言語楼-B級「高等遊民」の戯言

日本語を中心に言葉の周辺を“ペンション族”が散策する。

格言に見る国民性(06/12/30)

2006-12-30 20:11:20 | ことわざ
    前回の「格言の二面性」(06/12/20)の中で、「沈黙は金」の語句に*印をつけたのは、この格言に“金”と“銀”に対する興味深い価値観が隠されているからである。

    「沈黙は金」は、英語の“Speech is silver, silence is golden”(雄弁は銀、沈黙は金)の後半部分から取ったものだ。英国の思想家・歴史家のカーライルの『衣装哲学』にある言葉という。常識的な解釈は、弁舌さわやかに語るよりも沈黙している方が効果的ですぐれている、だろう。日本人の伝統的精神にもピッタリ合う。「言わぬが花」あるいは「多言は一黙にしかず」というわけだ。

    ところが、『岩波ことわざ辞典』の解説を読んで驚いた。実は欧州では19世紀までは実質的に銀本位制で、金より銀の方が価値は高かった、というのだ。つまり、沈黙より雄弁の方が高く評価されていたことになる。

    ある説によれば、この格言の由来は古代ギリシャにまで遡る。当時の雄弁家、デモステネスが「市民諸君、君らも私のように大いにしゃべりたまえ。沈黙は金の価値しかないが、雄弁は銀の価値があるのだ」と演説したことから出たという。この説については、根拠が見つからない、と疑問視する見方もある。ただ、このブログで私が言いたいのは、「雄弁は銀、沈黙は金」という格言の意味が国や歴史によって違うこともあり、必ずしも通説のように解釈されているとは限らない、という点である。

    外国生まれのことわざでは、「転石苔を生ぜず」も国によって180度解釈が違う例の一つだろう。もともとはギリシャ語、ラテン語に由来するそうだが、日本には英語の“A rolling stone gathers no moss”が伝わり、これがいかにも漢語風に翻訳されたものらしい。日本では「職業や住居を変えてばかりいる人は、地位も財産もできず、仕事も成就できない」という意味に取る人が大半と思う。英国も同様のようだ。

    しかし、同じ英語圏でも米国では「いつも積極的に活動していれば、時代が変化しても沈滞することなくいつまでも古くならない」と逆の意味で使われる。NHKのラジオ講座「シニアのためのものしり英語塾」(2006年1月号)のテキストで、英米両国に詳しい講師の大杉正明氏は「動いていれば苔みたいな変なものがつかない。次から次へとよりよい条件の仕事や会社に移っていくアメリカ人ならこう考えても無理ないかという気がします」と述べている。要は、苔をどうみるか、である。味わい深いものとして評価するか、単なる垢(あか)とみなすか。

    「鉄は熱いうちに打て」は英語の“Strike while the iron is hot”を訳した言葉だが、二通りの解釈がある。一つは、鉄は真っ赤に焼けて柔らかいうちなら色々な形に変えることができるところから、「成長した後では思い通りの教育効果も出ないから純真な気持ちを持っている若いうちに鍛えておけ」という意味、もう一つの意味は「新しい物事や仕事を始めるには気持ちがさめないうちに、時機を逸せずに行え」である。前出の『岩波ことわざ辞典』によると、英語には前者のような教育的な教訓の意はなかったそうだ。


《参考サイト》 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/cassandra/cid/10599/
 

格言の二面性(06/12/20)

2006-12-20 12:00:27 | ことわざ
    「好きこそものの上手なれ」という。一方で、「下手の横好き」という言葉もある。趣味の碁で言えば、私の場合は「横好き」の部類だ。格言や諺の二面性はしかし、囲碁に関してのものより人生一般について語ったものに多いのは言うまでもない。

    よく使われる格言では「善は急げ」に対して「急(せ)いては事をし損ずる」とか「急がば回れ」とかの例がある。それじゃ、ゆっくりやるべきなのかどうか、と一人で思い悩むより「三人寄れば文殊の知恵」も出てこようかと何人かに相談すれば、あーでもない、こーでもない、と意見が一致せず、「船頭多くして船山に上る」ことになってしまう。

    「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」の心境で、つい「危ない橋を渡る」気になったが、「鷹は飢えても穂を摘まず」と諭されて慎重を期し「石橋を叩いて」渡った。その結果うまくいったので、「二度あることは三度ある」とばかりに同じ手法で次も試みたが、「柳の下にいつもどじょうはおらず」ガックリ。で、「果報は寝て待て」と無為を決め込んでいたら「まかぬ種は生えぬ」と“天の声”あり。

    やはり「寄らば大樹の陰」が無難か、いやいや「鶏口となるも牛後となるなかれ」というではないか、と思い直してみたりして決断つきかね、「山のことは樵(きこり)に聞け」という教えに従い訪ねてみた。が、意外にも樵は「灯台下暗し」で、その筋には明るくない。あるいは、「言わぬが花(沈黙は金*)」を美学にしているのかもしれないが、「言わねば理(ことわり)も聞こえず」である。

    では、と「血は水よりも濃い」親戚の所にはるばる出向いてはみたものの、期待した答えは得られず、結局は「遠い親戚より近くの他人」の助言で解決した。

    考えてみれば、格言、ことわざに相反するものがあったり、一見似ているようでニュアンスが微妙に違ったりするのは当然だ。人生が公式通りだったとしたら、この世は単純で変化もなく、無味乾燥、面白くもおかしくもない。哲学はもちろんのこと、文学も芸術も科学も存在しなかったであろう。

    「一石二鳥」を狙って成功することもあれば、「二兎追う者は一兎をも得ず」ということもある。1プラス1が必ずしもイコール2になるとは限らない。ある時は8になったり、またある時はマイナスになったりするのが人生だ

    「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という慣用句があるが、生まれで一生が決まってしまうようでは余りに寂しく味気ない。もちろん天才は存在する。同時に「大器晩成」の人もいる。歴史を見ても、ある面では「氏より育ち」で生きてきた市井の人びとが世を創ってきたのだと思う。極論すれば、真の歴史の主(あるじ)は庶民である。格言は庶民の知恵の宝庫。そこに時代を超えた人生の妙味があるのではあるまいか。


《参考》『岩波ことわざ辞典』、『慣用ことわざ辞典』(小学館)、『ベネッセ表現読解国語辞典』、『国語慣用句辞典』(東京堂出版)
 
    このブログの中ほどの段落で「言わぬが花」の後ろの(沈黙は金)に*印をつけた。次回は、この語句を題材の一つにして、ことわざに見る国民性の違いの一端をのぞいてみよう。




囲碁から生まれた格言(06/12/10)

2006-12-10 20:28:29 | ことわざ
    「時分どき」と「つとに」を取り上げた前回のブログは、囲碁の話をマクラに振っただけで、囲碁そのものには触れなかったので、今回は碁にまつわる「ことわざ」を紹介しよう。

    「一目置く」や「定石」「岡目八目(傍目八目)」「駄目押し」。いずれも碁から生まれ、一般にも広く使われている語句だ。囲碁には、とにかく格言、ことわざの類が際だって多いのである。囲碁の勝負、技術に限ってみただけでも――

    まず、基本的な布石の心得を説いた格言としては、「一にアキ隅、二にシマリ(またはカカリ)、三にヒラキ(四ツメ、五トビ)」が知られる。「一にアキ隅」といってもどんな手を打てば良いか。これに対しては「打ち出しはザルといえども小目なり」という戯れ歌まであるが、現在は「星」から始める対戦も多いようだ。

    序盤から中盤にかけては、「攻めはケイマ、逃げは一間」とか「一間飛びに悪手なし」「ケイマの突き出し、悪手の見本」とか「二目の頭は見ずハネよ」「切り違い、一方ノビよ」「左右同形、中央に手あり」などと具体的に石の運び方をアドバイス。中盤の戦術の考え方については、「大場より急場」と足元を固める重要性を指摘した上で「(自分で)厚みを囲うな」、そして「(敵の)厚みに近寄るな」という格言で戒めている。終盤での死活をかけた攻防についても、「一ハネ、二キリ、三にオキ」「2の一に妙手あり」「両先手逃すべからず」とか、「ヘタが打ってもハネツギ6目」と、時にユーモアを交えて勝負所のテクニックを教える格言もある。

    こうした碁の格言が、優に数百はある。格言にしたがって石を置いていけば「一局の碁」になるとさえ思えるが、もちろん、それだけで勝てるほど碁は単純ではない。碁の世界は玄妙にして深淵。しかも、小宇宙にも喩えられるほど広く、盤上の変化は“人智”でははかりきれない。一流の棋士が碁を単なる「知的ゲーム」ではなく、「芸」と表現する由縁だ。従って格言の中身も、どのような角度から碁を見るかによって違ってくる。当然、相反する表現もある。

    例えば、「コスミ」。石を斜めに置くことだ。動詞にすれば「コスむ」。タイミングよく適切な場面で使えば、「コスミの妙手」と評される。中でも有名なのが「秀策のコスミ」だ。江戸時代の本因坊秀策が、隅で受ける手として愛用したことで知られる。その一方で、碁の初心者がこわごわ逃げ出す時などについ使うと、「へぼコスミ」と揶揄される。確かに「じょうずコスまず、へたコスむ」と、格言にもあるのだ。

    また、「眼あり眼なしは唐(カラ)の攻め合い」といいながら「眼あり眼なしも時によりけり」とか、あるいは、「ツケにはハネよ」と「ツケにはノビよ」のようにどちらの戦法を取るべきか迷うような格言もある。要はその時の局面によるわけだ。

    と、書いてくれば囲碁高段者と誤解されそうだが、実はいつまでたっても初段に手が届かない「級位者」である。先日の一泊碁会でも、大石の簡単な死活に最後まで気付かず周りをヤキモキさせたばかりだ。「定石を覚えて2目弱くなり」の格言に掛けて言えば「格言を覚えてもなお勝手読み直らず」のヘボの悲しさ、格言の使い分けができない。

    しかし、格言の二面性は碁に限ったことではない。次回は、一般的な格言について考えてみよう。



藍より青く(06/08/30)

2006-08-30 19:26:50 | ことわざ
  虹の7色の中で思い出しにくい色は「藍」だろう。藍は、国語辞書に「濃く深い青色」とある通り《注1》、つい青色に含めてしまうからに違いない。

   「青は藍より出でて藍より青し」という成句がある。一年草植物の藍の葉(赤みを帯びて黒ずんだ緑色)から取れる染料の青さは、原料よりも濃く鮮やかな色合いをしている、というほどの意味だ。

  この句の一部を題名にしたドラマがある。NHK朝の連続テレビ小説(1972年4月~1973年3月)の「藍より青く」だ《注2》。30年余も前のものなので筋はほとんど覚えていないが、忘れがたいのは、番組のテーマソングだ。

   海よりも空よりも青いきらめきを 
   あこがれて丘に立つ ふたつの心 
   わかちあいし夢あれば 波高く風吹けど 
   目をあげて手をとって この道を行く
という本田路津子の透明感のある、美しく伸びのある歌声が今も耳に残っている。
  
また、主題歌の「耳をすましてごらん」の方もまた素晴らしかった。
    
    耳をすましてごらん あれははるかな海のとどろき 
    めぐり逢い見つめあい 誓いあったあの日から 
    生きるの強く ひとりではないから

  きらめくような美しい旋律に詩情あふれる歌詞。そして清流のように澄んだ歌声。絶妙の組み合わせだ。二つの曲とも作詞は山田太一、作曲は湯浅譲二。ジャケットがすっかり古ぼけたLPをレコードプレーヤーにかけ久しぶりに聴いてみたが、歌の魅力は藍染めと同様少しも色あせていなかった。


   「藍より青く」という成句の原典は中国の戦国時代の儒家、荀子の「勧学篇第一」の冒頭にある言葉だが、この成句の前後の文を少し付け加えると次のようになる。

   「君子曰く、学は以(も)って已(や)むべからず。青は藍より出でて藍より青く、冰(こおり)は水これを為(な)して、水よりも寒(つめた)し」

  自己流に言葉を補って“超訳”してみると――
学問に志す者は、すべからく努力すべきであって、途中で止めてしまうことがあってはならない。青は藍の葉から取るが、原料のままでは染料にならない。人が手間をかけた工程を経てはじめて染料になり、鮮やかな青い染め物が生まれるのだ《注3》。
水は氷からできるが、工夫をこらして温度を下げないと水よりも冷たい氷にはならない。学問の成果は途中の努力いかんにかかっているのである――というような意味になろうか。

    藍を「師匠」に見立てれば、青は「弟子」の関係にあるとも言える。そこから「出藍の誉れ」という言葉が生まれた。弟子が師よりも優れた存在になることの譬えとして引用される定型句だ。弟子であっても努力を重ねて修行すれば、師を超えることができる、というのが本来の意味のはずだが、この言葉の近頃の使い方を見ると、弟子の名声や地位など世俗的な結果だけに重きを置きすぎて、そこに至るまでの努力や工夫《注3》を軽視しているようなニュアンスを感じ、違和感を覚えることもある。師が凡庸であっては弟子がいくら“出世”しても「出藍の誉れ」とは言い難いのではあるまいか。

    ともかく藍を生みの親、育ての師とする青には、関連する色の種類、言葉が豊富だ。「緑なす黒髪」とか、緑の「青信号」とか。青を表わす漢字も多い。次回は青の周辺を探ってみよう。


《注1》 『新明解国語辞典』(三省堂)

《注2》 現在の若い人たちにとっては「藍より……」で反射的に連想するのは、「藍より青し」の方だろう。語尾が「く」と「し」と違うだけでない。1998年から2005年までコミック雑誌に連載され、ドラマやアニメになった作品だそうで、30年余前の朝ドラとはまったく別だ。

《注3》 電子辞書に搭載の『マイペディア』によれば、刈り取った藍の葉を切り刻んで乾燥した後、積み重ねて発酵させる。これを臼でつき固めて藍玉を作り、石灰などを混ぜて加湿するなどの工程を経て染料に仕上げる。この染料に木綿などの繊維を浸して空中にさらすと濃い青色に染まる、という。

《参考文献》 岩波文庫『荀子』(金谷治訳注)、『日本大百科全書』(小学館)、『ベネッセ表現読解国語辞典』、『岩波ことわざ辞典』(時田昌瑞著)、『慣用ことわざ辞典』(小学館)など。


バラの棘(06/07/25)

2006-07-25 22:41:15 | ことわざ
 不可能の代名詞ともいわれた青いバラの開発の成功で、バラは青、赤、黄と絵の具の「三原色」がそろったわけだ。しかも、白ははるか昔からあるので、今後はさらに多彩な色のバラが自在に生まれることが期待されるが、バラの特徴はその美しさの陰に棘(とげ)を持っていることだ。バラの花を国の表象とする英国には、No rose without a thorn(とげのないバラはない=参考)という諺がある。

 バラのことが文献に歴史上初めて登場するのは、古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』と言われるが、その中で、バラは棘のある植物の譬えとして取り上げられている。人を傷つけるもの、という意味合いだ。聖書にも、「彼ら汝らの肋(わき)を刺す茨とならん」(旧約『士師記』=注1)とか、「我は肉体に一つの棘を与えらる。すなわち我を撃つサタンの使いなり」(新約『コリント後書』=注2)とある。どうもバラの棘は、一種の凶器、武器と受け止められていたように思える。

 グリム童話の『いばらひめ』(『眠りの森の姫』)は、姫を求めてイバラの城に入った王子がイバラに引っかかって傷だらけになり、身動きが取れなくなってしまうという物語だ。

 日本では、バラはその昔「ウマラ」、「ウバラ」と呼ばれ、それが「イバラ」、「バラ」に転化したとされる。

 竹林を初めて見た茨城の地は、私にとって第二の故郷とも言うべき所だが、その県名は奇しくもグリム童話の「いばらひめ」が眠っていた"イバラの城"と同じ発想に由来している。奈良時代初期に諸国の地誌、伝説、産物などを編纂した風土記の茨城版ともいうべき『常陸風土記』には、蛮行を繰り返していた賊を退治するため、ウバラで城を築いたことから「茨城」と名付けた、と記述されている(注3)。



《参考》多くの英和辞典は、直訳を掲げた後に意訳も出しているが、その語釈は辞書によってさまざま。
  「世の中に完全な幸福はない」(研究社「リーダーズ英和辞典」)というストレートな訳から「どんな幸福なときにもどこかに悲しみや失望が多少あるものだ」(小学館「プログレッシブ英和中辞典」)や「この世に完全な幸福はない;忍ばねばならない部分がある、の意」(学習研究社「スーパー・アンカー英和辞典」)とかみくだいた説明調、あるいは「どんな幸福にも不幸が伴う」(大修館「ジーニアス英和辞典)といった"両面型"もある。
  ともかく上記の各英和辞典に共通しているのは、バラを幸福の象徴とみなしている点だ。それは、本場・英国の辞書、例えばかなり古い版だが「The Pocket Oxford Dictionary」(第5版)が、"rose without a thorn"の語義を"impossible happiness"(あり得ない幸福)としていることに因ったためだろう。
 ただ、戦前から名著として洛陽の紙価の高い『熟語本位英和中辭典』(岩波書店)と最近の「カレッジライトハウス英和辞典」(研究社)が、共に「楽あれば苦あり」としているほか、「ランダムハウス英和大辞典」(小学館)が「楽は苦の種、苦は楽の種;ままならぬは浮き世の習い」と日本語の諺に置き換えているのが目を引く。私見を言えば「禍福は糾(あざな)える縄の如し」といったところか。
 なお、No rose without a thorn.と同じ意味でEvery rose has its thorn.という英語もある。

《注1》They shall be as thorns in your sides.

《注2》There was given to me a thorn in the flesh, a messenger of Satan to buffet me.          (三省堂『英語イメージ辞典』より)


《注3》或るもの曰へらく、山の佐伯、野の佐伯、自ら賊(あた)の長(おさ)と為(な)り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て、国中を横しまに行き、大(いた)く劫(かす)め殺しき。時に黒坂命(くろさかのみこと)、此の賊を規(はか)り滅ぼさむとて、茨(うばら)を以(も)ちて城(き)を造りき。所以(このゆえ)に、地(くに)の名を便(すなわ)ち茨城(うばらき)と謂(い)ふといひき。