シニアDF柏の最終コーナーばなし

シニアサッカーと数学パズルと海岸とリハビリの周辺事

20170510第6回埼玉スーパーシニア大会@埼玉スタジアムに千葉O-75の初見参

2017-05-13 09:57:59 | 日記

埼玉スタジアム2002で行われる70歳超の大会に参加しました。本年は、千葉から初の75歳超チームとしての参加です(ACちば75)。大会は北は宮城から西は静岡までの21チーム(O-70:15チーム、O-75:6チーム)260名のメンバーが集って15分×2のゲームを各2回楽しみました。80歳超の参加者は約30名、プレーした最高齢者は87才でした。

天候は少雨でしたが、最高のコンディションの芝生の感触を味わいました。小生が監督を務めたアスレチッククラブAC千葉75は、埼玉に0-3、宮城に0-1と連敗でした。残念ですが、12名でお目見えして怪我なしでしたので先ずは合格でしょう。まともにキックができるように日頃の鍛錬が課題です。ACちば70のメンバー有志らと東川口で生ビールを皮切りに気炎を挙げて帰りました。O-75の大会は、これと11月の東日本大会だけです。運営主体の埼玉県シニア関係者に感謝します。

小生はGKで出場しましたが、埼玉のS氏には久しぶりの参加でハットトリックを達成されました。この年齢では本人が健康でも出場できないことがあり得るので、家族の健康にも感謝しなければなりません。

わがチームは、次に11/8-9@那須SPの東日本ロイヤルシニア大会を目指したいと思います。

我が国のサッカーのルーツ

さて、戦前日本サッカーのルーツ話です。昨年末に母校筑波大付高の同窓会館で開催されたサロン2002公開シンポジウム『日本サッカーのルーツを語ろう』に参加しましたが、その報告冊子が送られてきました。サッカーの我が国への導入の話としては、1873年海軍兵学寮で英国人のダグラス少佐が教えたのが始まりと伝えられていますが、普及の原動力となったのは高等師範学校であったという話が聞けたわけです。日本人の初めての対外試合は1904年2月6日の東京高等師範学校vs横濱カントリーアンドアスレチッククラブ(YC&AC)の試合(0対9で高師の負け)であったそうで、このときの主将中村覚之助以後の歴代メンバーが各地に赴任して、その学校にサッカーゴールを設置して行ったという普及史が語られました。それも高師の加納治五郎校長のスポーツ重視方針と蹴球部関係者の人材の地域投入戦略があって、師範学校所在地がサッカー強県に育ったと言う納得のゆく説明が聞けたのでした。今の高校(中学校)レベルでは高師附属中が強豪であった歴史もあります。小生は高師の跡を継ぐ東京教育大附中高出ですが、昭和27年中学入学時に各クラスにサッカーボール1個ずつが配給されて、「休み時間はサッカーで遊びなさい」と言われ、驚いた事を覚えています。中学から大学まで器械体操部に所属しましたが、遊びのサッカーが身について、職場チームからこの78才までサッカーで遊べることになりました。当日YC&ACの役員の方の挨拶があったのも驚きでした。

シンポジウム当日は、職場の同僚と所属クラブの一つ浦安シニアの同僚と3人一緒でしたので、帰路途上の本郷で一献傾け、久しぶりに鐘ヶ淵の「はりや」へ回ったのですが、この時初めて年内で店を閉じるお知らせを目にしたのでした。若い頃からの馴染みの店がだんだん無くなっていきます。


元全日本K氏を囲む会

2017-05-02 17:02:09 | 日記

4/28 船橋にてK氏(大学時代から全日本、BKとして42キャップ、ペレやエウゼビオと対した)を囲み5名が集い、58~78才のサッカー談義。氏は動脈へのステント留置・腰椎狭窄の手術を受けてから久しぶりのお目見得で、お元気でしたが2次会は初めて遠慮されました。当然、まだ、球は蹴ってないそうです。

他の5人のメンバーの一人は晩婚の第一子生誕で育児第一、二人は永年の膝関節酷使と付き合い、一人はゲーム中に見えない後方から肩に衝突されて肩甲骨腱板断裂の手術を受けてのリハビリ待機中、最高齢の小生は夜間排尿覚醒2~3回と筋力低下、と言う具合で何らかの機能低下を持ちながら、なんとかスーパーシニア蹴球を続けています。

2次会はいつも寄る老夫婦のやる居酒屋で、歌謡曲で2時間ほど騒いで解散。近頃は、顔見知りの店の主人たちが段々いなくなっています。そういえば、この春は、中高・大学・1~2年・土木工学の同期会が立て続けにあり、顔を合わせると訃報が確認されます。

翌4/29 都賀の兼松Gの芝生手入れのヘルプをやってから30人ほどのACちばの60歳超メンバーで3組のミニゲーム1時間ほどで汗を流した。負傷情報が入り、どうやら5/3のO-75チームの編成が苦しいようです。

昨夜のアルコールの残渣で体が重い。しかしこの状態で体を動かしておかないと試合でひどい目に遭うので頑張るしかない。帰りは、常連K木さんと都賀駅そばの中華で生と紹興酒1本。翌日昼は仕事、注文していた「文学」2012年5-6月号が着便し、夜は疲労困憊を押して漱石がらみの資料整理。