言語楼-B級「高等遊民」の戯言

日本語を中心に言葉の周辺を“ペンション族”が散策する。

引っ越しました(07/01/10)

2007-01-10 13:31:42 | 言葉の遊歩道
  ブログ「言語楼」を引っ越しました。

移転先のURLは、
    http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june
                        です。

  これまで見ていただいてありがとうございます。引っ越し先にも、ぜひのぞきに来てください。

格言に見る国民性(06/12/30)

2006-12-30 20:11:20 | ことわざ
    前回の「格言の二面性」(06/12/20)の中で、「沈黙は金」の語句に*印をつけたのは、この格言に“金”と“銀”に対する興味深い価値観が隠されているからである。

    「沈黙は金」は、英語の“Speech is silver, silence is golden”(雄弁は銀、沈黙は金)の後半部分から取ったものだ。英国の思想家・歴史家のカーライルの『衣装哲学』にある言葉という。常識的な解釈は、弁舌さわやかに語るよりも沈黙している方が効果的ですぐれている、だろう。日本人の伝統的精神にもピッタリ合う。「言わぬが花」あるいは「多言は一黙にしかず」というわけだ。

    ところが、『岩波ことわざ辞典』の解説を読んで驚いた。実は欧州では19世紀までは実質的に銀本位制で、金より銀の方が価値は高かった、というのだ。つまり、沈黙より雄弁の方が高く評価されていたことになる。

    ある説によれば、この格言の由来は古代ギリシャにまで遡る。当時の雄弁家、デモステネスが「市民諸君、君らも私のように大いにしゃべりたまえ。沈黙は金の価値しかないが、雄弁は銀の価値があるのだ」と演説したことから出たという。この説については、根拠が見つからない、と疑問視する見方もある。ただ、このブログで私が言いたいのは、「雄弁は銀、沈黙は金」という格言の意味が国や歴史によって違うこともあり、必ずしも通説のように解釈されているとは限らない、という点である。

    外国生まれのことわざでは、「転石苔を生ぜず」も国によって180度解釈が違う例の一つだろう。もともとはギリシャ語、ラテン語に由来するそうだが、日本には英語の“A rolling stone gathers no moss”が伝わり、これがいかにも漢語風に翻訳されたものらしい。日本では「職業や住居を変えてばかりいる人は、地位も財産もできず、仕事も成就できない」という意味に取る人が大半と思う。英国も同様のようだ。

    しかし、同じ英語圏でも米国では「いつも積極的に活動していれば、時代が変化しても沈滞することなくいつまでも古くならない」と逆の意味で使われる。NHKのラジオ講座「シニアのためのものしり英語塾」(2006年1月号)のテキストで、英米両国に詳しい講師の大杉正明氏は「動いていれば苔みたいな変なものがつかない。次から次へとよりよい条件の仕事や会社に移っていくアメリカ人ならこう考えても無理ないかという気がします」と述べている。要は、苔をどうみるか、である。味わい深いものとして評価するか、単なる垢(あか)とみなすか。

    「鉄は熱いうちに打て」は英語の“Strike while the iron is hot”を訳した言葉だが、二通りの解釈がある。一つは、鉄は真っ赤に焼けて柔らかいうちなら色々な形に変えることができるところから、「成長した後では思い通りの教育効果も出ないから純真な気持ちを持っている若いうちに鍛えておけ」という意味、もう一つの意味は「新しい物事や仕事を始めるには気持ちがさめないうちに、時機を逸せずに行え」である。前出の『岩波ことわざ辞典』によると、英語には前者のような教育的な教訓の意はなかったそうだ。


《参考サイト》 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/cassandra/cid/10599/
 

格言の二面性(06/12/20)

2006-12-20 12:00:27 | ことわざ
    「好きこそものの上手なれ」という。一方で、「下手の横好き」という言葉もある。趣味の碁で言えば、私の場合は「横好き」の部類だ。格言や諺の二面性はしかし、囲碁に関してのものより人生一般について語ったものに多いのは言うまでもない。

    よく使われる格言では「善は急げ」に対して「急(せ)いては事をし損ずる」とか「急がば回れ」とかの例がある。それじゃ、ゆっくりやるべきなのかどうか、と一人で思い悩むより「三人寄れば文殊の知恵」も出てこようかと何人かに相談すれば、あーでもない、こーでもない、と意見が一致せず、「船頭多くして船山に上る」ことになってしまう。

    「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」の心境で、つい「危ない橋を渡る」気になったが、「鷹は飢えても穂を摘まず」と諭されて慎重を期し「石橋を叩いて」渡った。その結果うまくいったので、「二度あることは三度ある」とばかりに同じ手法で次も試みたが、「柳の下にいつもどじょうはおらず」ガックリ。で、「果報は寝て待て」と無為を決め込んでいたら「まかぬ種は生えぬ」と“天の声”あり。

    やはり「寄らば大樹の陰」が無難か、いやいや「鶏口となるも牛後となるなかれ」というではないか、と思い直してみたりして決断つきかね、「山のことは樵(きこり)に聞け」という教えに従い訪ねてみた。が、意外にも樵は「灯台下暗し」で、その筋には明るくない。あるいは、「言わぬが花(沈黙は金*)」を美学にしているのかもしれないが、「言わねば理(ことわり)も聞こえず」である。

    では、と「血は水よりも濃い」親戚の所にはるばる出向いてはみたものの、期待した答えは得られず、結局は「遠い親戚より近くの他人」の助言で解決した。

    考えてみれば、格言、ことわざに相反するものがあったり、一見似ているようでニュアンスが微妙に違ったりするのは当然だ。人生が公式通りだったとしたら、この世は単純で変化もなく、無味乾燥、面白くもおかしくもない。哲学はもちろんのこと、文学も芸術も科学も存在しなかったであろう。

    「一石二鳥」を狙って成功することもあれば、「二兎追う者は一兎をも得ず」ということもある。1プラス1が必ずしもイコール2になるとは限らない。ある時は8になったり、またある時はマイナスになったりするのが人生だ

    「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という慣用句があるが、生まれで一生が決まってしまうようでは余りに寂しく味気ない。もちろん天才は存在する。同時に「大器晩成」の人もいる。歴史を見ても、ある面では「氏より育ち」で生きてきた市井の人びとが世を創ってきたのだと思う。極論すれば、真の歴史の主(あるじ)は庶民である。格言は庶民の知恵の宝庫。そこに時代を超えた人生の妙味があるのではあるまいか。


《参考》『岩波ことわざ辞典』、『慣用ことわざ辞典』(小学館)、『ベネッセ表現読解国語辞典』、『国語慣用句辞典』(東京堂出版)
 
    このブログの中ほどの段落で「言わぬが花」の後ろの(沈黙は金)に*印をつけた。次回は、この語句を題材の一つにして、ことわざに見る国民性の違いの一端をのぞいてみよう。




囲碁から生まれた格言(06/12/10)

2006-12-10 20:28:29 | ことわざ
    「時分どき」と「つとに」を取り上げた前回のブログは、囲碁の話をマクラに振っただけで、囲碁そのものには触れなかったので、今回は碁にまつわる「ことわざ」を紹介しよう。

    「一目置く」や「定石」「岡目八目(傍目八目)」「駄目押し」。いずれも碁から生まれ、一般にも広く使われている語句だ。囲碁には、とにかく格言、ことわざの類が際だって多いのである。囲碁の勝負、技術に限ってみただけでも――

    まず、基本的な布石の心得を説いた格言としては、「一にアキ隅、二にシマリ(またはカカリ)、三にヒラキ(四ツメ、五トビ)」が知られる。「一にアキ隅」といってもどんな手を打てば良いか。これに対しては「打ち出しはザルといえども小目なり」という戯れ歌まであるが、現在は「星」から始める対戦も多いようだ。

    序盤から中盤にかけては、「攻めはケイマ、逃げは一間」とか「一間飛びに悪手なし」「ケイマの突き出し、悪手の見本」とか「二目の頭は見ずハネよ」「切り違い、一方ノビよ」「左右同形、中央に手あり」などと具体的に石の運び方をアドバイス。中盤の戦術の考え方については、「大場より急場」と足元を固める重要性を指摘した上で「(自分で)厚みを囲うな」、そして「(敵の)厚みに近寄るな」という格言で戒めている。終盤での死活をかけた攻防についても、「一ハネ、二キリ、三にオキ」「2の一に妙手あり」「両先手逃すべからず」とか、「ヘタが打ってもハネツギ6目」と、時にユーモアを交えて勝負所のテクニックを教える格言もある。

    こうした碁の格言が、優に数百はある。格言にしたがって石を置いていけば「一局の碁」になるとさえ思えるが、もちろん、それだけで勝てるほど碁は単純ではない。碁の世界は玄妙にして深淵。しかも、小宇宙にも喩えられるほど広く、盤上の変化は“人智”でははかりきれない。一流の棋士が碁を単なる「知的ゲーム」ではなく、「芸」と表現する由縁だ。従って格言の中身も、どのような角度から碁を見るかによって違ってくる。当然、相反する表現もある。

    例えば、「コスミ」。石を斜めに置くことだ。動詞にすれば「コスむ」。タイミングよく適切な場面で使えば、「コスミの妙手」と評される。中でも有名なのが「秀策のコスミ」だ。江戸時代の本因坊秀策が、隅で受ける手として愛用したことで知られる。その一方で、碁の初心者がこわごわ逃げ出す時などについ使うと、「へぼコスミ」と揶揄される。確かに「じょうずコスまず、へたコスむ」と、格言にもあるのだ。

    また、「眼あり眼なしは唐(カラ)の攻め合い」といいながら「眼あり眼なしも時によりけり」とか、あるいは、「ツケにはハネよ」と「ツケにはノビよ」のようにどちらの戦法を取るべきか迷うような格言もある。要はその時の局面によるわけだ。

    と、書いてくれば囲碁高段者と誤解されそうだが、実はいつまでたっても初段に手が届かない「級位者」である。先日の一泊碁会でも、大石の簡単な死活に最後まで気付かず周りをヤキモキさせたばかりだ。「定石を覚えて2目弱くなり」の格言に掛けて言えば「格言を覚えてもなお勝手読み直らず」のヘボの悲しさ、格言の使い分けができない。

    しかし、格言の二面性は碁に限ったことではない。次回は、一般的な格言について考えてみよう。



「時分どき」は「つとに」使かわない?(06/11/30)

2006-11-30 18:14:45 | 言葉の遊歩道
    先週の土曜から日曜にかけて、地元の囲碁同好会の仲間と温泉旅館に一泊して「碁会」を楽しんだ。目的地の駅に着いたのが昼過ぎだったので、軽くソバでも食べてから旅館に行こうということになったが、はじめにのぞいたソバ屋は満席だった。その時、一行の1人が「時分どきだから……」とつぶやいた。〈混んでいるのは仕方がないか〉という気持ちが独り言になったのかもしれない。

    「時分時(じぶんどき)」。久しく聞いていない言葉だった。「食事の時間」「めし時」という意味の、しっとりとして情趣に富んだ日本語だ。奥ゆかしい感じもする。私自身は口にしたことはないが、昔は時々耳にしたものだ。

    久世光彦氏の『ニホンゴキトク』(講談社)に、この捨てがたい言葉が出てくる。向田邦子さんと青木玉さんの作品から例文を挙げた後、「辞書を引いても、ただ食事の時刻としか書いてないが、朝御飯や夕飯にはあまり使わないのが〈時分どき〉の面白いところである。(二人の例文の場合も)これは昼御飯である。(中略)だいたい午前11時から午後1時までが〈時分どき〉ということになる」と解説している。確かに朝食や夕食にはしっくりこない。が、昼ご飯の頃を指すのには似合う。普通は話し言葉に使われるが、ちょっぴり渋くて粋(いき)な趣きさえする。

    それに比べて、標題に掲げたもう一つの言葉・「つとに」は、渋いというよりは心持ち構えた、仰々しい響きがある。それでいて誤用が多い。前回と前々回に取り上げた「すべからく」と、その点で共通している。

    「つとに」は漢字では「夙に」と書くのだそうだが、意味は「朝早く」「早くから、相当以前から」「幼いときから」である。「早朝」の意味では古くから用いられ《注1》、「春は曙」の書き出しで“つとに”知られる『枕草子』の第1段に、「冬はつとめて。雪のふりたるはいふべきにもあらず」《注2》〈冬は早朝(が素晴らしい)。雪の降った朝は言うまでもない〉という一節がある。

    現在ではたいてい2番目の意味で使われ、「大野晋氏は、つとに高名な国語学者である」という風な言い回しが普通だ。

    ところが、実際には、「特に」「大変に」「とても」の意味に間違って用いられているケースが目につく。「近頃つとに思うのは」とか「ここ最近つとに感じることがある」とか、といった具合だ。谷沢永一氏は『知らない日本語 教養が試される341語』(幻冬舎)の中で、「この店は、最近、タレントの○○が紹介して以来、“つとに”有名である」などという誤用が氾濫しているようだ、と例を示した上で、

      「つとに」は、「古くから、以前から」という意味で、「とくに」という意味はない。また、「先週」や「最近」のことでは、いささか新しすぎる。(中略)「つとに有名な店」とは、せめて五~六年は繁盛を保っている店をいうのである。

と、少し皮肉を込め戒めている。間違いがちな言葉として“つとに”知られていることではある。

    
《注1》「つとめて」は「つとに」の派生語。『岩波古語辞典』(大野晋、佐竹昭広、前田金五郎編)の「つとめて」の項には、「ツトは夙の意。早朝の意から翌朝の意になった」として「源氏物語」から二つの引用文を載せている。

《注2》『新 日本古典文学大系25』(岩波書店)

続・「すべからく」は「全て」ではない(06/11/20)

2006-11-20 16:25:22 | 辞典
    「すべからく」という語を使う場合は原則として「べし(べき)」で受ける、と頭から思いこんでいたので、金田一春彦氏の『日本語教室』(ちくま学芸文庫)の中で次の行(くだり)を目にした時は非常に驚いた。

     「このようなことは日本文を扱うあらゆる方面で起こることで、日本語はすべからく、短文で綴れ、ということになる」

     「このようなこと」とは、長い文は適当な個所でまず一旦切ったほうがよい、という文脈の後に続く言葉だ。しかし、「すべからく」の後ろに「べし(べき)」がない。金田一春彦氏といえば、何冊もの辞書の編纂も手がけている国語学の泰斗である。日本語に関する専門書はもちろんのこと、啓蒙書の著作も数多いが、ひょっとして「弘法にも筆の誤り」か、とも思い、前後を何回も読み返したり、いくつかの辞書・参考書にあたってみたりした。

     昔、高校時代に受けた漢文の授業では、漢文訓読の際、二度読みする漢字を「再読文字」というと教えられた。よく知られているのは「未(いまだ~ず)」、「将(まさに~とす)」などだが、もちろん「須(すべからく~べし)」も再読文字の一つである《注》。

     例えば、日本最初の和英辞典とされるJ.C.ヘボンの『和英林語集成』第3版の復刻版(講談社学術文庫)でも、「SUBEKARAKU スベカラク 須」の項目で、“Well or proper to do, ought, necessary, requisite ”と英文で語義が示され、続いて「Subekaraku kokoro wo kore ni mochiyu beshi」と日本語の例文が“ヘボン式ローマ字”で挙げられている。「すべからく」の後は「べし」だ。再読文字の原則にきちんと則っている。

     金田一氏の上記の文は「べし」も「べき」もない。外形的にはおかしい。しかし、何事も原則通りにはいかない。まして言語は変化するものであり、例外も多い。

     日本最大の国語辞書『日本国語大辞典』第2版(小学館)の「すべからく」の項は、37行にわたって詳述されているが、その中の語誌欄に、

「須」を訓読する際に生じた語。中古(平安時代)初期には単に「べし」とだけ読まれる例が多かったので用例が少ないが、中期以後盛んに用いられるようになった。「べし」のほか、「む」や命令表現で再読する例もみられる。

とある。「べし」のほかに命令表現で再読する例もあるというのだ。「綴れ」はまさに命令表現。となれば、金田一氏の上記の文はなんの問題もない。一知半解の不明を恥じるばかりだ。

     ちなみに、『日本国語大辞典』第1版の編集委員には、金田一春彦氏が名を連ねており、編集顧問として氏の父・金田一京助の名があった。


《注》 『社会人のための漢詩漢文小百科』(大修館)は、「漢字一字で、国語の副詞的な意味と助動詞または動詞的な意味とを兼ね備えている文字」と解説した上で、「はじめに副詞的に読んでおいて、さらに下から返って助動詞または動詞的に読む」と説明している。


「すべからく」は「全て」ではない(06/11/10)

2006-11-10 21:55:50 | 辞典
    文筆を業としているような人でもうっかり間違えて使う言葉の一つに「すべからく」がある。漢字では「須らく」あるいは「須く」と表記する。元々は漢文訓読から生まれた用法で「すべからく~すべし」と使う。「当然(あるいは、為すべきこととして)~しなければならない」という意味だ。「学生はすべからく勉強すべきである」といった具合に用いられる。

    ところが、この「すべからく」を「すべて」のという意味の高級な、あるいは高尚な表現と思いこんで誤用している例が目立つ。よく引き合いに出される「学生は……」という上記の例文のように、「すべて」の意味でもごく自然に通じるケースが多いからだろう。実際、両様にとれる文脈も少なくない。だからというわけではないが、私自身も若い頃、「すべて」の意味で使ったことがあるような気がするが、「すべからく」には「すべて」の意味はまったくない。

    言葉についての造詣が深い呉智英氏や高島俊男氏は、それぞれの著作の中で高名な学者・評論家の実名を挙げて「すべからく」の誤用例を指摘しているが、私が自分で見つけた、誤用ではないかと思われる例を一つだけ挙げてみよう。

    それは、直木賞受賞者というより当代きっての流行作家・渡辺淳一氏の『創作の現場から』(集英社)のこんな一節だ。「はっきりいって小説家に限らず表現者たるものはすべからく、時代に合わせたいと思っているものです」。

    「すべからく」は下に「べし」や「べきだ」を伴って“義務”や“当然”、“必要”を表すのが普通の語法なのに、渡辺氏のこの文には、「すべからく」に呼応する「べし」や「べきだ」という語もないので、「表現者たるものすべて」の“願望”を示しているものと思われる。文体が「です、ます調」だから、あるいは口述筆記をして編集者が誤ったのかもしれないが、本のオビに「小説をどう書いてきたか。小説はどう書けばよいか。」とあるのは皮肉だ。

    「すべからく」という語を国語辞典はどう扱っているか。ここ数年の間に刊行された新しい辞書の中には、誤用について注意を喚起しているものも出てきた。『明鏡国語辞典』(大修館)の場合、「語法」欄に
「落ち武者たちはすべからく討ち死にした」など、「すべて」の意に解するのは誤り。
と解説している。

     また、先月下旬に発売されたばかりの『大辞林』第3版(三省堂)も、言葉の由来と語釈《注》の後に、第2版にはなかった次のような注記を添えている。
(近年「各ランナーはすべからく完走した」などと「すべて」の意で用いる場合があるが、誤り)

      前回、前々回で紹介したように辞書にも時に間違いはあるが、それでもなお、文章を書く者の最低限の心構えとしてすべからく座右に辞書を備えておくべし、と今改めて思う。


《注》[漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)の約。下に「べし」が来ることが多い]ぜひともしなければならないという意を表す。当然。「学生はすべからく勉強すべし」(古くは「すべからくは」の形でも用いられた]

《補足》「すべからく」の語の文法的な解析について『日本国語大辞典』第2版(小学館)は次のように記述している。
     [サ変動詞「す」に、推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる]
     
     

続・辞書の「誤謬」(06/10/30)

2006-10-30 16:38:30 | 辞典
    英語には「リンカーン大統領は何代目か」と直截簡明に「何代目か」を尋ねる言い回しはない、という。本の題名は忘れたが、英語のネイティブスピーカーで日本語にも堪能な外国人の著作にそんな内容が書いてあるのを読んだことがある。そう言えば高島俊男氏の『お言葉ですが……』シリーズ⑤(文春文庫)に、同じテーマを軽妙な筆致で扱っていたのを思い出し、数種類の和英辞典にあたってみた。

    その一つ、ソニーの電子辞書《注1》に搭載の『新和英中辞典』第4版(研究社)には、「リンカーン大統領は何代目のアメリカの大統領ですか――16代目です」という文例の日本語の後に“How many presidents were there before Lincoln?”という英語が載っている。「リンカーンの前には何人の大統領がいたか」というのだからいかにも回りくどく、とうてい“直截簡明”とは言い難いが、質問の意味は通る。しかし、ここで取り上げたのは、質問の仕方についてではない。辞典の答えに「誤謬」があったからである。

    例文にある答えの英文は、なんと“Sixteen”、つまり「16人」だ。しかし、これではリンカーンは16代目ではなく17代目の大統領になってしまう。質問の英文に対する答えとしては“Fifteen”でなければならないところだ。

    おそらく日本語の「16」につい引きずられて勘違いしたのだろう。さすがにその後改訂された『新和英中辞典』第5版(2002年9月発行)では、同じ例文の答えの英語の個所は“Fifteen”に直っていた。

    間違いにはあたらないが、本来載せるべき言葉をうっかり欠落したまま刊行された例もある。私の座右の辞書『明鏡国語辞典』(大修館、2002年12月1日初版)には、ほとんどの辞書が見出し項目に立てている「他山の石」という成句が見あたらない。この言葉は、あの『新明解』の主幹を務めた山田忠雄氏が『私の語誌 1』(三省堂)という単行本の中で60㌻近くも割いて多数の用例を詳しく分析したほどの必須語である。「日本語の“達人”になる」を謳い文句にしている『明鏡』が意図的に落とす語とは考えられない。

    案の定と言うべきか、2003年12月1日付け発行の『明鏡国語辞典 携帯版』には新たに「他山の石」の項目が立てられた。出典も含め4行にわたる語義が添えられている。この携帯版、親版より大きさが一回り小ぶりになっただけでページ数はまったく同じなので、2,3の語の語釈を虫食い削りしてスペースを作り出し、押し込んだのだ。ほかのページへ影響が及ばないようある1ページだけの中で処理されており、苦心のほどがうかがわれる。

    何度読み返しても意味がつかめず、首をひねるケースもある。例えば、当ブログ06/10/10号の【辞書の個性】で取り上げた「右」の語義について、『日本国語大辞典』(小学館)は「正面を南に向けたときの西側にあたる側。人体を座標軸にしていう。人体で通常、心臓のある方と反対の側。また、東西に二分したときの西方」と説明している。

    私がひっかかったのは後段の「東西に二分したときの西方」という部分である。東西に二分したのなら、右は「西方」ではなく、「東方」にあたる、としか思えないのだが、今年1月に刊行された『精選版 日本国語大辞典』《注2》でも「東西に二分したときの西方」という記述を踏襲している。「正面を南に向けたとき」という冒頭の説明を前提にした記述というのであれば、「西方」はダブリになるのだから、後段の「東西に二分したときの西方」はまったく不要と思うのだが、あるいは当方の読み方・解釈が間違っているのか。ともかく辞書の語釈として分かりにくい記述だ。


《注1》DIGITAL DATA VIEWER DD-IC2050

《注2》13巻からなる親版(索引を入れると14巻)を全3巻に凝縮して編集。新語や新用例も加えられているが、中身はほとんど親版と同じ。


続・辞書の個性(06/10/20)

2006-10-20 10:20:02 | 辞典
    辞書の個性は、語の定義・語釈だけでなく、用例にも顔を見せることがある。「洒落」(しゃれ)という言葉を例に引くと『岩波国語辞典』(第5版)は、

       【(言葉の同音を利用して)人を笑わせる、気の利いた文句。例、「へたな洒落はやめなしゃれ」の最後の部分が「なされ」とかけてある類。】

と、説明し、あえて?下手な洒落の実例を引き合いに出している。お堅いイメージのある岩波書店の辞典にしては珍しく遊んでいる感じもするが、個性的なことでは比類のない『新明解国語辞典』(三省堂、第5版)はどうかというと、

       【(その場の思いつきとして)類音の語に引っかけて、ちょっとした冗談や機知によってその場の雰囲気を和らげたり、盛り上げたりする言語遊戯。例、潮干狩りに行ったがたいして収穫がなく、「行った甲斐(=貝)がなかったよ」と言うなど。】

という具合で、洒落のレベルでは『岩波国語辞典』より一枚上手だ。

     用例が、どの語についても上記のように個性的というわけではない。いくつかの辞典でまったく同じ用例を挙げているケースもある。

     例えば「回文」(かいぶん)という語の場合。『岩波国語辞典』の定義に従えば、「上から読んでも下から読んでも、同じ言葉になる文句」だ。その用例として同辞典は、有名な「たけやぶやけた」という“文句”を載せている。同じ例文は、『現代国語例解辞典』(小学館)も、『大辞泉』(同)も出している。なんと『新明解国語辞典』も同じ例を挙げているのだ。しかし、「逆さ」、「田植え歌」と別の用例も追加し、独自色をアピールしている。(「たけやぶ……」の例は全文ひらがななのに、追加の例を二つとも漢字かな交じりにしているところに、ある意味が込められているように思える)

     カラー図鑑も兼ねた国語辞典の嚆矢(こうし)とも言うべき『日本語大辞典』(講談社)と、編著者陣が執筆した『問題な日本語』シリーズがベストセラーになって“副業”でも話題を集めている『明鏡国語辞典』(大修館)では、共に「たけやがやけた」という同じ用例を示している。上述の多数派とは「ぶ」が「が」に変わっただけだが、これもまた辞書の個性というべきか。


     〈参考〉「回文」は英語で“palindrome”というが、手元にある英和辞典10種のうち『リーダーズ』(研究社)、『ジーニアス』(大修館)、『新グローバル』(三省堂)など実に8種までもがそろって“Madam, I’m Adam”というまったく同じ用例をあげている(中には、その1例に加えて別の例文や単語を掲げている辞典もある)。
      
      ちなみに英英辞典では、“POD”の愛称で知られるオックスフォードの小型辞書が “nurses run”という文例を挙げている。英語を第二言語としている学習者向けの辞書の中では『ロングマン現代英英辞典(LDOCE)』が“deed”と“level”、『コウビルド英英辞典』が“refer”と、文ではなく単語を例に出している。米国の辞書を代表する『ウエブスター』の用例は、“Madam, I’m Adam”と“Poor Dan is in a droop”の2文だ。

辞書の個性(06/10/10)

2006-10-10 22:10:01 | 辞典
  辞書を使うのは、難しい漢字の書き方や読み方、見慣れない単語の意味を調べる場合だろう。このような「辞書を引く」使い方だけでは、辞書の個性――語釈の違い――にあまり気付かないかもしれないが、辞書を「読んでみる」と、どれも同じように見える辞書に意外と違いがあることを知って驚くに違いない。

  ユニークな語釈で辞書マニアだけでなく、一般にもファンの多い『新明解国語辞典』(山田忠雄主幹、三省堂)=参考サイト。その中でも有名なのは、「恋愛」の項目だ。改訂のたびに語釈の過激度は減り、“穏健”に変わってきているが、それでも最新版の第6版(2005年1月10日第1刷)では、

   【特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分ち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと】

  と独創的な語釈を示している。普通の国語辞典なら「男女間の、恋いしたう愛情。こい」(【岩波国語辞典】第5版)といった程度で済ますところだ。

  辞書の個性は、抽象的な言葉の語釈に表れやすい。例えば「右」という誰もが知っている言葉についての語義が、上記の『新明解国語辞典』と【岩波国語辞典】の二つの辞書でどう違うかみてみよう。

     【アナログ時計の文字盤に向かった時に一時から五時までの表示の有る側(「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致)】=『新明解国語辞典』第5版
    
     【多くの人がはしや金づちやペンなどを持つ方(からだの、心臓が有る方の反対側)】=『新明解国語辞典』第3版

     【相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方、またこの辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う】=【岩波国語辞典】第5版


  辞書によって、あるいは同じ辞書でも改訂版によって、それぞれに工夫が凝らされ、大きな違いがあることがお分かりだろう。



《参考サイト》http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/