少年3人、ウサギ蹴り殺す サッカー遊び「面白半分やった」
2006年 2月16日 (木) 03:03
東京都江東区の小学校で児童が飼育していたウサギをけり殺し、
運河に捨てたとして、警視庁少年事件課は動物愛護法違反などの疑いで、
同区の無職少年(18)を逮捕、別の窃盗事件で逮捕されたいずれも十八歳の
無職少年二人を追送検した。三人は「ゲームのつもりで面白半分にやった」と供述。
一緒にいたグループの少年一人が「かわいそうだからやめてくれ」
と泣きながら訴えたが聞き入れず、けり続けたという。
調べでは、少年三人は昨年五月八日午前五時ごろ、区立辰巳小に侵入、
小屋で飼育されていたウサギ一匹を持ち去り、校庭や近くの公園でけるなどして殺害。
石を入れたポリ袋に入れ、公園前の運河に捨てた疑い。
公園では約十五分間、ウサギを取り囲み、
逃げようとするとけって虐待を加えていた。
三人はオートバイ盗やひったくりを繰り返していたグループの一員で、
うち二人は同校の卒業生だった。けるのをやめるように訴えた少年は別の小学校で動物の飼育係だったという。少年三人は「最初は面白半分だったがエスカレートしてしまった。サッカーのインサイドキックやボレーシュートのようにけった」と供述しているという。
死んだウサギはオスで名前は「ゆきのすけ」。
辰巳小で約四年前から飼われ、命の大切さの教育にも活用されていた。
「ゆきのすけ」がいなくなってから、児童たちは手作りポスターを周辺に張るなどして
必死に捜した。並木明校長は「子供たちには『いつかは帰ってくる』
『どこかで飼われている』と話していた。非常に残念。それ以上何も言えない」と話した。
不思議だ。私にはわからない。
ウサギの肉を食べるフランス人と、ウサギを蹴り殺した少年たち、何が違うのか。
感傷的になっって、「ウサギはペットだから」というのはたやすい。
ならばインド人にとって神の使いである牛を食べる、世界各国の人々はどうなのか?
文化によって考え方が変わり、罪の基準も変わる。
食肉用とペットによって同じウサギを殺しても、あるものは牧畜業者や美食家であり、
あるものは犯罪者同然の扱いを受ける。
サッカーの起源は、8世紀頃のイングランドで、 戦争で相手国の将軍の首を取ると、勝利の雄叫びと共に切り取った首を蹴って、その勝利を称えたことだという。
なんだか感傷的になりすぎていないだろうか。
そう考えるのは子供たちに失礼だろうか。正しい教育ではないのだろうか。
確かに、大切にしていたペットが死んだら悲しい。
私にも飼い猫が死んで涙した少年時代の思い出がある。
刹那主義者やペシミストではないが、私には真相を告げず「どこかで飼われている」という夢を抱かせている校長先生の方が問題のように感じてしまう。
性悪説を唱える必要はないが、現実は現実として教育したほうが、
免疫や耐性が付き、社会に出たあと、人間としての強さや幅が出るような気もする。
「人間は犬に食われるほど自由だ」
藤原新也は著書のなかでそう言った。
どうも死が消毒されすぎている気がしてならない。
http://www.fujiwarashinya.com
2006年 2月16日 (木) 03:03
東京都江東区の小学校で児童が飼育していたウサギをけり殺し、
運河に捨てたとして、警視庁少年事件課は動物愛護法違反などの疑いで、
同区の無職少年(18)を逮捕、別の窃盗事件で逮捕されたいずれも十八歳の
無職少年二人を追送検した。三人は「ゲームのつもりで面白半分にやった」と供述。
一緒にいたグループの少年一人が「かわいそうだからやめてくれ」
と泣きながら訴えたが聞き入れず、けり続けたという。
調べでは、少年三人は昨年五月八日午前五時ごろ、区立辰巳小に侵入、
小屋で飼育されていたウサギ一匹を持ち去り、校庭や近くの公園でけるなどして殺害。
石を入れたポリ袋に入れ、公園前の運河に捨てた疑い。
公園では約十五分間、ウサギを取り囲み、
逃げようとするとけって虐待を加えていた。
三人はオートバイ盗やひったくりを繰り返していたグループの一員で、
うち二人は同校の卒業生だった。けるのをやめるように訴えた少年は別の小学校で動物の飼育係だったという。少年三人は「最初は面白半分だったがエスカレートしてしまった。サッカーのインサイドキックやボレーシュートのようにけった」と供述しているという。
死んだウサギはオスで名前は「ゆきのすけ」。
辰巳小で約四年前から飼われ、命の大切さの教育にも活用されていた。
「ゆきのすけ」がいなくなってから、児童たちは手作りポスターを周辺に張るなどして
必死に捜した。並木明校長は「子供たちには『いつかは帰ってくる』
『どこかで飼われている』と話していた。非常に残念。それ以上何も言えない」と話した。
不思議だ。私にはわからない。
ウサギの肉を食べるフランス人と、ウサギを蹴り殺した少年たち、何が違うのか。
感傷的になっって、「ウサギはペットだから」というのはたやすい。
ならばインド人にとって神の使いである牛を食べる、世界各国の人々はどうなのか?
文化によって考え方が変わり、罪の基準も変わる。
食肉用とペットによって同じウサギを殺しても、あるものは牧畜業者や美食家であり、
あるものは犯罪者同然の扱いを受ける。
サッカーの起源は、8世紀頃のイングランドで、 戦争で相手国の将軍の首を取ると、勝利の雄叫びと共に切り取った首を蹴って、その勝利を称えたことだという。
なんだか感傷的になりすぎていないだろうか。
そう考えるのは子供たちに失礼だろうか。正しい教育ではないのだろうか。
確かに、大切にしていたペットが死んだら悲しい。
私にも飼い猫が死んで涙した少年時代の思い出がある。
刹那主義者やペシミストではないが、私には真相を告げず「どこかで飼われている」という夢を抱かせている校長先生の方が問題のように感じてしまう。
性悪説を唱える必要はないが、現実は現実として教育したほうが、
免疫や耐性が付き、社会に出たあと、人間としての強さや幅が出るような気もする。
「人間は犬に食われるほど自由だ」
藤原新也は著書のなかでそう言った。
どうも死が消毒されすぎている気がしてならない。
http://www.fujiwarashinya.com