日本国語大辞典』《注2》でも「東西に二分したときの西方」という記述を踏襲している。「正面を南に向けたとき」という冒頭の説明を前提にした記述というのであれば、「西方」はダブリになるのだから、後段の「東西に二分したときの西方」はまったく不要と思うのだが、あるいは当方の読み方・解釈が間違っているのか。ともかく辞書の語釈として分かりにくい記述だ。


《注1》DIGITAL DATA VIEWER DD-IC2050

《注2》13巻からなる親版(索引を入れると14巻)を全3巻に凝縮して編集。新語や新用例も加えられているが、中身はほとんど親版と同じ。


続・辞書の個性(06/10/20)

2006-10-20 10:20:02 | 辞典
    辞書の個性は、語の定義・語釈だけでなく、用例にも顔を見せることがある。「洒落」(しゃれ)という言葉を例に引くと『岩波国語辞典』(第5版)は、

       【(言葉の同音を利用して)人を笑わせる、気の利いた文句。例、「へたな洒落はやめなしゃれ」の最後の部分が「なされ」とかけてある類。】

と、説明し、あえて?下手な洒落の実例を引き合いに出している。お堅いイメージのある岩波書店の辞典にしては珍しく遊んでいる感じもするが、個性的なことでは比類のない『新明解国語辞典』(三省堂、第5版)はどうかというと、

       【(その場の思いつきとして)類音の語に引っかけて、ちょっとした冗談や機知によってその場の雰囲気を和らげたり、盛り上げたりする言語遊戯。例、潮干狩りに行ったがたいして収穫がなく、「行った甲斐(=貝)がなかったよ」と言うなど。】

という具合で、洒落のレベルでは『岩波国語辞典』より一枚上手だ。

     用例が、どの語についても上記のように個性的というわけではない。いくつかの辞典でまったく同じ用例を挙げているケースもある。

     例えば「回文」(かいぶん)という語の場合。『岩波国語辞典』の定義に従えば、「上から読んでも下から読んでも、同じ言葉になる文句」だ。その用例として同辞典は、有名な「たけやぶやけた」という“文句”を載せている。同じ例文は、『現代国語例解辞典』(小学館)も、『大辞泉』(同)も出している。なんと『新明解国語辞典』も同じ例を挙げているのだ。しかし、「逆さ」、「田植え歌」と別の用例も追加し、独自色をアピールしている。(「たけやぶ……」の例は全文ひらがななのに、追加の例を二つとも漢字かな交じりにしているところに、ある意味が込められているように思える)

     カラー図鑑も兼ねた国語辞典の嚆矢(こうし)とも言うべき『日本語大辞典』(講談社)と、編著者陣が執筆した『問題な日本語』シリーズがベストセラーになって“副業”でも話題を集めている『明鏡国語辞典』(大修館)では、共に「たけやがやけた」という同じ用例を示している。上述の多数派とは「ぶ」が「が」に変わっただけだが、これもまた辞書の個性というべきか。


     〈参考〉「回文」は英語で“palindrome”というが、手元にある英和辞典10種のうち『リーダーズ』(研究社)、『ジーニアス』(大修館)、『新グローバル』(三省堂)など実に8種までもがそろって“Madam, I’m Adam”というまったく同じ用例をあげている(中には、その1例に加えて別の例文や単語を掲げている辞典もある)。
      
      ちなみに英英辞典では、“POD”の愛称で知られるオックスフォードの小型辞書が “nurses run”という文例を挙げている。英語を第二言語としている学習者向けの辞書の中では『ロングマン現代英英辞典(LDOCE)』が“deed”と“level”、『コウビルド英英辞典』が“refer”と、文ではなく単語を例に出している。米国の辞書を代表する『ウエブスター』の用例は、“Madam, I’m Adam”と“Poor Dan is in a droop”の2文だ。

辞書の個性(06/10/10)

2006-10-10 22:10:01 | 辞典
  辞書を使うのは、難しい漢字の書き方や読み方、見慣れない単語の意味を調べる場合だろう。このような「辞書を引く」使い方だけでは、辞書の個性――語釈の違い――にあまり気付かないかもしれないが、辞書を「読んでみる」と、どれも同じように見える辞書に意外と違いがあることを知って驚くに違いない。

  ユニークな語釈で辞書マニアだけでなく、一般にもファンの多い『新明解国語辞典』(山田忠雄主幹、三省堂)=参考サイト。その中でも有名なのは、「恋愛」の項目だ。改訂のたびに語釈の過激度は減り、“穏健”に変わってきているが、それでも最新版の第6版(2005年1月10日第1刷)では、

   【特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分ち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと】

  と独創的な語釈を示している。普通の国語辞典なら「男女間の、恋いしたう愛情。こい」(【岩波国語辞典】第5版)といった程度で済ますところだ。

  辞書の個性は、抽象的な言葉の語釈に表れやすい。例えば「右」という誰もが知っている言葉についての語義が、上記の『新明解国語辞典』と【岩波国語辞典】の二つの辞書でどう違うかみてみよう。

     【アナログ時計の文字盤に向かった時に一時から五時までの表示の有る側(「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致)】=『新明解国語辞典』第5版
    
     【多くの人がはしや金づちやペンなどを持つ方(からだの、心臓が有る方の反対側)】=『新明解国語辞典』第3版

     【相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方、またこの辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う】=【岩波国語辞典】第5版


  辞書によって、あるいは同じ辞書でも改訂版によって、それぞれに工夫が凝らされ、大きな違いがあることがお分かりだろう。



《参考サイト》http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/


辞書の「誤謬」(06/10/01)

2006-10-01 22:48:05 | 辞典
   このブログを書く際、常に手元に欠かせないのは辞書類だ。毎回、少なくとも数種類の辞典、事典を参考にする。

   文字や意味を調べるのに頼りになる辞書だが、絶対視すべきではない。言葉足らずの説明や肝心の語釈の間違い、まれには誤植もある。

   簡にして要を得た小型の国語辞書として定評のある『岩波国語辞典』。その第3版の第1刷(1979年12月4日発行)に何とも皮肉な誤植があった。「誤謬」という漢字が間違っていたのだ。語の定義だけでなく規範意識にもすぐれた『岩波国語辞典』を初版から愛用している私は、第3版についても発売されるとすぐ購入したらしく、問題の第1刷を持っている。それにはこうある。

      ごびゅう【説謬】あやまり。「――を犯す」

   注意深く見ないと読み飛ばしてしまいかねないが、「誤謬」の「誤」を「説」という間違った字のまま印刷・発行してしまったのである。この辞書の用例に従えば、自ら「誤謬を犯した」わけだ。

   この「誤謬」は次の刷りから「正された」ことは言うまでもない。こうしたことがあるから辞書は新しいものができても初刷版の購入は見送り、2刷以降を買うべきだ、といわれるが、辞書マニアとしてはミスを見つけるのもまた楽しみの一つだ。

   誤植のようなケアレスミスとは違って語釈、語の定義の間違いは、辞書の根幹に関わる。一例として「酢豆腐」をみてみよう。

   手元にある『広辞苑』の第4版と第5版には、
      (知ったかぶりをする人が酸敗した豆腐を「酢豆腐という料理だ」と称して食べたという笑話から)知ったかぶり。きいたふう。半可通。
   
   とある。なんだか、この文を引用している私自身を指しているようでいささか気がひけるが、それはさておき、『広辞苑』の初版では、語義の1番目になんと「生豆腐に酢をかけた食品」と実在する料理として載せられていた。「きいたふう。半可通」という正しい語義が挙げられていたは2番目だった。

   ウエッブ上のフリー百科事典『Wikipedia』も「虚構記事」の項の中で、
      《『広辞苑』の第3版には、酢豆腐についての虚構記事が含まれていた。「酢豆腐」という落語の題材からとった言葉で、半可通を意味する。酢豆腐なる食べ物は実在しないのに「豆腐料理の一種」と記載されていた》

   という主旨の解説をしている。しかし、私の持っている第3版(3刷)では正しい説明になっているので、あるいは第3版の途中の刷りから訂正したのかもしれない。

   『国語辞書事件簿』(石山茂利夫著=草思社)によれば、『広辞苑』の前身の『辞苑』も、その親辞書の『広辞林』、『辞林』などの辞典も同工異曲の語釈をしていたといい、このうち『広辞林』は昭和58年発行の第6版でも直っていないそうだ。先行辞書の孫引きで「誤謬」までもが踏襲されてきていたのである。

   辞書は引くだけでなく、読むのも楽しい。しかし、誤謬を犯されては困る。