風に訊け

日々の考え、趣味のサッカー、釣り、読書、音楽、アウトドアなどについてエッセイ風に綴りたいと思います。

ペットと家畜

2006年04月12日 | 釣り
少年3人、ウサギ蹴り殺す サッカー遊び「面白半分やった」
2006年 2月16日 (木) 03:03

東京都江東区の小学校で児童が飼育していたウサギをけり殺し、
運河に捨てたとして、警視庁少年事件課は動物愛護法違反などの疑いで、
同区の無職少年(18)を逮捕、別の窃盗事件で逮捕されたいずれも十八歳の
無職少年二人を追送検した。三人は「ゲームのつもりで面白半分にやった」と供述。
一緒にいたグループの少年一人が「かわいそうだからやめてくれ」
と泣きながら訴えたが聞き入れず、けり続けたという。

調べでは、少年三人は昨年五月八日午前五時ごろ、区立辰巳小に侵入、
小屋で飼育されていたウサギ一匹を持ち去り、校庭や近くの公園でけるなどして殺害。
石を入れたポリ袋に入れ、公園前の運河に捨てた疑い。

公園では約十五分間、ウサギを取り囲み、
逃げようとするとけって虐待を加えていた。
三人はオートバイ盗やひったくりを繰り返していたグループの一員で、
うち二人は同校の卒業生だった。けるのをやめるように訴えた少年は別の小学校で動物の飼育係だったという。少年三人は「最初は面白半分だったがエスカレートしてしまった。サッカーのインサイドキックやボレーシュートのようにけった」と供述しているという。


死んだウサギはオスで名前は「ゆきのすけ」。
辰巳小で約四年前から飼われ、命の大切さの教育にも活用されていた。
「ゆきのすけ」がいなくなってから、児童たちは手作りポスターを周辺に張るなどして
必死に捜した。並木明校長は「子供たちには『いつかは帰ってくる』
『どこかで飼われている』と話していた。非常に残念。それ以上何も言えない」と話した。




不思議だ。私にはわからない。
ウサギの肉を食べるフランス人と、ウサギを蹴り殺した少年たち、何が違うのか。
感傷的になっって、「ウサギはペットだから」というのはたやすい。
ならばインド人にとって神の使いである牛を食べる、世界各国の人々はどうなのか?
文化によって考え方が変わり、罪の基準も変わる。
食肉用とペットによって同じウサギを殺しても、あるものは牧畜業者や美食家であり、
あるものは犯罪者同然の扱いを受ける。


サッカーの起源は、8世紀頃のイングランドで、 戦争で相手国の将軍の首を取ると、勝利の雄叫びと共に切り取った首を蹴って、その勝利を称えたことだという。

なんだか感傷的になりすぎていないだろうか。
そう考えるのは子供たちに失礼だろうか。正しい教育ではないのだろうか。
確かに、大切にしていたペットが死んだら悲しい。
私にも飼い猫が死んで涙した少年時代の思い出がある。

刹那主義者やペシミストではないが、私には真相を告げず「どこかで飼われている」という夢を抱かせている校長先生の方が問題のように感じてしまう。
性悪説を唱える必要はないが、現実は現実として教育したほうが、
免疫や耐性が付き、社会に出たあと、人間としての強さや幅が出るような気もする。

「人間は犬に食われるほど自由だ」
藤原新也は著書のなかでそう言った。
どうも死が消毒されすぎている気がしてならない。
http://www.fujiwarashinya.com


新しいものがよいのか?

2006年04月10日 | 釣り
お蔵入りエッセイ、第3弾。
先日、雑誌のパロディで、バリス・ヒルトンがネコをゴミ箱に入れている写真を見た。写真のキャプションにはこうあった。

「また買えばいいいわ」



世界は新しいものにあふれている。新しいモノは常に、消費され捨てられ、また、新しいモノは生み出される。古いものに価値はないのだろうか? そんなに新しいモノはよいのだろうか?
20世紀は大量生産・大量消費の時代だった。我々は多くのものを生みだし、必要がなくなっては捨てた。
しかし、前世紀の後半から、そんな経済活動にかげりが生じた。科学者によって、だいぶ前から指摘されていたことではあったが、石油をはじめとする化石燃料が底をついてきたのだ。現在、新たな油田も開発されているし、太陽光や風力、地熱などを利用した発電や電気カーなども研究されているので一概にあと何年で燃料や動力がつきるとはいえないが、このままでは確実に使い切ってしまうことは目に見えている。
資源の問題は、燃料だけではない。木材や鉄、無限と思われていた水や空気までも汚染にさらされている。人間が住んでいるのはとてもはかない空間だ。さまざまな条件が整い、奇跡的に生命の存在できる環境があったのがこの地球である。たとえば、両手を広げて直径1メートルの円を作ってみて欲しい。そのとき、地球の直径が約12700kmであるから、大気圏の厚み(100km)はたった8mmしかない。私たち一般人が飛行機で行ける高度(10km)やエベレストの頂上でもわずかに0.8mm前後。海底まで含めてもせいぜい、16mm。ボールペンの線が0.3〜0.5mmであることを考えると、それは非常に薄い膜のようなものである。この地球上のごくわずかな生態系によって守られているのが人類やほかの動植物だ。宇宙からみれば限りなく薄い膜状のエリアで生かされているにすぎない。燃料や食物などの利用できる資源は太陽光などの例外を除けば、ほとんどそのなかにしかない。その薄い膜の中は住居であるとともに、大事な資源を保管している金庫でもある。そんな限定された世界で、つぎつぎとモノを作っては壊し、捨て、消却してきた。
最近、さかんにいわれているキーワードはsustainable(持続可能な)という言葉。持続可能な社会形成が、21世紀の課題なのだ。「使って捨てる」から、「使い続ける」ことへ生活を変えていかなければならない。人間は地球を食いつぶしながら生きているからだ。






昨年秋に最終回を迎えた「北の国から」シリーズ。かつて、こんなシーンがあった。母親の葬儀に出席すべく、富良野から東京へ出てきた、純と蛍。母親の再婚相手はそんな二人のぼろぼろの靴を見て、靴屋へ連れていき、父さん(五郎)への後ろめたさと新しいものの誘惑との間でとまどう純と蛍に、強引に靴を買って与える。「そんな汚い靴を履いていたら、母さんだってうかばれないぞ」といって。そして、古い靴は靴屋のゴミ箱へと、まるで汚いものをでも扱うように捨てられてしまう。
仕方なく、買ってもらった新しい靴をはいて葬儀に出席する二人だが、玄関の靴を父さんに見られたら、と気になってしかたない。その夜、二人はこっそりと抜けだし、昨日靴を買った店へと走る。靴屋はすでに閉店していて、二人は店のゴミ捨て場を必死であさりはじめる。パトロール中の警官は二人の姿をみて、「君たちなにをしてるんだ」と怪しむ。たどたどしく事情を説明する二人に警官は、「おまえはそっちを探せ、俺はこっちを探す」と一緒になって探し始める。数分後、靴は発見される。二人は、ほっと安心する。一年前に富良野の靴屋で父さんがやっとの思いで、ワゴンセールの靴を買ってもらったことを思い出す。はじめは、気に入っていなかったその靴は、その後一年間、雨の日も雪の日も兄妹の足下を支え続けてボロボロになっていった。自分の分身のようになったその靴には、新しい靴にはない思い出がたくさん詰まったものだった。二人の兄妹はその靴を決して捨てられなかった。
20世紀後半のアメリカの作家、レイモンド・カーヴァーは“Fires”というエッセイ集のなかでこんなことをいっている。「作家というものは、バカみたい見えるかもしれないが、何かに−それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれないが−ぼーっと見とれるようでなくてはならない。時間を忘れて、純粋な驚きに打たれて」
夕日も、古靴もそこには、単純に視覚に写しだされる美しさ以上に、思いが詰まっているのだ。彼は遅咲きの作家だ。10代後半からずっとブルーカラーの仕事についてきて、材木屋や掃除の仕事まで「生きるために」なんでもしてきた。きっと、仕事帰りにさまざまな思いにとらわれて夕日や、あるいはベッドルームで脱いだばかりの、あちこちすり切れたワークブーツに思いを馳せていたのではないだろうか。
それがいつの間にか、私たちは新しいものにばかり目を向けるようになってしまったのではないだろうか?
デパートにいけば、これを買え、あれを買えとまばゆいばかり。毎日のようにテレビのショッピング番組では新商品の紹介をし、新聞広告にはやはり新商品値下げのチラシが折り込まれ、メールアドレスにまでとどくお買い得情報。そんなにモノを買わなければならないのか?

私たちは、もう一度使い込まれたもののみが持つ、深い味わいや荘重さに気づくべきだ。そこに、思いを馳せる想像力を持つべきだ。想像力は人間を人間らしめるモノ。目の前にあるものに飛びつくのでは、その日暮らしの動物たちと同じ。まだ、あけて2年の21世紀。本当に私たち人類の存在価値が試される時代だ。もう、遅い。悲観的な意見や科学者のデータも聞こえてくる。それはそれでしかと受け止め、では、資源の消費を押さえ、持続可能な社会へと私たちの社会を変えるためには何をすべきか。いつまでたったも変わらない、ひとつの政策を展開するだけでも、数年、いやもっとかかってしまう政府と違い、私たち個人は明日からでも行動できる。余計なもの、無駄なモノは買わない。自然にやさしい商品を手に取る。千里の道も一理から。こうした小さな運動からこそ、子孫たちに誇れる地球を形作ることができるのではないか。